第百六十九話『賢者の覚悟』
惨敗の夜は、連合軍の心を凍てつかせた。
陣営に響くのは、負傷兵の苦悶の呻きと、冷たい風の音だけ。焚火の光が、兵士たちの顔に深い絶望の影を落としていた。
昨日の戦いは、戦いですらなかった。ただ、圧倒的な現実の前に、我々の理想も、武力も、その全てが粉々に打ち砕かれただけだった。
司令部の天幕の中は、外の喧騒が嘘のような、死んだ静寂に支配されていた。作戦卓を囲む指揮官たちの顔には、疲労と、そして拭いきれない無力感が色濃く浮かんでいる。
「言ったはずだ、アレクシオス王。理想には、血の代償が伴う、と」
その沈黙を最初に破ったのは、帝国の将軍ヴァレンティンだった。
彼の声は、氷のように冷たく、一切の感傷を排していた。
「今日、我々が流した血は、貴殿の甘さが招いた、当然の結果だ。これ以上の犠牲を出す前に、非情な殲滅作戦に切り替えるべきだ。それこそが、この軍を率いる者の、唯一の責務ではないのか?」
その冷徹なまでの正論に、誰もが反論の言葉を見つけられない。
皆、自らが守るべき民と重なる亜人たちの姿と、無駄死にさせてしまった部下たちの顔を思い浮かべ、ただ固く拳を握りしめるだけだった。
俺、アレクシオス・フォン・ロムグールは、その全ての視線を一身に受け止めながら、自らの無力さを噛み締めていた。
俺のスキル【絶対分析】は、この状況下で、ただ無慈悲な数字を弾き出すだけだった。
『殲滅作戦遂行時の勝率:78%。ただし、連合軍の士気は崩壊し、内部分裂の可能性92%』
『現行作戦継続時の勝率:10%。友軍の損耗率予測:40%』
どちらを選んでも、待っているのは破滅。答えなど、どこにもなかった。
「……少し、一人にしてくれ」
俺は、絞り出すようにそう言うと、指揮官たちを天幕から下がらせた。一人残された司令部で、俺は地図を睨みつける。だが、いくら盤面を眺めても、この絶望的な状況を覆す一手が見つからない。
(物理的な攻撃も、騎士道精神も、あの呪いの前では無力……。呪い? そうか、敵は兵士ではない。我々が戦うべきは、彼らの魂を蝕む『呪い』そのものだ!)
その思考にたどり着いた瞬間、天幕の入り口が静かに開いた。リリアナと、そして、これまでただ静かに戦況を見つめていただけの大賢者セレヴィアだった。
セレヴィアの、千年の時を宿した虚ろな瞳が、確かな意志の光を宿して俺を捉えていた。
「陛下」
セレヴィアの声は、か細いが、凛としていた。
「わたくしたちは、戦うべき相手を、間違えておりました」
彼女は、作戦卓の前に立つと、亜人たちの集落を示した駒を、そっと指でなぞった。
「彼らは、敵ではございません。ただ、魔王の呪詛によって魂を縛られた、哀れな被害者。我々が真に戦うべきは、彼らの魂を蝕む『服従の呪印』そのものです」
「だが、どうやって……」
「ございます」
セレヴィアは、俺の言葉を遮った。
「千年前、わたくしたちが、魔王と戦った際にも、同様の呪詛は存在しました。それを解くには、ただ一つの方法しかありません。彼らの魂に直接干渉し、呪いの術式を、より強大な聖なる力で『上書き』する、古代の解放魔術……【サンクトゥス・リベラティオ】。ですが、それはあまりにも繊細で、膨大な魔力を必要とする儀式。この、邪気に満ちた戦場で、それを成功させるのは……」
彼女はそこで言葉を切り、自らの非力さを悔いるように、目を伏せた。
「なぜそれを……」
彼女の顔を見て、いや、と、俺はその後の言葉を紡ぐのをやめた。
千年の眠りは、彼女の知識はそのままに、その魔力を大きく削いでいたのだ。
その、絶望的な沈黙を破ったのは、リリアナだった。
「セレヴィア様!」
彼女は、迷うことなく一歩前に進み出た。
その瞳には、王国最強の魔術師としての誇りと、そして何よりも、王とこの国を守るという、揺るぎない覚悟が燃えていた。
「その儀式、わたくしにもお手伝いさせてはいただけませんでしょうか。古代魔術の知識では貴女に遠く及びません。ですが、このロムグール王国で最強の魔術師であるという自負はございます。わたくしの魔力の全てを注ぎ込めば、あるいは……!」
その、あまりにも真っ直ぐで、そして命知らずな申し出。
それは、自らの命を危険に晒す、自己犠牲の誓いにも等しかった。
セレヴィアは、驚いたように目を見開いた。そして、千年の孤独を過ごしてきた彼女の顔に、ほんのわずかだが、柔らかな笑みが浮かんだ。
「……ありがとうございます、リリアナ殿。貴女ほどの使い手がいれば、成功率は格段に上がるでしょう。ですが、それでも、これはあまりにも危険な賭けですわ」
俺は、二人の魔術師の、その気高い覚悟を受け止めた。
これが、最後の希望。
俺は、再び指揮官たちを招集した。そして、彼らの前に、この、あまりにも無謀な、しかし唯一残された作戦を提示する。
「これより、我々の作戦目標は、敵の殲滅ではない。ただ一点、あの二人の魔術師を、儀式が終わるまで、何があっても守り抜くことだ」
ヴァレンティンは、その作戦に、フン、と鼻を鳴らした。
「……成功すれば、の話だがな。だが、試してみる価値はあるかもしれん。その儀式とやらが失敗に終わった時、その時は、俺のやり方でやらせてもらうぞ」
それは、彼の、最大限の譲歩だった。
俺の決断に、他の指揮官たちもまた、新たな希望を見出し、力強く頷いた。連合軍は、二人の癒し手を守り、彼女たちの儀式を成功させるための布陣を、再編し始める。
天幕を出て、俺は、後方の野戦病院へと向かうサー・レオンの担架を呼び止めた。
「……陛下」
彼は、痛みに顔を歪めながらも、俺に気づき、身を起こそうとする。
「動くな。傷に響く」
俺は、彼の、血の気の失せた顔を、真っ直ぐに見つめた。
「貴殿の理想は、決して間違いではない。ただ、俺の力が、そして、俺たちの力が、まだ、その理想に追いついていなかっただけだ。貴殿が流した血は、無駄ではない。その血があったからこそ、俺は、次の答えにたどり着くことができたのだ」
俺の言葉に、サー・レオンの瞳から、一筋の、熱い涙がこぼれ落ちた。
「……御意」
一つの理想が、戦場を去った。
だが、その理想の灯火は、確かに、俺たちの心に受け継がれた。俺たちの、本当の解放戦争が、今、始まろうとしていた。
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