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第百七十九話:女神の消滅

 

 現実世界へ、意識が急速に引き戻される。


 俺の魂は、ハルキの絶望に満ちた精神世界から、混沌の玉座の間へと帰還を果たした。


 ハルキの魂の共鳴に応えるように、目の前の魔王ヴォルディガーンの身を鎧っていた、千年の絶望の凝縮体、『絶望の鎧』が、内側から溢れ出す蒼銀の光によって、ガラスのように砕け散っていく。


 ピシッ、ピキィィィンッ!


 甲高い破壊音と共に、漆黒の鎧が霧散する。ハルキの魂を縛り付けていた最後の枷が、今、完全に解き放たれようとしていた。


 仲間たちの顔に、安堵と、そして勝利への確かな希望の色が浮かぶ。


 鎧が完全に砕け散った、その瞬間。

 玉座の前に立つ青年の姿が、陽炎のように揺らめいた。


 その顔、身体は、紛れもなく魔王ヴォルディガーンのもの。だが、その姿はハルキと瓜二つだった。


 そして今、そのハルキの面影を宿す顔に、安堵に似た穏やかな光が射したかと思えば、次の瞬間には全てを嘲笑うかのような無邪気な残酷さが浮かび、そしてまた、理解不能な現象に対する純粋な困惑へと、目まぐるしく表情が変わる。


「……なんだ、これは……」

 その呟きは、確かにハルキのものだった。


 だが、その声には、千年の時を経た深い疲労と、それとは全く異質な、世界の理そのものを嘲笑うかのような声色が、奇妙に混じり合っていた。


 彼は、自らの両手を見つめ指を開いては握りしめ、まるで初めて見る自分の身体であるかのように、その感触を確かめている。


 だが、それは新たなる、より巨大な絶望の始まりを告げる序曲に過ぎなかった。


 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!


 鎧が完全に砕け散った、まさにその瞬間。

 天変地異が始まった。


 玉座の間そのものが、いや、この世界そのものが、断末魔の悲鳴を上げたのだ。


 黒曜石でできていたはずの天井に、まるで巨大な槌で打ち砕かれたかのように、無数の亀裂が走る。


 その亀裂の向こう側に見えるのは、見慣れた空ではない。赤黒くどこまでも続く絶望の色に染まった、未知の空。


 それは、ハルキの精神世界で見た終焉の谷の空と酷似していた。


 亀裂から、これまで感じたことのない、異質な気配が漏れ出してくる。それは、魔王が放つ邪気とは全く違う、もっと根源的で、世界の理そのものを否定するかのような、冒涜的なまでの「何か」だった。


「な……なんだ、これは!?」

 バルカスが、その歴戦の経験をもってしても理解不能な現象に、戦慄の声を上げる。


「空間が……裂けているのか!?」

 ヴァレンティンもまた、その氷の仮面の下で、隠しようのない動揺を見せていた。


 その、誰もが言葉を失う、絶対的な混沌の中心で。

 一つの、声が響いた。


 それは、誰かの口から発せられたものではない。

 この場にいる、俺、樹、リリアナ、セレヴィア、そして全ての仲間たちの、魂に直接、語りかけてくる声だった。


『―――やだ、もう。ようやく、繋がったじゃないの』


 その声は、鈴を転がすように美しく、しかし、どこまでも間延びした、あまりにも場違いな響きを持っていた。


 俺は、その声の主を知っている。


(……女神、ルミナリナ……!)


『あら、アレクちゃん、ご名答。そうよ、わたくし。いやー、まいった、まいった。ハルキちゃんの魂が解放されかけたせいで、この世界のセキュリティがガバガバになっちゃって。おかげでようやく、わたくしの声も直接届けられるようになったってわけ。まあ、これも、もう最後の最後だけどね』


 その、あまりにも軽い口調とは裏腹に、彼女の声には、神としての存在そのものが、今まさに消えかっているかのような、か細く、そして、儚い響きが混じっていた。


「女神、様……? いったい、何が……」

 リリアナが、天を仰ぎ、震える声で問う。


 その声に、そして、自らの魂に直接響く、そのあまりにも懐かしく、そして憎い気配に、ヴォルディガーン――いや、ハルキの魂が、初めて明確な反応を示した。

 

