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第百七十八話:魂の対話

 

「いいだろう。そのガラクタが、どれだけ脆いものか、今ここで、証明してあげるよ」


 魔王ヴォルディガーンの、その静かな宣告。それは、これまでのような戯れや観察の響きではなく、純粋な、そして絶対的なまでの殺意に満ちていた。彼の遊びの時間は、終わったのだ。


 その瞬間、玉座の間の空気が死んだ。ヴォルディガーンがその華奢な右手をゆっくりと掲げた時、それまで俺たちを苛んでいた、ただ重いだけのプレッシャーが、明確な形を持つ「死」そのものへと変質した。


 彼の両手に渦巻いていた黒い雷は、まるで夜空の全てを吸い込んだかのように一点へと収束し、光すら捻じ曲げる漆黒の槍を形成していく。


「ぐっ……うわあああああっ!」


 隣で、樹君が血反吐を吐きながら絶叫した。彼が必死に維持する【神聖領域】が、槍が形成される余波だけで、まるで薄いガラスのように軋み、無数の亀裂を走らせる。


 黄金の光のドームは、いつ砕け散ってもおかしくないほどに明滅を繰り返し、俺が必死に注ぎ込む【王の威光】ですら、その崩壊をわずかに遅らせるのがやっとだった。


(まずい……! あれは、防げない!)


 俺の【絶対分析】が、「解析不能」ではなく、明確な「死」という二文字。


 あの槍は、物理的な破壊ではない。因果律そのものに干渉し、対象の存在を「無かったこと」にする、神の御業に等しい一撃。


 樹君の聖域がどれほど強固であろうと、その概念の前には意味をなさない。


 ヴォルディガーンは、完成した漆黒の槍を手に、俺たちを見下ろした。その瞳には、もはや好奇の色はない。ただ、邪魔なゴミを掃除する前の、無感情な色だけが浮かんでいた。


 後方では、仲間たちが、ヴォルディガーンの絶対的な力によって、魂ごと床に縫い付けられている。


 彼らは、自らの無力さに歯噛みしながら、ただ俺たちを見守ることしかできない。希望の最後の砦が、目の前で崩れ落ちていくのを。


(普通の攻撃は、おそらく意味をなさない。セレヴィアの、あの神の御業ですら無効化されたのだ。ならば、どうする? このまま、樹君の聖域が破られるのを待つだけか?)


 いや、違う。

 道は、一つだけ残されている。


 あの時、ヤシマの「千年の門」で、俺自身が覚悟を決めた道。

 俺の武器は、剣でも、魔法でもない。俺が、この世界の理から外れた「イレギュラー」であること。そして、その魂の根源に、ハルキと同じ世界の記憶を持つ「相馬譲」がいることだ。


(……賭けるしかない。この鎧の内側、奴の魂の根源に、直接アクセスする。ハルキの絶望に、俺自身の魂で、対話するんだ)


 それは、常識で考えれば、狂気の沙汰だった。敵の精神世界に、自ら飛び込むなど自殺行為に等しい。だが、この絶望的な盤面を覆すには、常識を捨てるしかない。


「樹君!」

俺は、隣で必死に聖域を維持する少年の名を呼んだ。


「俺を、信じられるか?」


「はぁ!? 王様、何言って……!」


「いいから答えろ!」


「……わ、分かんねえよ! でも、あんたが、俺を信じてくれたのは、分かってる……!」


「なら、十分だ。今から俺の意識は、ここからなくなる。俺の肉体は、完全に無防備になる。だから頼む。俺が戻ってくるまで、何があってもこの聖域を解くな。お前が俺たちの最後の盾だ」


 俺の、その言葉の真意を、樹は理解できなかっただろう。だが、彼は、俺のその真剣な瞳に、何かを感じ取ったのか、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、それでも力強く頷いた。


「……分かったよ。あんたが戻ってくるまで、絶対に、守ってやる……!」


 俺は、その言葉を信じた。そして、覚悟を決める。


 ヴォルディガーンが、その漆黒の槍を、無造作に、しかし、抗いがたい速度で振り下ろそうとした、まさにその瞬間。


 俺は、樹君の聖域から、一歩前に踏み出した。


(ここだッ!)


