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第百七十六話:最後の総力戦

「ちょうどいい。ここで、完全に消してあげよう」


 魔王ヴォルディガーンの、その静かな宣告が、最後の戦いの火蓋を切った。彼が、まるで退屈な芝居の幕を開けるかのように、その華奢な手を軽く振るう。


 その瞬間、玉座の足元に広がる、光を一切反射しない彼の影が、生き物のように蠢き始めた。それは、ただ色が濃くなるのではない。


 黒曜石の床が、粘性のある液体へと変質したかのように、ぶくぶくと、おぞましい気泡を立てて盛り上がり始めたのだ。気泡が弾けるたびに、魂が凍るような、無数の怨嗟の声が、玉座の間に響き渡る。


 やがて、その黒い沼の中心から、三つの巨大な人型が、ゆっくりと、しかし抗いがたい力でせり上がってきた。


 一体は、四本の腕を持つ、山のような巨体。


 影で出来ているはずなのに、その筋肉の隆起が分かるほどに濃密で、その手には、闇そのものを叩き固めたかのような、巨大な四本の戦斧が握られていた。


 ”剛腕”のモルガドール。その影は、ただそこに存在するだけで、空間を歪めるほどの圧を放っていた。


 一体は、しなやかな、獣を思わせる輪郭。


その影の縁は、まるで陽炎のように絶えず揺らめき、その姿を完全には捉えさせない。だが、その両手からは、黒曜石の爪が、剃刀のように鋭く伸びている。


 ”疾風”のフェンリラ。その影は、音もなく、ただ、殺意の気配だけを撒き散らしていた。


 そして、最後の一体は、まるで魔術師のようなローブを纏った、優雅な人影。


 その顔には、嘲笑うかのような、歪な仮面が張り付いている。その手には何もない。だが、その影の周囲には、無数の呪詛の紋様が、紫黒の光を放って明滅していた。


 ”千呪”のヘカテリオン。その影は、ねっとりとした、精神を直接蝕むような、邪悪な魔力を放っていた。


 純粋な絶望と憎悪の記憶だけで構成された、影の化身。死という概念から解き放がれた彼らは、生前よりも、遥かに禍々しい存在となって、俺たちの前に立ちはだかった。


「小賢しい真似を!」


 最初に動いたのは、老獅子バルカスだった。


 彼は、影のモルガドールが、その四本の腕で巨大な戦斧を振りかざすのを見ると、恐怖するどころか、その口元に獰猛な笑みを浮かべた。


「ヴァレンティン殿、闇滅隊の小童ども! このでくの坊は、この老いぼれが引き受けた! 貴様らは、残りの雑魚を片付け、陛下と勇者殿の道を切り拓け!」


「バルカス!?」


 俺の制止の声も聞かず、バルカスは雄叫びを上げ、影のモルガドールへと正面から突撃する。鋼と影がぶつかり合う、凄まじい轟音が玉座の間に響き渡った。


「ぐおおおおおっ! 所詮は影法師か! その程度の振りでは、このバルカスの盾は抜けんぞ!」

 バルカスは、嵐のように繰り出される四本の戦斧の猛攻を、その分厚い肉体と、歴戦の経験だけで編み出された完璧な盾技で、正面から受け止める。


 その一撃一撃が、玉座の間の黒曜石の床を粉砕し、致命的な衝撃波を撒き散らした。


「ファム!」

「言われるまでもねえ!」


 ”疾風”のフェンリラの影が、風のような速さでアレクシオスと樹の死角を狙う。だが、その進路上に、三つの影が音もなく立ちはだかった。闇滅隊のファム、ハヤテ、そしてナシル。


「シズマの仇……!」ハヤテが、憎悪に声を震わせる。


「落ち着け、ハヤテ! そいつは、ただの影だ!」ファムが、冷静に、しかし、その瞳の奥に燃える炎は、誰よりも熱く、シズマの形見である霊刃を抜き放った。


「てめえには、貸しがあるからな。ここで、利子付きで返してもらうぜ!」


「……見えています」

 ナシルが、その手に持つ『真実の鏡』の欠片をかざす。

「右、ハヤテの首筋。上、ボスの心臓。……未来は、我らにあります!」


 影の暗殺者と、影を狩る者たちの、宿命の再戦が始まった。

 フェンリラの影は、予測不能な三次元的な動きで空間を駆け、三人の死角から絶え間なくその爪を繰り出す。だが、その全てが、ナシルの未来予知によって、コンマ数秒早く、ファムとハヤテに伝えられていた。


