第百八十二話:凱旋
俺の意識が、崩れゆく玉座の間で覚醒してから、どれほどの時間が経っただろうか。
あれは何だったんだろうか。……わからない。気付いたら身体が動いていた。女神の最後の奇跡だったのかもしれない。
奇跡の行使による魂の疲弊は、想像を絶するものだった。一時は、もう二度と指一本動かせないのではないかと思ったほどだ。
だが、俺の隣で、いまだに大の字になって満足げな寝息を立てている、この世界で最も役に立たない勇者よりは、いくらかマシだったらしい。
魔王城からの帰路は、奇妙なほどに静かだった。
あれほど空を覆っていた絶望の残滓は、ハルキの魂が放った最後の光によって、完全に浄化されていた。
俺たちの頭上には、千年ぶりに、雲一つない、どこまでも澄み渡った蒼穹が広がっている。
「……空が、青いですね」
俺の隣を歩いていたリリアナが、不意に呟いた。
その声は、まだどこか現実感を失っているようだった。
「ああ。そうだな」
俺は短く応えながら、彼女の横顔を盗み見る。
彼女がその生涯をかけて捧げてきた信仰は、最後の最後で、最悪の形で裏切られた。祈るべき神は、もういない。
それでも、彼女の瞳には、絶望ではなく目の前の世界のあまりにも静かな美しさだけが映っていた。
「ええ。ただ青い。……それだけで、こんなにも、胸が満たされる日が来るとは、思いませんでした」
彼女は、ふわりと聖女のように微笑んだ。
その笑みは、これまでのどんな時よりも、気高く、そして美しく見えた。
行軍の途中、俺たちの前方に、かつて敵として戦った亜人たちの集落が見えてきた。
オーク、ゴブリン、リザードマン。
彼らは、グラズニールの絶対的な支配から解放され、今は、ただ武器も持たず、遠巻きに俺たちの進軍を見つめている。
「ロムグール王よ、いつでも、掃討できるが」
ヴァレンティンが、冷たい声で進言する。
彼の率いる帝国騎士団の一部が、いつでも動けるように静かな殺気を放っていた。
俺は、それを手で制した。
「その必要はない、将軍。戦いは、もう終わった」
「だが、彼奴らは」
「彼らもまた、この長すぎた戦いの、犠牲者だ」
俺がそう言うと、ヴァレンティンは、つまらなそうに鼻を鳴らして引き下がった。
やがて、亜人たちの集落の中から、一人の年老いたオークが進み出て、その場に深く頭を下げた。
それに倣うように、全ての亜人たちが、俺たち――かつての敵であったはずの人間たちに。
俺は、何も言わなかった。ただ、馬上から、静かに、その光景を見つめ返す。
憎しみの連鎖は、ここで断ち切らねばならない。それが、この勝利を得た俺たちの責務だった。
幾日もの過酷な行軍の果てに、俺たちの視界の先に、懐かしい、あの無骨な城壁が見えてきた。
エルヴァン要塞。
大陸の北の守り。そして、この長きに渡る戦いの、始まりの場所。
城壁の上で警戒に当たっていた一人の騎士が、俺たちの、ロムグール王国の旗を認め絶叫した。
「……帰還だ! 陛下が、ご帰還なされたぞーっ!!」
その声を皮切りに、まるで大地そのものが震えるかのような、凄まじい歓声が空へと響き渡った。
要塞の巨大な城門が、ゆっくりと開かれていく。
その先に待っていたのは、涙に濡れ、泥に汚れ、しかし、その瞳に勝利の光を宿した、無数の騎士たちの姿だった。
「陛下!」
その中心から、留守を預かっていた副官たちが、駆け寄ってくる。
「ご無事で……本当によくぞ、ご帰還なされました……!」
副官は、俺の前で、片膝をつきその兜を脱いだ。
その目からは、大粒の涙が止めどなく溢れ落ちている。
「……ああ。帰ってきたぞ。よくぞ、この要塞を、守り抜いてくれた」
俺がそう言うと、彼の背後から騎士たちの嗚咽が、そして雄叫びが、波のように押し寄せた。
俺は、馬上から、共にこの地獄を潜り抜けてきた仲間たちを見渡す。
満身創痍の身体を引きずりながらも、誇らしげに胸を張るバルカス。
その隣で、無言のまま、しかし確かな安堵の表情を浮かべるグレイデン。