 俺の意識は、底なしの沼へと沈んでいくようだった。


 現実世界の喧騒が、急速に遠のいていく。仲間たちの声、魔王の咆哮、そして、自らの心臓の鼓動すらも。


(……頼む!あのときのように!!)


 五感が奪われ、ただ純粋な「意識」だけが、星詠みの神剣がこじ開けた絶望の鎧の亀裂へと、凄まじい勢いで吸い込まれていく。


 時間と空間の感覚が消失する。どれほどの時間が経ったのか。一瞬か、あるいは永遠か。


 やがて、俺の意識が再び輪郭を取り戻した時、そこに、あの混沌とした玉座の間はなかった。


 代わりに広がっていたのは、空だった。


 血のように赤黒く、そして、どこまでも続く絶望の色に染まった空。大地はひび割れ、至る所で黒い煙が立ち上っている。空気は、鉄と、血と、そして魂が焼ける匂いで満ちていた。


 終焉の谷。


 千年前、勇者ハルキが、その最後の戦いに挑んだ場所。


 俺は、セレヴィアの記憶共有によって、一度だけこの光景を見たことがある。だが、あの時はあくまで安全な場所からの「観測」だった。


 今は違う。この場の絶望が、肌を刺す風が、そして、大地に染み付いた無数の魂の叫びが、五感を通じて俺の精神を直接蝕んでくる。


 俺は、王としてではない、ただ一人の人間としての本能的な恐怖に、奥歯をギリリと噛み締めた。


 その、地獄絵図の中心に彼はいた。


 少し癖のある黒髪に、旅の汚れが染み付いた、使い古された勇者の装束。その手には、かつて神剣だったものが力なく握られている。


 勇者ハルキ。


 その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。仲間を失った悲しみも、世界への怒りも、全てが燃え尽きた後に残る、完全な虚無。


 そのあまりにも深く、あまりにも哀しい瞳が、静かに俺を捉えていた。


「……何をしに来た」


 ハルキの魂が、声なき声で、俺の意識に直接語りかけてくる。その響きは、千年の孤独によって、完全に色を失っていた。


「僕の静かな眠りを邪魔する、新しい虫けらか。ご苦労なことだ。……その剣、懐かしい匂いがする。君も、あの身勝手な女神に騙され、全てを奪われた哀れな道化なのかい?」


 その言葉には侮蔑と、そして同類に対する憐れみが、入り混じっていた。


 俺は、彼の絶望を前に、言葉を失いかけた。だが、ここで呑まれては終わりだ。俺は、この魂を救うためにここに来たのだ。


「俺は、アレクシオス・フォン・ロムグール。ロムグール王国の王だ。そして、お前が遺したこの神剣を受け継いだ者だ」


 俺は、腰に佩いた星詠みの神剣の柄を強く握りしめた。その俺の言葉に応えるように、剣がハルキ自身の善性の光を、蒼銀の輝きとなって微かに放つ。


 その光を見た瞬間、ハルキの虚ろだった瞳が激しい憎悪の色に染まった。


「その剣を、その汚れた手で握るなッ!!」


 絶叫と共に、精神世界が揺れた。


 ひび割れた大地から、黒い影の手が無数に伸びてくる。それは、千年前、この地で死んでいった、ハルキの仲間たちの絶望の記憶。


『行け、ハルキ! 俺の背中が、お前たちの最後の盾だ!』


『泣くな、勇者様よ。女の前で、みっともない顔をするな』


『ハルキ……僕らの、希望……』


 声が、記憶が、俺の魂を直接苛む。


 仲間を救えなかった無力感。


 託された希望の重圧。


 そして、その全てを裏切ってしまったという、罪悪感。


 千年間、ハルキがたった一人で味わい続けてきた、終わりのない地獄。


「お前に、何が分かる!」


 ハルキの絶叫が、再び響き渡る。


「王だと? 神剣の継承者だと? ふざけるな! お前も、どうせ、女神の都合のいい駒だろうが! 民に祭り上げられ、英雄だと嘯き、そして最後には全てを失って、絶望の中に独りで死んでいくんだ! 僕がそうだったように!」


