第百七十話『内なる反乱』
決戦の朝は、血の匂いではなく、張り詰めた祈りの匂いと共に訪れた。
俺、アレクシオスは、連合軍の本陣から、夜明け前の薄闇に沈む「不動の門」を睨み据えていた。
夜通し続いた作戦会議を経て、我々の覚悟は定まった。だが、それはあまりにも危険で、そしてあまりにも脆い希望に満ちた作戦だった。
「陛下。全軍、配置につきました」
背後から、リリアナの静かな声が響く。
彼女の顔には、これから始まる儀式の重圧からか、疲労の色が濃く浮かんでいたが、その瞳には王国最強の魔術師としての、揺るぎない覚悟が宿っていた。
俺たちの作戦は単純だ。セレヴィアとリリアナ、二人の魔術師が、古代の解放魔術【サンクトゥス・リベラティオ】の儀式を執り行う。
その間、連合軍の全ての戦力は、ただ一点、二人をあらゆる脅威から守り抜くための「盾」に徹する。成功すれば、敵軍は内側から崩壊する。失敗すれば、我々はここで全てを失う。
「ヴァレンティン将軍」
俺は、軍の右翼を預かる帝国の将軍に声をかけた。彼は、腕を組み、忌々しげに不動の門を見つめている。
「儀式の間、右翼の守りは貴殿に一任する。何があっても、持ちこたえてほしい」
「ふん。貴様の甘ったれた博打のせいで、俺の兵を無駄死にさせるなよ」
ヴァレンティンは、俺の顔を見ることなく、そう吐き捨てた。その言葉は、彼なりの覚悟の表明だと、俺には分かった。
夜明けの最初の光が、竜哭山脈の稜線を照らし始めた、その時。
「―――始めます」
セレヴィアの、か細いが、凛とした声が響いた。
彼女とリリアナが、陣形の中央、特別に設えられた祭壇へと進み出る。連合軍の兵士たちが、二人を守るように、幾重にも重なる鋼の壁を形成した。
儀式が始まった。
セレヴィアの唇から、誰も聞いたことのない、複雑で、そして物悲しい響きを持つ、古代の言語が紡ぎ出される。
それに呼応するように、リリアナが杖を高く掲げ、自らの膨大な魔力を、セレヴィアへと注ぎ込んでいく。
二人の足元に、蒼銀と黄金の光が混じり合う、巨大で、そして恐ろしくも美しい魔法陣が展開されていく。
空気が震え、大地が鳴動し、この世界の理そのものが、二人の魔術師の力に捻じ曲げられていくのが、肌で感じられた。
その、あまりにも強大な魔力の奔流に、不動の門の亜人兵士たちが、初めて反応した。彼らは、儀式の中心であるセレヴィアたちを、最大の脅威と認識したのだ。
「グルルルル……!」
雄叫びと共に、壁の上にいた亜人兵士たちが、一斉にこちらへと殺到してくる。
「陣形を崩すな! 何としても、あのお二方を守り抜け!」
バルカスとグレイデンの怒声が飛ぶ。騎士たちは、大盾を構え、その黒鉄の津波を、正面から受け止めた。
大地を揺るがす轟音と共に、血で血を洗う防衛戦の火蓋が切られた。
「第一陣、盾を構えろ! 衝撃に備えよ!」
バルカスの、歴戦の経験に裏打ちされた声が響き渡る。最前列の騎士たちが、鋼鉄の大盾を地面に突き立て、肩を寄せ合い、文字通りの鉄壁を築く。
その直後、呪印に支配されたオーク兵士たちの第一波が、凄まじい勢いで激突した。
ガギンッ!という、耳をつんざく金属音と衝撃。騎士たちの腕が痺れ、足が大地にめり込む。だが、彼らは歯を食いしばり、その場に踏みとどまった。
「怯むな! 盾とはな、ただの鉄と木の塊ではない! 後ろにいる者を守るという、その覚悟の塊だ! 決して、退くな!」
バルカスの咆哮が、騎士たちの心を奮い立たせる。彼らは雄叫びを上げ返し、オークたちの斧を、その身をもって受け止めた。
だが、敵の第二波は、もはや小手先の力押しではなかった。
「……来るぞ! 巨大種だ!」
