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第百七十二話:鋼鉄の激突

 

 血と泥、そして鋼の匂いが混じり合い、終焉の谷は巨大な鉄の墓標と化していた。


 グレイデン・アストリアが率いる陽動部隊は、蜂起した亜人たちと共に、グラズニールの親衛隊と壮絶な消耗戦を繰り広げていた。


 だが、それは戦いですらなかった。ただ、圧倒的な物量と統率力の前に、連合軍の命が一方的に削り取られていくだけの、絶望的な時間稼ぎだった。


「右翼、崩れるな! 亜人たちと連携しろ!」


 グレイデンの怒声が飛ぶ。


 オークの族長が雄叫びを上げて親衛隊の一角に突撃するが、黒鉄の盾は微動だにしない。


 逆に、盾の隙間から寸分の狂いもなく突き出された三本の槍が、族長の分厚い胸板を容易く貫いた。


 希望の狼煙であったはずの内なる反乱は、今や、より大きな絶望のための薪と化していた。


 その、地獄の中心に、それは音もなく降臨した。


 それまで丘の上で微動だにしなかった、黒曜石の巨体。”不動”のグラズニール。彼が、ただ戦場の中央に降り立った、その事実だけで、戦場の空気が変わった。


 それまで必死に抵抗していた亜人たちの動きが、ピタリと止まる。彼らの魂に深く刻み込まれた、千年に渡る恐怖。


 その根源たる存在を前に、彼らは武器を取り落とし、ただ、その場にひれ伏すことしかできなかったのだ。戦意は恐怖に塗り潰され、戦線は内側から崩壊を始めた。


「……面白い」


 その混沌の中で、ただ一人、楽しげに笑う男がいた。レナード・フォン・ゲルツ。


 彼は、親衛隊の一人を斬り伏せながら、その血濡れの顔で、巨大な絶望を見上げていた。


「ようやく、大将首のおでましか。本当は、魔王にお返しするつもりだったが仕方ない!こいつで我慢しよう」


「レナード!」


 グレイデンが、その無謀さを諫めるように叫ぶ。だが、レナードは、既に地を蹴っていた。


「退いていろ、北壁の坊主! こいつは、俺の獲物だ!」


 レナードの剣は、ただ敵を屠るための「攻めの剣」。予測不能な軌道を描き、グラズニールの巨体の側面へと回り込むように疾駆する。


 対するグレイデンの剣は、仲間を守るための「守りの剣」。彼はレナードとは対照的に、正面から大地に根を張るように立ち、その大盾を構えてグラズニールの注意を引きつける。


 対照的な二人の騎士。王国のかつての光と影。その二振りの刃が、ただ一つの敵を前に重なり合った。


「そこかァ!」


 レナードの剣が、まるで踊るように閃き、グラズニールの膝の関節部、装甲の僅かな継ぎ目を狙って突き込まれる。だが、グラズニールは腕を動かすことすらせず、ただ脚部の装甲を微かに傾けるだけで、その一撃を滑らせ、弾き返した。


「甘い!」


 その隙を見逃さず、グレイデンが踏み込む。彼の重い剣が、グラズニールの脇腹を薙ぐ。しかし、ゴッという鈍い音と共に、その刃は黒曜石の装甲に浅い傷一つつけることなく弾かれた。


「………………」


 グラズニールの赤い一つ目が、初めて二人を同時に捉えた。彼の巨大な腕が、薙ぎ払うように振るわれる。それは、レナードとグレイデン、二人を同時に射程に収めた一撃だった。