 彼の絶望が、物理的な力となって俺に襲いかかる。


 だが俺は、その絶望の奔流を、ただ黙って受け止めた。俺自身のスキル、【王の威光】が、蒼銀の光となって、その精神攻撃をかろうじて中和していく。


 俺は、ハルキの絶望を否定しなかった。


「……その通りだ」


 俺は、はっきりと彼の言葉を肯定した。

 俺の、その意外な反応に、ハルキの憎悪に満ちた瞳がわずかに揺らぐ。


「お前の言う通りだ、ハルキ。俺は、王じゃない。少なくとも、生まれながらの王じゃない。そして、勇者でもない」


 俺は、ゆっくりと、王としての仮面を脱ぎ捨てていく。


 アレクシオス・フォン・ロムグールではない。

 ただの相馬譲として。


「俺とお前は、同じ場所から来た。日本からだ」


「……何?」


 ハルキの魂が、初めて、明確な動揺を示した。

 千年の孤独の中で、初めて耳にする、理解不能な、しかし、あまりにも懐かしい響き。


「日本……だと……?」


「ああ。ハルキ、君はいつの時代の人間だ? 俺がいたのは令和。誰もがスマートフォンっていう、手のひらサイズの便利な電話を持って、いつでも世界中と繋がれる。そんな時代だった」


 俺は、語り始めた。

 誰にも、樹にしか話したことのない、俺自身の本当の物語を。


「俺は、その世界で、会社員……。それも超一流と呼ばれる巨大な組織でな。だが、その実態は地獄だった」


 俺の脳裏に、あの蛍光灯が明滅する殺風景なオフィスが蘇る。


「終わらない仕事。無責任な上司。日に日に心を病んで、消えていく同僚。俺は、その中で、ただ歯を食いしばって働き続けた。なぜなら、俺には、それしかできなかったからだ。断れない。逃げ出せない。ただ、押し付けられる仕事を、ひたすらにこなし続ける。それが俺の唯一の存在価値だった」


「いつしか、俺は、陰でこう呼ばれるようになった。『勇者様』、と。もちろん、笑いものさ。『あいつは便利だ』『どんな無茶な仕事も、文句も言わずにやってくれる』。そんな、侮蔑と、憐れみが入り混じった、悪意の称号だ。だが、俺は、それでも働き続けた。期待に応えなければ、俺には価値がないと、そう信じ込んでいたからだ」


 俺の告白に、ハルキは、ただ、黙って耳を傾けていた。


 彼の絶望とは、あまりにも質が違う。英雄の悲劇ではない。ただの、ありふれた現代社会の歯車の、あまりにも矮小、惨めな物語。

 だが、その根底に流れる、一つの感情だけは、同じだった。


「孤独だった」


 俺は、そう言った。


「誰にも、本当の苦しみを理解してもらえなかった。誰も助けてはくれなかった。そして、最後には……俺は、たった一人で、オフィスのデスクで死んだ。過労死だ。誰に看取られることもなく、感謝されることもなく、ただの使い潰された歯車として、あっけなく、な」


 ハルキの瞳が、大きく見開かれた。


 死。


 それは、英雄の、輝かしい死ではない。


 あまりにも無価値で、そして、あまりにも哀しい、死。


「そして、俺は、あの女神に拾われた。お前と同じようにな。無理やり、この世界に連れてこられ、王になれ、と。……俺も最初は、絶望したさ。またか、と。また、誰かの都合で、重い責任を押し付けられるのか、と。死んでまで、社畜を続けなきゃならんのか、と」


