第百七十七話:神剣と黄金の光、千年の絶望
三体の影が、断末魔の叫びと共に霧散していく。後に残されたのは、満身創痍となりながらも、確かに立っている仲間たちの姿だった。彼らは、死力を尽くして、俺たちのための道を切り開いてくれたのだ。
「よし…!」
バルカスが、荒い息をつきながら、魔王へと向き直る。
「陛下! 今こそ、総攻撃を!」
ヴァレンティンも、闇滅隊も最後の戦いへと、その覚悟を固めた。彼らは、この勢いのまま、魔王本体へと最後の突撃を敢行するつもりだった。
だが、その気高い覚悟を、玉座の主は、まるで子供の癇癪でも見るかのように、冷ややかに見下ろしていた。
「……まだ、やる気なんだ。元気だね、君たち」
ヴォルディガーンは、退屈そうに一つため息をついた。
「でも、ここから先は、僕と、僕が選んだ役者だけの舞台だ。……この場に相応しくない者は、退場してもらうよ」
彼が、そう言うと、右手を自らの顔の前に出し、パチン、と軽やかに指を弾いた。
その瞬間、音も、光も、衝撃もなかった。
ただ、玉座の間を満たしていた絶対的な虚無のプレッシャーが、その密度を万倍にも増した。
「なっ……!?」
バルカスの、鋼のような身体が、ギシリ、と音を立てて硬直する。まるで、見えざる万力に全身を締め付けられたかのように、指一本、動かすことができない。
「身体が……動かん……!」
「ぐっ、これは…重力魔術か!? いや、違う!」
「魂が…直接、床に縫い付けられているかのようだ…!」
ヴァレンティンも、リリアナも、闇滅隊の三人も、皆、その場に縫い付けられたかのように、完全に動きを封じられていた。
彼らの、歴戦の肉体も強大な魔力も、この世界の理そのものを捻じ曲げるかのような絶対的な支配の前には、何の意味もなさなかった。
だが、その異常事態の中、動ける者が三名だけいた。
俺、アレクシオス・フォン・ロムグール。
勇者田中樹。
そして、大賢者セレヴィア。
動けなくなった仲間たちが、絶望と、そして最後の希望を込めた眼差しを、俺たちへと向ける。
その視線を受け、セレヴィアが、千年の悔恨を振り払うかのように、一歩、前に進み出た。彼女の虚ろだった瞳には、今、この瞬間のためだけに千年を生きた賢者の、燃えるような覚悟の光が宿っていた。
「陛下、勇者殿。わたくしの魔力を、貴方たちの魂に繋ぎます。千年の時が、無駄ではなかったことを、今ここで証明しましょう」
彼女は、凍てついた玉座の間の空気を震わせ、古代の言語を紡ぎ始める。
それは、もはや魔術の詠唱ではない。世界の理そのものに語りかける、神代の言霊だった。
「【古の英雄の魂魄よ、今こそ共鳴せよ。彼の王に、千年の希望を】!」
セレヴィアの指先から放たれた蒼銀の光が、俺の身体を包み込む。
俺は、腰に佩いた神剣が、自らの心臓と完全に一体化するかのような、強烈な感覚に襲われた。ハルキの哀しみと希望が、より鮮明に、俺の魂に流れ込んでくる。
「【無垢なる聖域に、賢者の守りを。彼の勇者に、不動の心を】!」
次に、黄金の光が樹君を包んだ。
彼は、恐怖に震えながらも、その身体の内側から、温かく、そして揺るぎない力が湧き上がってくるのを感じ、驚きに目を見開いていた。
「そして―――」
セレヴィアは、その両手を、魔王ヴォルディガーンへと向けた。
彼女の全身から、千年間蓄積された、海のように膨大な魔力が、奔流となって溢れ出す。
「―――わたくしの千年の悔恨、その全てを込めて、貴方を縛る闇を祓う!」
彼女が紡ぐのは、神代に一度だけ使われたという、因果律そのものに干渉する究極の浄化魔術。
「【万象消滅・秩序の光】ッ!!」
セレヴィアの手から放たれたのは、もはや光の槍などという生易しいものではなかった。
玉座の間そのものが、純白の光によって消滅し、世界が創生される瞬間の、絶対的な秩序の奔流が、ヴォルディガーン、ただ一点へと殺到した。
それは、悪を滅するのではなく、存在そのものを「無かったこと」にする、神の御業だった。
だが。
光が、収まった時。
ヴォルディガーンは、玉座の前に、静かに立っていた。その身に纏う黒い鎧は、傷一つなく、その子供のような無邪気な笑みも、微塵も崩れてはいない。
「…………」
セレヴィアが、信じられないといった表情で、絶句する。自らの、千年の全てを賭した一撃が、赤子の手をひねるように、完全に無効化されたのだ。
ヴォルディガーンは、そんな彼女を見つめ、心底楽しそうに、そして、どこまでも残酷に、その唇を開いた。その声は、魔王のものか、あるいは千年前の勇者のものか判別がつかなかった。
「……また、逃げるのかい? セレヴィア」
その一言が、彼女の固めた覚悟を、ガラスのように粉々に砕き散らした。
「あ……ぁ……」
脳裏に蘇る、千年前の絶望。
闇に呑まれる親友。
そして、彼を見捨てて逃げ出した、自分自身の醜い姿。
彼女は、その場に泣き崩れた。
(セレヴィアまでが……!)