「……その声……。……女神……ルミナリナ……!」

 彼の顔が、憎悪に歪む。


「貴様か! 貴様が、僕をこんな世界に呼び出し、全てを奪ったんだ! 今更、何をしに……!」

 その怒りの叫びに、女神はどこか哀れむような響きで応えた。


『……ええ、そうよ。ごめんなさいね、ハルキちゃん。そして、あなたたち全員に、今から、この世界の、あまりにも残酷な真実を、告白しなくちゃならないわ』

 彼女は、世界の、救いのない物語を、語り始めた。


『いい? よく聞きなさい、あなたたち。この世界――アルカディア大陸はね、そもそも、わたくしが創った、巨大な『牢獄』なのよ』


「牢獄……ですって?」


『そう。神代の昔、この星には、わたくしが創った『循環』の理とは、全く相容れない、別の理を持つ世界があった。全てを喰らい、全てを奪い合う、『闘争と収斂』の理に支配された、『外の大陸』。そこの連中と、わたくし、それはもう、派手な神々の戦争をやらかしちゃってね。で、辛うじて勝ったはいいんだけど、奴らを完全に消滅させることはできなかった。だから、わたくしは、奴らを大陸ごと、この世界の理から切り離して、封印することにしたの。そのための、蓋であり、鍵であり、そして、巨大な封印装置。それこそが、あなたたちが住む、このアルカディア大陸の、本当の姿よ』


 その、あまりにも壮大な信じがたい告白。

 誰もが言葉を失う。


『そして、千年前。その封印を破って、この世界に侵入してきたのが、あのヴォルディガーンだったってわけ。彼の魂は、このアルカディア大陸とは全く異なる『ルール』で動く存在だったのよ』


「理が、違う……?」


『ええ。だから、このアルカディア大陸の理に属する者では、たとえどれだけ強くても、その魂の根源を断つことはできない。物理的に滅ぼすことはできても、その魂が持つ『収奪』の理そのものを、消滅させることはできないの。だから、わたくしは、どちらの理にも属さない『理の外側からの刃』……すなわち、あなたたちと同じ、異世界の魂を持つ勇者ハルキを召喚するしかなかった。異物をもって異物を制す。それしか、方法がなかったのよ』


 女神の声が、千年の悔恨を滲ませる。


『……だけど、そのハルキちゃんが、最後の最後で、絶望に呑まれちゃった。彼のあまりにも純粋な願いが、ヴォルディガーンの魂と融合して、あの魔王は、全く新しい、そしてもっと厄介な存在へと変貌してしまった。……ここまでは、あなたたちも知っている通りよ』


 女神はそこで一度、言葉を切った。そして、その声には、神としての絶対的な存在であるはずの彼女自身の、深い戸惑いと絶望の色が浮かんだ。


『……でもね。わたくし、間違っていたみたい。今、この瞬間まで、気づかなかった。いいえ、気づきたくなかったのよ』


 彼女の声が、震える。


『わたくしは、信じていた。魔王さえ倒して、このアルカディア大陸の平和を取り戻せば、封印は保たれる、と。だから、千年かけて力を溜め、あなたたちを召喚した。それが、唯一の正しい道だと、信じて疑わなかった。……でも、違ったのよ』


「……どういう、ことですか?」


『ハルキちゃんとヴォルディガーン、二つの魂が融合したことで生まれた、あの存在。あれは、ただの魔王ではなかった。光と闇、両方の属性を併せ持つ、この世界の理から完全に逸脱した、イレギュラーな存在……。その、あまりにも巨大で、矛盾した存在そのものが、皮肉なことに、わたくしの張った封印の、最も脆い部分を、内側から支える、歪な『楔』の役割を、果たしてしまっていたのよ』


「楔……?」


『そう。わたくしの力が、この数万年という気が遠くなるような時間で大きく衰えてしまった今、彼の存在が、図らずも、世界の崩壊を防ぐための、最後の『重し』になっていた。……わたくしは、今、この瞬間まで、その事実に気づかなかった。いいえ、気づこうとしなかった!』


 女神のその絶叫は神のそれではない。自らの、致命的な誤算を、今まさに突きつけられた、ただの哀れな魂の叫びだった。


『アレクちゃん。あなたが、ハルキちゃんの魂を救おうとしたことで、その『楔』が、今、抜け落ちようとしている。世界の理が、綻び、わたくしの力も、もう、限界。……だから、あなたたちには、最後の、究極の選択を、してもらわなくちゃならない』


 女神は、最後の力を振り絞るように告げた。

 その言葉は、救いのない絶望の宣告だった。


『いいこと? もし、このまま、ハルキちゃんの魂が完全に救済され、魔王の力が、この世界から完全に消滅すれば、封印のバランスは完全に崩壊し、裂けた空から、『外の大陸』の連中がなだれ込んでくるでしょう。そうなれば、この世界は、もっと大きな絶望に飲み込まれ、今度こそ本当に終わるわ』


「なっ……!?」


『かと言って、もし、魔王が、このまま、その目的を遂げたとしましょう。彼が望む『完全なる静寂』。それは、この世界の、全ての生命活動の停止を意味する。そうなれば、このアルカディア大陸の理である『循環』もまた、完全に停止する。それは、この理そのものの『死』を意味するの』