彼らもまた、この遠征で多くの部下を失った。だが、その瞳には、絶望ではなく未来を見据える強い光が宿っている。
戦いは、終わったのだ。
誰もが、その重い事実を噛み締めていた。
王都カドアテメへの凱旋は、それからさらに長い旅路を経た後だった。
王城の大広間には、この戦いを共に生き抜いた全ての仲間たちが、再び集っていた。
銀の狼の旗の下、シルヴァント公国の公女セレスティナが美しい瞳を潤ませながら、俺に深々と一礼をする。
「陛下。この度の、貴方様のご尽力、シルヴァント公国、いえ、この大陸に生きる全ての民を代表し、心より、感謝を申し上げます」
「公女殿下、顔を上げてください。これは、俺一人の力ではない。ここにいる、全ての者たちの勝利です」
「……ええ。本当に、そうでございますね」
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、一点の曇りもない笑顔を俺に向けた。
その笑顔を守れたという、その事実だけで俺の心は少しだけ救われたような気がした。
傲岸不遜だったはずの、ガルニア帝国の将軍ヴァレンティンが、今は壁際に静かに佇み、どこか遠い目をしてこの光景を眺めている。
俺が、彼の方へ歩み寄ると、彼は、ふん、と鼻を鳴らした。
「……何だ、ロムグール王よ。勝利の美酒に酔いしれる趣味は、俺にはないぞ」
「そうか。ならば、これからの面倒な戦後処理に、その優秀な頭脳を貸してもらうとしようか」
「……ちっ。それこそごめんだ。俺は、剣を振るうことしかできん、ただの武人だ」
「そうとは思えんがな。帝国のこれからのこと、考えているのだろう?」
俺の言葉にヴァレンティンは、一瞬その鋭い瞳を細めた。
「……さてな。だが、少なくとも、あの皇帝、叔父上が…いや、それだけではないな。“俺たち”が蒔いた種の後始末は、誰かがせねばなるまい」
その声には、諦めとそして彼なりの国への責任感が滲んでいた。
ヴァンドール商業都市同盟の商人たちも、東方諸侯連合の領主たちも、今は、ただそれぞれの立場で、あまりにも大きな勝利と、あまりにも大きな犠牲の重みを噛み締めているようだった。
俺は、玉座の前まで進み出ると、集まった全ての仲間たちへと向き直った。
「皆、聞いてくれ」
俺の声が、水を打ったように静まり返った大広間に響き渡る。
「戦いは、終わった」
たった一言。
その一言を告げるために、俺たちは、一体どれほどのものを失ってきたのだろうか。
「我々は、勝った。だが、その勝利は、数えきれないほどの、尊い犠牲の上に成り立っている。この場にいない全ての英雄たちの魂に、まずは黙祷を捧げたい」
俺は、静かに、目を閉じた。
脳裏に蘇るのは、グレイデンからの報告で聞いた、壮絶な戦い。グラズニールの親衛隊の猛攻の中、俺たち本隊が進む道を、その身を盾として切り開いた騎士たちの姿。
そして、その殿を務め、最後まで屈することなく戦い抜いたという、騎士レナードの壮絶な最期が。
「失われた命を悼もう。だが、決して立ち止まるな。俺たちにはやるべきことがある。この瓦礫の中から新しい世界を、俺たちの手で再建する義務がある」
俺は、目を開き力強く宣言した。
その声は、もはや、ただの小国の王のものではない。
この大陸の、新たな未来をその双肩に背負う覚悟を決めた、一人の男としての誓いの言葉だった。
「これより、ロムグール王国は、この大陸の、全ての民と共に、新たな時代を築くことを、ここに宣言する!」
その言葉を、大広間に集った全ての者たちが、それぞれの思いを胸に静かに聞いていた。
崩壊した魔王城から差し込んだ、あの静かな朝日。
あの光景を、俺は、生涯、忘れることはないだろう。
俺たちの本当の戦いは、あるいは、ここから始まるのかもしれない。
この静寂世界の夜明けと共に。
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