俺は、奥歯を強く噛み締めた。
最強の賢者が、戦う前に心を折られた。仲間たちは、動けない。希望が、目の前で潰えていく。
俺は、隣でガタガタと震えながらも、必死に剣の柄を握りしめている樹を見た。
もう待ってはいられない。俺が、この膠着状態を、こじ開けるしかない!
「はあああああっ!」
俺は、星詠みの神剣を抜き放ち、ヴォルディガーンへと、ただ真っ直ぐに斬りかかった!
彼から放たれる絶望のオーラが、鉛の壁のように俺の身体にのしかかる。だが、俺は、仲間たちの覚悟を、セレヴィアの涙を、そしてこの世界を救うという王の責務を、全て力に変えて、その壁をこじ開けるように前へ前へと突き進んだ。
そして、ついに俺の神剣の切っ先が、ヴォルディガーンの身に纏う黒く脈打つ鎧に触れた。
その瞬間、ヴォルディガーンの、あの無邪気な笑みがその顔から消えた。
「そんな攻撃で僕が……なに!?」
彼は、信じられないといった表情で、自らの胸に触れている俺の剣を見下ろし、そして、俺の顔を見る。その瞳に浮かんでいたのは、怒りではない。純粋な困惑。
「……なんだ……? この感じは……温かい……?」
その呟きは、魔王のものではなく、彼の魂の奥深くで千年間眠っていた、かつての勇者のものだったのかもしれない。
だが、その、ほんの一瞬の郷愁が、彼の魂を縛る絶望の均衡を、粉々に打ち砕いた。
脳裏に、奔流となって、忘れたはずの記憶が蘇る。焚火を囲む仲間たちの笑い声。自らの背中を信じてくれた友の温もり。そして、彼らが一人、また一人と、血に濡れて倒れていく、あの最後の光景。
「あ……ああ……」
ヴォルディガーンは、自らの頭を抱え、その場にうずくまった。
その顔は、もはや困惑ではない。仲間を救えなかったことへの罪悪感、世界への憎しみ、そして、全てを失ったことへの、耐え難い苦痛に、歪んでいた。
「やめろ……思い出すな……! こんな、ガラクタのような感情は、僕が捨てたはずだ……!」
彼の絶叫。そして、その絶望が、臨界点を超えた瞬間、純粋な、絶対的な怒りへと反転した。
彼は、その怒りの元凶である俺を、血走った目で睨みつけた。
「僕の静寂を乱すな! その汚れた手で、僕に触るなァッ!!」
地を這うような、低い声。
次の瞬間、ヴォルディガーンから、これまでとは比較にならないほど濃密な、純粋な絶望の奔流が、俺めがけて放たれた。それは、もはやオーラではない。魂を直接握り潰し、存在そのものを「無」へと還す、絶対的な破壊の波動だった。
(……防げない!)
死を、覚悟した。
だが、その、絶望の濁流が、俺の身体を呑み込もうとした、その寸前。
俺の前に、一つの、小さな背中が割り込んできた。
「させるかあああああっっ!!」
樹だった。
彼は、恐怖に顔を引きつらせ、涙を流しながらも、その手に持つ聖剣を、ただ俺を守るためだけに、前に突き出していた。
彼の、仲間を守りたいという、ただその純粋な願いだけが、絶望的な状況下で奇跡を呼び起こす。
彼から黄金の光が溢れ出し、小さないが何者にも砕けぬ完璧な盾を形成した。
【神聖領域】
絶望の濁流が、あまりにも小さな黄金の盾に激突する。だが、その絶対的な破壊の波動は、黄金の光に触れた瞬間、まるで雪が解けるように音もなく消滅していった。
「…………」
ヴォルディガーンは、その光景をただ黙って見ていた。彼の怒りは、いつしか消え失せ、その瞳には、まるで玩具に興味を抱いた子供のような、残酷な好奇の色が浮かんでいた。
彼は、俺の持つ過去の「希望」を宿す蒼銀の神剣と、樹が展開した「守護」を体現する黄金の光を、面白そうに見比べると、心底楽しそうに笑った。
「面白い。希望と守護か。どちらも、僕がとうの昔に捨てたガラクタだ」
ヴォルディガーンは、その両手に黒い雷のような凝縮された絶望の魔力を纏わせる。
「いいだろう。そのガラクタが、どれだけ脆いものか、今ここで、証明してあげるよ」
遊びの時間は終わった。
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