「ボス、右!」


「ハヤテ、上だ!」


 ナシルの短い指示に、ファムとハヤテは思考を介さず、条件反射のように動く。


 それは、これまでの数多の死線を共に越えてきた、絶対的な信頼関係が成せる、究極の連携だった。


 三人は、シズマの死を乗り越え、より強固な絆で結ばれた一つの刃と化していた。


 そして、”千呪”のヘカテリオンの影は、その冷たい笑みを、因縁の相手へと向けた。


「また会ったね、帝国の将軍殿。今度は、その砕け散ったプライドごと、美しい絶望の芸術に変えてあげようか? 燃え盛る帝都、崩れ落ちる玉座、君を見捨てて死んでいった兵士たちの、怨嗟の声……君の心の中には、素晴らしい芸術の素地がある」


「黙れ、亡霊が」


 帝国の将軍ヴァレンティンは、その挑発に眉一つ動かさず、自らの魔導剣を抜いた。聖都での屈辱は、彼の傲慢さを、より冷徹で、より危険な覚悟へと昇華させていた。


「貴様のくだらん芸術には、飽き飽きしている。今度こそ、その歪な仮面ごと、塵に変えてくれる」


 二人の魔術と策謀が、再び火花を散らす。


 ヘカテリオンの影は、ヴァレンティンの心の弱さを突く、最も残忍な幻術を編み出した。


 燃え盛る帝都、崩れ落ちる皇帝の玉座、そして、彼を見捨てて死んでいった兵士たちの、怨嗟の声。


「リリアナ!」

「はい!」


 その三つの死闘が繰り広げられる中、俺と樹、そして賢者セレヴィアの前を、王国最強の魔術師リリアナが守るように立つ。


「セレヴィア様、どうか魔力の補助を! アレクシオス様たちを、この邪悪な余波からお守りします!」 


「……ええ。分かっています。リリアナ、あなたの魔力は、千年前のわたくしよりも、遥かに、温かい……」


 セレヴィアは、千年の悔恨を振り払うように、杖を握りしめた。


 二人の、大陸でも最高峰の魔術師が、一行を守るための、巨大な聖なる結界を展開し始める。


 戦場は、混沌を極めていた。


 仲間たちが、過去の強敵の幻影を相手に、己の成長と覚悟をぶつけている。


 彼らは、ただの幻影ではない、自分たちの心の弱さの具現でもある敵を、互いに連携し、支え合いながら打ち破っていく。


 やがて、三つの戦場に、同時に決着の時が訪れた。


「おおおおおおっっ!」


 バルカスは、モルガドールの影の、最も単調な攻撃パターンを読み切り、その懐へ潜り込むと、渾身の一撃でその影の核を砕いた。


「シズマ……見ていてくれ!」


 闇滅隊は、三位一体の陣形でフェンリラの影を完全に包囲し、その心臓部に、シズマの形見の霊刃を突き立てた。


「これが、帝国の、誇りだ!」


 そしてヴァレンティンは、ヘカテリオンの影が放った最後の呪詛を、あえてその身に受け、怯んだその一瞬の隙を突き、魔導剣でその頭部を貫いた。


 三体の影が、断末魔の叫びと共に霧散していく。


 後に残されたのは、満身創痍となりながらも、確かに立っている仲間たちの姿だった。彼らは、死力を尽くして、俺たちのための道を切り開いてくれたのだ。


「……陛下」


 バルカスが、荒い息をつきながら、俺を振り返る。

 俺は、その信頼に、力強く頷き返した。そして、隣で、仲間たちの戦いを、固唾をのんで見守っていた樹へと向き直る。


「行くぞ、樹君」


「……おう」


 俺と樹は、仲間たちがその身を賭して開いてくれた道を、魔王ヴォルディガーン本体へと、その最初の一歩を、踏み出した。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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