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第百七十五話:絶望の玉座


 俺たちの目の前に、玉座の間へと続く最後の扉が、重々しい音を立てて、ゆっくりと開かれていった。  


 皆が息を呑むのがわかる。俺自身も、ついにたどり着いたという気持ち、喜び、恐怖、さまざまな思いが駆け巡る。


「おい、王様! いよいよラスボスか! よーし、俺の出番だな! さっさと倒して、祝勝会のステーキ食うぞ!」

 樹の、どこまでも場違いな声。


 俺は、一瞬、こめかみが引きつるのを感じた。リリアナは蒼白になり、バルカスの眉間には深い皺が刻まれている。


 この、魂すら凍てつくような絶対的なプレッシャーを前にして、まだステーキのことしか頭にないのか、と。


 だが、違った。

 俺は、ハッとして彼の顔を見た。


 その声は震えを隠すために、わざと大きく張り上げられている。


 その瞳の奥に、極度の緊張と恐怖を、必死に押し殺し、それでも仲間を鼓舞するために、わざとおどけてみせている、不器用な覚悟の色を、確かに見た。


 こいつ…この場の空気を、和ませるために、あえて…。


 その、あまりにも彼らしくない、しかし、あまりにも彼らしい、英雄の在り方。その不器用な優しさが、逆に、俺たちの極度の緊張を、確かに、ほんの少しだけ和らげてくれたのだ。


「……あぁ、帰ったらとびっきり美味しいステーキを食べよう」

 仲間たち皆が頷く。


 俺は、仲間たちの顔を一人一人見渡した。誰もが満身創痍だ。だが、その瞳には、恐怖を乗り越えた、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。


「……行くぞ」

 俺の、その一言に、仲間たちは、力強く頷いた。


 俺たちは、最後の決戦の舞台へと、その一歩を踏み出した。その先は、絶対的な静寂と虚無に満ちていた。


 広大な、円形の玉座の間。壁も、床も、天井も、全てが光を一切反射しない、磨き上げられた黒曜石で作られている。


 音という音が存在せず、自らの心臓の鼓動だけが、頭蓋の内側で不気味に響いていた。ここは、世界から切り離された、墓標の内部そのものだった。


「なんだよ、ここ……。音が、死んでるみてえだ……」

 樹の呟きが、誰の耳にも届くことなく、虚無の中に吸い込まれて消えていく。


 そして、その広間の中心。


 ただ一つだけ置かれた、巨大な黒曜石を削り出したかのような玉座に、彼は静かに座っていた。


 少し癖のある黒髪に、華奢な体つき。その顔には、人懐こい、どこか少年のような、無邪気な笑みが浮かんでいる。


 魔王ヴォルディガーン。


 その姿は、およそ世界の破壊者とは思えぬほど、穏やかで、そして静かだった。


 だが、その姿を前にして、俺たちは動かなかった、いや、動けなかった。


 彼から放たれる、見えざるプレッシャー。それは魔力や闘気などという生易しいものではない。


 世界の理そのものが、彼の存在を前にして悲鳴を上げているかのような、根源的な歪み。


 希望という概念を喰らい、勇気という感情を凍てつかせる、絶対的な虚無の波動。


 その前に、俺たちが積み上げてきた覚悟も、仲間との絆も、あまりにも脆く、無力に感じられた。


(なんだ……これは……)


 俺のスキル【絶対分析】が、悲鳴を上げていた。


 目の前の存在を解析しようとするたびに、返ってくるのは「理解不能」「測定限界突破」「接触による精神汚染の危険度:最大」という、絶望的な警告の羅列だけだった。


「動け……! なぜだ、身体が、鉛のように……!」

 バルカスの百戦錬磨の魂ですら、本能的な恐怖にその呼吸を乱している。


 リリアナの魔法は、この絶対的な虚無の前では、その輝きを失っていた。


 だが、ただ一人。大賢者セレヴィアだけは、異なる絶望に囚われていた。


(……ハルキ……)


 その姿は、魔王ヴォルディガーンそのものであるはずなのに。退屈そうに頬杖をつく、その仕草が。その口元に浮かぶ、人懐こい笑みが。なぜか、千年前、共に旅をした、あの太陽のように明るかった少年の面影と、寸分違わず重なって見えた。


 その瞳だけは、違った。


 そこにあるべきだった、一点の曇りもない、希望の光はどこにもない。


 代わりに広がっているのは、全てを諦め、全てを拒絶した、底なしの、そして、あまりにも哀しい虚無の色だった。


 彼女の脳裏に、千年前の最後の記憶が、焼きごてのように蘇る。


『―――静かに、なりたいだけだ』


 あの時、彼の背中から感じた、世界そのものへの絶望。仲間を全て失い、たった一人で全てを背負わされた、少年の、あまりにも脆い魂の悲鳴。


 魔王から放たれるプレッシャーは、彼女にとって、ただの威圧ではなかった。それは、千年間、ハルキがたった一人で感じ続けてきた、孤独と絶望の叫びそのものだった。


 その痛みが、彼女の魂を直接苛み、足を大地に縫い付けた。張り詰めた静寂を、魔王の楽しげな声が破った。


「やあ、よく来たね」


 彼は、にこやかに口を開いた。その声は優しく、そして心地よくさえあった。


「君たちが、僕の静寂を邪魔する、最後のノイズかい?」

 誰もが、その絶対的なプレッシャーの前に、言葉を発することができない。


「ふん、ほざけ」

 最初に動いたのは、帝国の将軍ヴァレンティンだった。彼は、その砕け散ったプライドを、最後の闘志へと変え、自らの魔導剣に、ありったけの闇の魔力を込めた。


「静寂だと? 貴様には、永遠の無を与えてやる! 喰らえ、帝国の牙を!」

 彼が放った渾身の魔剣が、黒い閃光となってヴォルディガーンへと迫る。


 だが、その刃は、魔王に届く遥か手前で、まるで陽炎のように音もなく掻き消えた。 

 魔力そのものが、この虚無の空間に喰われたのだ。


「……馬鹿な。我が一撃が……消された、だと……?」

 ヴァレンティンは、信じられないといった表情で、自らの剣を見下ろした。


 その、絶対的な絶望の光景。


 だが、俺は動いた。


 物理的な攻撃が意味をなさないのなら、道は一つしかない。俺は、星詠みの神剣を抜き放ち、その切っ先を、魔王へと向けた。


「ハルキ! 聞こえるか! 千年前の勇者ハルキよ! お前の旅は、まだ終わっていない!」

 俺の、魂からの叫び。


 その言葉に、そして俺が手にする神剣に、ヴォルディガーンの視線が、初めて注がれた。


 彼の、あの無邪気な笑みが、その顔から消えた。


 その瞳に浮かんでいたのは、怒りではない。強い、興味の色。そして、それ以上の、深い侮蔑の色が。


 彼は、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。 


「ああ、それか。僕が捨てた、くだらない感傷の残り滓が」

 その声には、明確な敵意が込められていた。


「ちょうどいい。ここで完全に消してあげよう」

 最終決戦の、火蓋が切られた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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