第百八十一話:三つの魂、一つの光
「……知るかよ。でも、腹が減ったら、飯を食う。眠くなったら、寝る。そして、目の前で、誰かが泣いてたら、助ける。……それ以上の、難しいことは、俺には、分かんねえんだよ」
勇者の答え。
それは、世界の理も、神の筋書きも、千年の絶望すらも超越した、あまりにも単純で、あまりにも、本質的な魂の輝きだった。
樹の言葉に、絶望に凍り付いていた玉座の間の空気が、確かに変わった。仲間たちの瞳に、諦めではない、戸惑いと、そして、ほんのわずかな、あり得ないはずの光が宿り始めていた。
その光景を、玉座の主――魔王ヴォルディガーンは、ただ呆然と見つめていた。彼の内でせめぎ合っていた二つの魂は、今、そのベクトルを、一つの場所へと収束させていた。
目の前に立つ、小さな、しかし、あまりにも眩しい光を放つ、もう一人の勇者へと。
千年の絶望に囚われ、自らを犠牲にすることだけが唯一の救済だと信じ込んでいたハルキの魂が、その、あまりにも単純な真理の前に、最後の決断を下そうとしていた。
『ヴォルディガーン、もういいだろ?後は彼らに任せよう』
ハルキの、確かな意志を宿した声が、魔王の肉体の内側から、直接、もう一つの魂へと語りかけた。
だが、原初の魔王は、その提案を、怒りと共に拒絶する。
『いや、俺は、外の大陸のやつらに復讐しないといけないんだ……!俺を、そしてあいつらを認めさせるために……!』
その、あまりにも永い執念に、ハルキは静かに哀しく事実を告げた。
『もうモルガドールも、ヘカテリオンも、フェンリラも、そしてグラズニールももういないんだ、ヴォルディガーン』
『……っ! だからこそだ! 死んでいった仲間たちの無念を、俺が、晴らさなくて、どうする!』
『彼らは、そんなことのために、君に命を託したのか? 違うだろう。彼らは、君に、ただ、生きてほしかっただけだ。……僕も、そうだったように』
その言葉は、千年の憎悪に凝り固まっていた魔王の魂に深く突き刺さった。
脳裏に、忘れたはずの、忘れてはいけなかった光景が、鮮やかに蘇る。
血と錆の匂いがする、外大陸の赤黒い空。二つの月が、不気味に浮かんでいる。
ぱちぱちと音を立てる焚火を囲み、まだ若き日の四天王たちが笑っていた。
「何を難しい顔をしている、我が主よ」
無骨な巨漢、モルガドールが、焼いた骨付き肉を差し出しながら豪快に笑う。
「明日には、我らは塵となっているかもしれん。だが、貴方さえ生きていれば、我らの夢は決して消えん」
無口なヘカテリオンが静かに頷き、勝気なフェンリラが「あたしたちを、信じな!」と胸を叩く。
そして、誰よりも忠実だったグラズニールが、ただ黙って、その背を守るように控えている。
彼らが望んだのは、復讐ではない。ただ、自分たちの王に、生きてその夢を、未来を掴んでほしかっただけなのだ。
『……ああ……ああ……』
ヴォルディガーンの、ハルキと瓜二つの顔から、一筋の血の涙がこぼれ落ちた。
それは、原初の魔王が千年の時を超えて流した、初めての涙だった。
その言葉が、最後の引き金となった。
アレクシオスは、二つの魂の永きに渡る闘争が、今、終わりを告げようとしているのを肌で感じ取っていた。
これが、最後の賭け。
そして、唯一の勝機。
「樹君!!」
アレクシオスの、王としての声が、玉座の間に響き渡る。
それは、もはや軍勢を鼓舞するものではない。
「今から、俺たちの手で、この世界の理を、書き換える! 手を貸してくれ!」
彼は、星詠みの神剣を、天へと高々と掲げた。
その声は、もはや、ただの王のものではない。この世界の運命そのものを、その双肩に背負う覚悟を決めた、一人の男、相馬譲としての、魂の宣言だった。