 俺は、そこで一度、言葉を切った。


 そして、ハルキの虚ろな瞳を真っ直ぐに見据えた。


「お前の絶望は、お前のものだ。仲間を全て失い、世界に見捨てられた、その痛みは、俺に完全に理解することなどできないだろう。お前の戦いは、あまりにも気高すぎた」


「だがな、ハルキ」


 俺は、一歩、彼へと近づいた。


「理不尽な運命に翻弄され、誰にも理解されず、たった一人で心をすり減らした、その孤独だけは。……その、どうしようもない無力感だけは、俺にも、痛いほど分かる」


 その言葉は、千年の時を超え、ハルキの魂の最も柔らかな部分に届いたのかもしれない。

 彼の憎悪に固まっていた表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。


「……日本」


 ハルキの、か細い声が、響く。


「お前も……日本から……来たのか……?」


 千年の孤独の中で、初めて出会った同郷人。

 その事実は、彼の絶望という名の分厚い氷の壁に、小さいが確かな亀裂を入れた。

 

 河川敷いっぱいの桜


 井戸端で洗濯をする母親たち、縁側で将棋を指すおじさん


 路地裏でメンコやけん玉をする子どもたち


 遠くで聞こえる空襲警報のサイレン


 街は煙に包まれ、家々が赤く燃える


 夜空から落ちてくる鉄の塊


「ああ。そうだ。そして、お前だけじゃない。あの女神は、また同じことを繰り返した。俺の代わりに、田中樹という、もう一人の日本の学生を勇者として召喚した」


「田中樹……」


「そうだ。だが、彼はお前のような英雄じゃない。ただの臆病で、自分勝手で、食い意地の張った、どこにでもいるガキだ。俺は、あいつを見ていると、時々思う。もしお前が勇者という重荷を背負わされず、ただの少年として、この世界に来ていたら。あるいは、あいつのように、ただ泣いて、喚いて、逃げ回って、それなら、誰かに守られて生きていけたのかもしれない、と」


 俺の言葉に、ハルキは言葉を失った。


 彼の脳裏に、自分が背負わされた、あまりにも重い「勇者」という名の宿命が蘇る。


「俺は、お前が背負いきれなかったものを、代わりに背負うと決めた。王として。そして同じように、この理不尽な世界に放り出されたただの男として」


 俺は、星詠みの神剣を、鞘からゆっくりと抜き放った。

 蒼銀の刃が、この絶望に閉ざされた精神世界で、唯一の清浄な光を放つ。


「お前の絶望も、仲間を失った悲しみも、世界を呪った怒りも、その全て俺が引き受ける。だからもういいんだ。もう、お前が一人で戦う必要はない」


 俺は、その神剣を、ハルキの魂へと、ゆっくりと差し出した。

 剣から溢れるのは、ハルキ自身の最後の善性が遺した温かい光。


「帰ってこい、ハルキ。お前の、本当の居場所へ」


 俺の魂からの呼びかけに、ハルキの絶望に染まった魂が激しく揺らめいた。

 彼の虚ろだった瞳から、千年の時を経て一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。


「……僕は……」


 それは、魔王のものでも、絶望した勇者のものでもない。

 ただの、救いを求める、一人の少年のか細い声だった。


「……僕は、ただ、みんなと、笑っていたかっただけ、なんだ……」


 その言葉と共に、ハルキの魂を縛っていた、千年の絶望の枷が、音を立てて砕け散り始めた。

 闇に閉ざされていた精神世界に、まるで夜明けのような、穏やかな光が差し込み始める。

 救済の光が、ついに千年の闇を照らし出したのだ。




 現実世界。

 玉座の間で、仲間たちが固唾をのんで見守る中。

 ヴォルディガーンの身に纏う、最強最悪の「絶望の鎧」が、内側から、蒼銀の光を放ち、ピシ、ピシ、と、無数の亀裂を走らせていた。


 樹が、命を削りながら維持していた黄金の聖域も、もはや限界に近い。

 だが、その彼の目に確かに見えた。


 アレクシオスの意識が、今こちら側へと帰還しようとしているのを。

 その瞳には、先ほどまでとは比較にならない、気高い王の光を宿して。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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