第百六十七話『王の決断』
司令部の天幕の中は、墓場よりも重い静寂に支配されていた。
オークの百人隊長が残していった、千年に渡る隷属と苦難の物語。そのあまりにも重い真実が、集った指揮官たちの心に、鉛となってのしかかっている。誰もが、次に発すべき言葉を見つけられずにいた。
(……ダメだ。答えが出ない)
俺は、天幕の外で静かに降りしきる雪を見つめながら、内心で呻いた。
脳裏に響くのは、出陣の直前にフィンが叩きつけた、絶望的な数字。『残された時間は、三か月』。一日、いや、一時間ですら無駄にはできない。
だというのに、我々は、この最初の関門を前に、完全に足踏みしている。
その、張り詰めた静寂を最初に破ったのは、帝国の将軍ヴァレンティンだった。彼の声は、氷のように冷たく、一切の感傷を排していた。
「……茶番は終わりか、アレクシオス王。感傷に浸っている暇があるなら、次の一手を考えるべきだ。結論は一つ。奴らは、その手に剣を持ち、我々に牙を剥いている。その出自がどうであれ、我らの敵であることに変わりはない。躊躇は、我らの兵を無駄死にさせるだけだ。殲滅あるのみ。それこそが、この軍を預かる我々の、唯一の責務だ」
その冷徹なまでの正論。
それは、軍を率いる者として、あまりにも正しい判断だった。数名の指揮官が、苦渋の表情ながらも、その言葉に頷く。
「お待ちください、将軍!」
だが、その言葉に真っ向から反論したのは、シルヴァントの騎士サー・レオンだった。
彼の顔は青ざめていたが、その瞳には騎士としての、揺るぎない理想の光が宿っていた。
「彼らは、魔王の圧政に苦む被害者です! 我ら騎士が、そのような者たちに、無慈悲に剣を向けることなど、断じて許されることではない! 我らが為すべきは、彼らを救うことのはずです! 我々が魔王と同じ殺戮者に成り下がって、何のための解放戦争ですか!」
「救う、だと?」
ヴァレンティンは、鼻で笑った。
「おめでたい男だ。どうやって救う? 言葉で説得でもするつもりか? 彼らの魂には、逆らうことのできない『服従の呪印』とやらが刻まれているのだろう。我々が手を差し伸べたところで、彼らは我らを殺すことしかできん。それが現実だ。貴殿のその美しい理想のために、一体何人の兵を犠牲にするつもりだ!」
「それでも、騎士の誇りを捨てるわけにはいきません!」
「その誇りとやらが、兵を守ってくれるのか! 家族の元へ生きて帰すことができるのか!」
ヴァレンティンとサー・レオンの議論は、もはや平行線を辿るだけではなかった。
それは、現実主義と理想主義の、決して交わることのない激しい衝突だった。
天幕の中の空気は、今にも斬り合いが始まりかねないほどに、険悪なものへと変わっていく。
ロムグールの総司令官バルカスも、北壁の司令官グレイデンもまた、深く眉間に皺を寄せ、苦悩の表情で黙り込んでいる。
彼にとって、亜人たちは自らが守るべき民の姿と重なり、しかし、部下たちの命を預かる指揮官として、ヴァレンティンの言葉の重さも理解できていた。
(ダメだ。どちらも、正しい。そして、どちらも、この軍を破滅へと導く)
ヴァレンティンの言う通り、躊躇すればこちらの兵が死ぬ。サー・レオンの言う通り、被害者を斬れば、我々の大義は地に堕ちる。
殲滅を選べば、我々は魔王と同じ殺戮者となる。救済を選べば、我々は無力なまま、ここで全滅する。
どちらの道も、地獄へと続いている。答えなど、どこにもない。
だが、時間は、ないのだ。
この天幕の中で、我々が崇高な議論を戦わせている間にも、世界は、確実に滅びへと近づいている。
俺は、静かに立ち上がった。全ての視線が、俺に注がれる。
その視線が、あまりにも重い。
「……もう、時間がない」
俺の、その静かな一言に、天幕の中の全ての音が消えた。
「将軍の言うことにも、一理ある。サー・レオン殿の言うこともまた、真実だ。だが、そのどちらが正しいかを、ここで議論し尽くす時間は、もはや我々には残されていない」
俺は、天幕にいる全ての指揮官の顔を、一人一人、見渡した。
「我々は、進むしかない。たとえ、その先に明確な答えがなくとも。この場で足踏みし、世界が滅びるのを待つことこそが、最大の罪だ」
俺は地図の上、その先が空白となっている終焉の谷の方角を、指でなぞった。
「全軍に告ぐ」
俺の声は、自分でも驚くほど、静かだった。だが、その静けさこそが、この決断の重さを、何よりも雄弁に物語っていた。
「これより、我々は、終焉の谷へと続く道を進軍する」
「陛下、ですが、それでは……!」
「どのように戦えと!」
指揮官たちの、悲痛な声が飛ぶ。
俺は、その問いに、目を閉じて、答えた。
「……殲滅は、許さない。彼らは、被害者だ。その事実から、我々は目を背けてはならない。故に、非戦闘員、そして、武器を捨てた者への攻撃を、固く禁ずる」
サー・レオンの顔に、わずかに安堵の色が浮かぶ。だが、俺は続けた。
「だが、躊躇もまた、許さない。敵が、我々に牙を剥き、仲間たちの命を脅かすのであれば、その刃を、ためらうことなく振るえ。……騎士である前に、諸君らは、仲間を守る戦士だ」
それは、あまりにも矛盾した、そして、あまりにも残酷な命令だった。
天幕の中は、絶望的な沈黙に包まれた。王は、答えを示さなかった。いや、示せなかったのだ。
ただ、その、あまりにも重い選択の責任を、現場の兵士一人一人に委ねるという、最も過酷な決断を下した。
「この戦いで流される、全ての血の責任は、王である、この私が負う。諸君らは、ただ、己の信じる正義と、仲間の命、その二つを天秤にかけ、戦い抜け」
俺は、そう言い残すと、彼らに背を向けた。
「―――出陣の準備を」
連合軍は、その心に、決して交わることのない二つの正義と、王が下した、あまりにも重い十字架を背負ったまま、次なる死地へと、その歩みを進めることになった。
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