「樹君! お前の魂を、俺に預けろ!」
「陛下!」
「ハルキ! お前の魂もだ! 千年の絶望も、希望も、その全てを、この剣に注ぎ込め!」
『……ああ!』
三つの、世界の理から外れた、イレギュラーな魂が、今一つになろうとしていた。
アレクシオスは、星詠みの神剣を、天へと突き上げた。その切っ先は、魔王でも、誰でもないこの世界の理そのものへと向けられていた。
蒼銀の光が、アレクシオスの掲げた神剣を中心に、渦を巻いていく。
それは、彼が培ってきた王としての威厳、そして、相馬譲として生きてきた、その全ての記憶と覚悟の結晶。【王の威光】が、もはやスキルという次元を超え、奇跡を成すための、巨大な『器』と化していく。
「【神聖領域】、全開だあああああっ!!」
樹の絶叫と共に、黄金の光が、玉座の間を埋め尽くす。
だがその光は、もはや何かを拒絶する結界ではない。これから生まれ落ちる、新しい世界の理を、優しく包み込み育むための、絶対的な『守り』の聖域だった。
そして、魔王ヴォルディガーンの身体から、眩いばかりの、純白の光が、放たれた。それは、千年の絶望の果てに、ようやく本当の願いを見つけた、勇者ハルキの魂そのものの輝き。
その光は、最後に、千年の時を超えて、ただ一人、彼を待ち続けた賢者へとその視線を向けた。
『……セレヴィア』
その、あまりにも懐かしい声に、セレヴィアは、涙に濡れた顔を上げた。
『……千年間、待たせて、ごめんな。……ありがとう』
その、あまりにも短い、しかし、千年の全てが詰まった言葉を残し、ハルキの魂は、もはや魔王の肉体を必要としないかのように、天へと昇り、そして、アレクシオスが掲げる神剣へと、吸い込まれていった。
彼こそが、新しい世界の理を、その場に繋ぎ止める、最後の『楔』となるために。
蒼銀の器が、黄金の守りが、そして純白の楔が。
三つの魂が、星詠みの神剣の上で、一つに、重なり合った。
「「「―――トリニティ・オーバーライトッ!!」」」
誰が叫んだのか。
あるいは、それは新しく生まれ落ちた、世界の産声だったのかもしれない。
光が、溢れた。
それは、もはや、光という言葉ですら、陳腐に聞こえるほどの絶対的な奔流だった。
アレクシオスの覚悟が、樹の純粋さが、そして、ハルキの願いが一つの意志となって、魔王城を、そして、世界そのものを包み込んでいく。
裂けていた空が、その光に触れた瞬間、音もなく、修復されていく。
漏れ出していた、外の大陸の不吉な気配は浄化され消え失せた。
仲間たちの、絶望に染まった心に、温かい光が染み込んでいく。
それは破壊ではない。
まさしく、世界の理そのものを、より優しくより気高いものへと、「上書き」していく、創世の光景だった。
どれほどの時間が、経ったのだろうか。
永遠にも思えた、その光がゆっくりと収まっていく。
まるで、祝福の光の粒子が、雪のように、きらきらと舞い落ちる中。
玉座の間に、静寂が戻ってきた。
仲間たちが、恐る恐る、その目を開く。
光が完全に晴れた、その玉座の前。
そこに、魔王ヴォルディガーンの姿はなかった。
俺は、まだその場に立っていた。あまりにも膨大な奇跡の行使に、全身の骨が軋み、意識が朦朧とする。だが確かに、この足で立っている。
手にした星詠みの神剣は、その役目を終えたかのように、全ての輝きを失い、ただの古びた剣へと戻っていた。
隣では、全ての力を使い果たした樹君が、大の字になって倒れ、満足そうな寝息を立てていた。
その、あまりにも静かな結末に、誰もが現実感を失っていた。