グレイデンが叫ぶ。
亜人兵士たちの壁を、その巨体で押し分けるように、身の丈が常人の倍はあろうかという、二体のオーガが現れたのだ。その額には、他の者たちよりも一際大きく、禍々しい紫の呪印が刻まれている。
「グルォォォォォォッ!!」
オーガが振り下ろした巨大な棍棒が、騎士たちの盾列の一角を、まるで玩具のように粉砕した。数名の騎士が、悲鳴を上げる間もなく、肉塊へと変わる。
「陣形に穴が開いたぞ! 押し込まれるな!」
「右翼! ヴァレンティン将軍の部隊は何をしている!?」
だが、ヴァレンティンの部隊は動かない。彼は、自らの兵を盾列のやや後方に控えさせ、冷徹な目で戦況を分析していた。
「慌てるな。我が隊の役目は、この甘ったれた騎士様たちが崩れた後の、最後の防衛線だ。無駄死にはせん」
その非情なまでの合理主義。だが、そのおかげで、連合軍はまだ、全軍崩壊という最悪の事態を免れていた。
儀式は、続く。
セレヴィアの詠唱は、ますますその速度と密度を増していく。
彼女の額からは玉のような汗が流れ落ち、その身体は、千年の時を超えた魔術の行使に、悲鳴を上げているようだった。リリアナもまた、自らの魔力が根こそぎ吸い上げられていく感覚に、必死に耐えていた。
(……まだか……! もってくれ……!)
俺は、祈るような思いで、二人を見守ることしかできなかった。
そして、ついに、その瞬間は訪れた。
セレヴィアが、詠唱の最後の言霊を、天へと向かって叫んだ。
「―――【サンクトゥス・リベラティオ】ッ!!」
彼女たちの足元の魔法陣から、全てを洗い流すかのような、清浄な光の津波が、戦場全体へと、放射状に広がっていった。
その光は、物理的な破壊力を持たない。だが、それは、魂に直接届く、赦しと、目覚めの光だった。
光の波が、不動の門を覆い尽くした、その瞬間。
それまで、機械のように、ただひたすらに殺戮を繰り返していた亜人兵士たちの動きが、一斉に、ピタリ、と止まった。
「……ぐ……ぁ……?」
一人のオークの兵士が、自らの、血に濡れた斧を見下ろし、呆然と呟く。彼の額で、不気味に輝いていた『服従の呪印』が、激しく明滅し、その光を失いかけていた。
彼の脳裏に、千年間、忘れていたはずの記憶が、濁流となって蘇る。故郷の谷の匂い。妻の笑顔。そして、自分たちから全てを奪った、魔王への、燃えるような憎しみ。
「……う……おお……」
彼の、虚ろだった瞳に確かな光が宿った。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」
それは、もはや、呪印に操られた獣の咆哮ではない。全てを奪われた、一人の男の、魂からの、怒りの絶叫だった。
彼は、その斧を、連合軍の騎士たちではなく、自らを縛り付けていた、この忌ましい壁そのものへと、力任せに叩きつけた!
その一撃が、狼煙だった。
一人、また一人と、呪いから解放された亜人たちが、武器を捨て、あるいは、自分たちを支配していた魔王軍の陣地へと、その怒りの矛先を向け始める。
グラズニールの、完璧であったはずの盤上が、内側から、最も予測不能な「人の心」という駒によって、崩壊を始めたのだ。
遥か後方、本陣の丘の上で、その光景を、グラズニールは、その赤い一つ目で見下ろしていた。
彼の、機械じみた思考回路が理解不能なバグに遭遇し、激しく明滅する。
俺は、その千載一遇の好機を、見逃さなかった。
「―――今だッ! 全軍、突撃ィィィッ!」
俺の号令が、反撃の合図となった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