「ちぃっ!」

 レナードは咄嗟に後方へ跳躍して回避する。


「させるか!」

 グレイデンは盾を構え、その一撃を正面から受け止めた。


 凄まじい衝撃が全身を走り、足元の地面に亀裂が入る。だが、彼は歯を食いしばり、その場に踏みとどまった。


「やるな、坊主!」 

 レナードが叫ぶ。


「だが、守ってばかりではジリ貧だぞ!」


 レナードは再び突進する。今度は直線的な攻撃ではない。彼はグラズニールの周りを円を描くように疾走し、その巨体を幻惑するかのように、絶え間なく剣閃を浴びせ続けた。


 キン、キン、と甲高い金属音が連続して響くが、どれも決定打にはならない。


「その隙だ!」


 グレイデンは、レナードの撹乱によって生まれた、ほんの一瞬の隙を突き、グラズニールの背後へと回り込もうとする。

 だが、グラズニールは、まるで背中に目がついているかのように、振り返ることなく、その肘を後方へ突き出した。


 それは、グレイデンの突進の軌道を完璧に予測した、迎撃の一撃だった。


「ぐっ……!?」


 盾でかろうじて防ぐが、グレイデンは数メートルも後方へ吹き飛ばされる。二人の連携は、この機械仕掛けの怪物に、ことごとく読み切られていた。


「くそっ……! この、鉄屑が……!」


 レナードの剣が弾き飛ばされ、がら空きになった胴体に、グラズニールの鉄拳が叩き込まれる。鎧が悲鳴を上げ、彼は血反吐を吐きながら吹き飛ばされた。


「レナード!」


 グレイデンが、咄嗟に彼を庇うように前に出る。その背中に、グラズニールの、情け容赦のない追撃が迫る。


(……ここまで、か)


 誰もが、死を覚悟した。その、まさにその瞬間だった。


「―――まだだ」


 地に膝をついていたはずのレナードが、その口元に、獰猛な、そして、どこか満足げな笑みを浮かべていた。彼は、おもむろに自らの盾を投げ捨て、完全に無防備な姿となった。


「おい、北壁の坊主。よく見ておけ。これこそが、王国の、いや、この俺の剣の真髄だ」


 レナードの身体から、尋常ではない熱気が放たれた。彼の全身の筋肉が、限界を超えて軋む音が聞こえるかのようだった。皮膚の下で血管が怒張し、その顔は常軌を逸した赤黒い色に染まっている。


 それは魔術などという生易しいものではない。ただ、鍛え上げられた肉体が、自らの限界を、意志の力だけで無理やり超えようとする際に発する、純粋な闘気の現れだった。


 彼は、グラズニールが振り下ろす巨大な鉄拳を避けるでもなく、その懐へと、一直線に、人間砲弾となって突進したのだ!


「ぐっ……おおおおおおおっっ!!」


 グラズニールの鉄拳が、レナードの左肩を、鎧ごと無慈悲に砕く。骨が砕ける、鈍い、嫌な音が響き渡った。だが、レナードは止まらない。


 その衝撃と激痛を、全て推進力へと変え、その手に持つ愛剣の切っ先を、ただ一点――グラズニールの胸の中心へと、その体重の全てを乗せて、突き立てた!


 ゴッ、という、これまでとは比較にならない、鈍く、そして重い衝撃音。


 グラズニールの、完璧であったはずの黒曜石の装甲に、初めて、蜘蛛の巣のような、微かな亀裂が走った。


「……へっ。最高の、舞台じゃ……ねえか……」


 レナードは、そう言い残すと、満足げに笑い、自らも鉄拳の衝撃で吹き飛ばされ、その場に崩れ落ちた。


「レナードォォォォッッ!!」


 グレイデンは、絶叫した。憎んでいたはずの男が、自らの命と肉体を賭して、唯一の好機を、作り出した。その、あまりにも気高い魂を、無駄にはできない。


 彼は、今頃、王と共に死地へと向かっているであろう師、バルカスの教えを思い出していた。


『痛みも、絶望も、全てを力に変えてこそ、真の盾となる!』


 グレイデンは、残った全ての力を、その剣先に込めた。狙うは、レナードが穿った、ただ一点の亀裂。


「うおおおおおおおおおおおおっっ!!」


 獅子の、最後の咆哮。それが、鋼鉄の巨人の、その心臓へと、吸い込まれていった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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