『当然、『大いなる封印』も、完全に解き放たれる。結果は、同じことよ』


『―――ハルキを救い、魔王を完全に消滅させれば、封印は破れる』


『―――魔王に世界を委ねても、封印は破れる』


『どちらを選んでも、この世界は……滅びるの』


 あまりにも残酷な真実。

 希望の光を掴み取ったはずの、その指先が、今、絶望の淵へと突き落とされた。


「……なんだよ、それ……」

 か細い声は樹のものだった。

 彼は、腰を抜かし、その場にへたり込んだまま、呆然と裂けた空を見上げている。


「じゃあ、俺たちは……一体、何のために……」


「そんな……。では、我々の戦いは、全て無意味だったと、いうのですか……」

 リリアナが、涙ながらに問う。


 その問いに、女神は、謝罪の念を込めて、この世界の、自らが仕掛けた賭けの、本当の理由を語り始めた。


『……無意味なんかじゃないわ。あなたたちの戦いがなければ、この世界は、とうの昔に、もっと醜い形で終わっていた。……ごめんなさい。わたくしが、もっと、ちゃんとしていれば、こんなことには……』


 女神の声が、震える。


『千年前、わたくしは、ハルキちゃん一人に、全てを背負わせすぎた。だから、彼は壊れてしまった。その反省から、わたくしは、今度こそ、失敗しないための布陣を考えたの。でも、一度勇者を召喚すると、世界の理に大きな負荷がかかってね。再び、あなたたちのようなイレギュラーな魂を呼び寄せるだけの力を溜め込むのに、千年もの時間が必要だったのよ』


「千年……」


『そう。そして、その千年をかけて、わたくしは、あなたたち二人を呼び寄せた。……いいえ、正確には、呼び寄せざるを得なかった、と言うべきかしらね』


 その言葉に、バルカスやヴァレンティンが驚愕の表情で俺を見る。


 女神の声は、俺の最大の秘密を、仲間たちの前で暴き始めた。


『まず、わたくしが最初に声をかけたのは、アレクちゃん、あなたよ。もちろん、「勇者」としてね。あなたの、その異常なまでの魂の強さと問題解決能力は、この詰みきった盤面を覆す、唯一の切り札だと思ったから』


 仲間たちの、驚愕の視線が、俺に突き刺さる。


『でも、あなた、即答で断ったじゃない! 「もう働きたくない」ですって!? 死んでまで社畜はごめんだなんて、神様相手に、よくもまあ、そんなことが言えたものだわ!』


「へ……陛下が……勇者を……?」

 リリアナが、信じられないといった表情で、俺と天を交互に見る。


『そうなのよ! だから、わたくし、困っちゃって。あなたを諦めるわけにはいかないし、かといって、無理やり勇者にしても、どうせサボるに決まってる。だから、わたくしの方から提案したの。「勇者がダメなら、国王はどう? その代わり、あなたの言うことを聞く別の勇者を召喚してあげるから」ってね!』


 そして、女神は、最後に、樹へと向き直った。


『そして、イトゥキちゃん。あなたを召喚したのは……ごめんなさい、正直に言うと、アレクちゃんを転生させるのに、エネルギーをほとんど使い切っちゃって、あなたみたいな、ゴミカスみたいなエネルギー量の魂しか、もう呼べなかったのよ』


「はあ!? ゴミカス!?」


『でもね! それこそが、わたくしの、最後の賭けだったの! ハルキちゃんを蝕んだのは、複雑な、英雄としての絶望だった。だから、今度こそ、そんなものとは無縁な、究極の「盾」が必要だった。あなたの、その空っぽで欲望に忠実で、そして、どうしようもなく善良な魂こそが、千年の絶望を中和できる、唯一の希望だったのよ!』


『わたくしの計画は、完璧なはずだった。イトゥキちゃんが盾となり、そして、アレクちゃんが剣となって、魔王を救済する。そうすれば、あるいは、世界の理を壊さずに済む、と。……でも、ダメだったみたい。わたくしの力が、もう尽きかけている。世界の綻びは、もう止められない』


 女神の声は、もはや、消え入りそうだった。


『……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい、みんな。わたくしが、弱くて、無責任だったばっかりに、あなたたちを、こんな、救いのないゲームに巻き込んでしまって……。ハルキちゃん、アレクちゃん、イトゥキちゃん……。あなたたち異邦の魂に、あまりにも重いものを背負わせてしまったわね……』


 その最後の言葉は、神としての威厳などひとかけらもない、ただの一人の、後悔に満ちた謝罪の言葉だった。


『……さあ……』


『見せてちょうだい、わたくしの、この最悪で最高の賭けが、正しかったということをね』


 その言葉を最後に。

 女神ルミナリナの気配は、この世界から、完全に、そして、永遠に、消滅した。


 後に残されたのは、裂けた空から漏れ出す、異世界の不吉な気配と絶対的な静寂。


 そして、救いようのない、究極の選択を前に、ただ立ち尽くすことしかできない、英雄たちの絶望に満ちた姿だけだった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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