バルカスは、握りしめていた拳を、ゆっくりと、しかし、どこか戸惑うように解き、呆然と、自らの掌を見つめている。
リリアナは、祈るべき女神がもういないことを知りながらも、ただ、胸の前で十字を切り、涙を流し続けていた。その涙は、悲しみからではない。絶望からでもない。あまりにも巨大な奇跡を目の当たりにし、そして、敬愛する王が、仲間たちが、無事であることへの、純粋な安堵の涙だった。
ヴァレンティンですら、その皮肉な笑みを忘れ、ただ、静かに、光が差し込む天蓋を見上げている。
その、静寂の中心で。
ふわり、と。
魔王が消えたその場所に、淡い光の粒子が集まり始めた。それは、どこまでも温かく、そして優しい光。光は、やがて、一人の、華奢な青年の姿を形作った。
千年の苦しみから解放された、勇者ハルキの魂だった。
彼は、まずすやすやと眠る樹君の顔を、愛おしそうに見つめ、そして、俺へと向き直った。透き通るような光の瞳が穏やかに細められる。
『ありがとう、アレクシオス。そして、相馬譲』
その声は、穏やかな風のように、耳に届いた。
俺は、言葉もなく、ただ、静かに頷いた。
そして、ハルキは、ゆっくりとその視線を、玉座の間の入り口で立ち尽くしている一人の女性へと向けた。
千年の時を、ただ一人、彼を待ち続けた、賢者セレヴィア。
ハルキの光の身体が、彼女の元へと、ふわり、と移動する。
『……セレヴィア』
ハルキの、光の手が、そっと、彼女の頬に触れた。
その手は、彼女の身体をすり抜けてしまう。だが、その温もりは、確かに、彼女の魂に届いていた。
「ハルキ……ハルキぃ……!」
彼女は、その場に崩れ落ち、彼の名を呼びながら泣きじゃくった。千年間、流すことのできなかった、全ての涙を、今、この瞬間に流しきるかのように。
ハルキは、そんな彼女を優しく、そして、どこまでも哀しそうに見守っていた。
やがて、彼の光の身体が、少しずつその輝きを増していく。別れの時が近いことを誰もが悟った。
『僕の魂は、もう、この世界に留まることはできない。だけど、このまま消えるわけにもいかない。僕が、あの女神に代わる、新しい楔となる』
彼の光の粒子が、一つ、また一つと、天へと昇っていく。
『だから僕が、この世界の『循環』の理を内側から支える。もう誰も僕のような哀しい思いをしないように。……それこそが、僕が千年間探し続けていた、本当の戦いの意味なんだと思う』
あまりにも気高い英雄の決断。
ハルキの光が、玉座の間の天井を、そして崩壊した魔王城の瓦礫を、優しくすり抜けていく。それは、一つの巨大な光の柱となって、天へと、どこまでも昇っていった。綻びていた世界の理が、その光に触れ、修復されていくのを、俺たちは肌で感じていた。弱まっていた「大いなる封印」がより強固な形で安定していく。
やがて、光の柱は、完全に空へと溶け込んでいった。
後に残されたのは穏やかな静寂。
ふと俺は、東の空が白み始めていることに気がついた。
崩壊した魔王城の、巨大な壁の裂け目から、一筋の光が差し込んでいる。
朝日だった。
それは、この世界に訪れた、本当の夜明けの光だった。
千年の長きに渡る絶望の夜が、ついに明けたのだ。
その光景に、俺は、ようやく、自らの役目が終わったことを悟り、張り詰めていた意識の糸が、ぷつりと切れるのを感じた。俺の身体は、ゆっくりと大地へと傾いていった。
「陛下!」
「アレクシオス様!」
リリアナとバルカスの、悲痛な叫び声が、遠くに聞こえた気がした。
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