幕間話:『魔王と外なる大陸』
静寂。
それは、魔王ヴォルディガーンが最も愛し、そして渇望する世界の完成形のはずだった。
大陸の遥か北、人間界の地図には記されぬ魔族領『ヴォルクリプト』。その最深部、終焉の谷に聳える黒水晶の城は、今、その完成形に最も近い場所と化していた。
命の音が、一切存在しない。ただ、絶対的な静けさだけが、万物を支配していた。
宮殿の最も奥、広大な玉座の間。
その中央に鎮座する磨き上げられた黒曜石の玉座に、ヴォルディガーンは子供のように無邪気な笑みを浮かべ、退屈そうに頬杖をついていた。
彼の目の前には、何もないはずの空間が水面のように揺らめき、一つの巨大な「地図」が浮かび上がっている。生きた『星幽の地図』だ。
「……つまんないの」
ぽつりと、誰に聞かせるともなく呟く。その声すらも、この絶対的な静寂に吸い込まれ、すぐに消えた。
その時、玉座の間に、重く、機械のように正確な足音が響いた。音もなく現れたのは、生きた黒曜石の鎧をその身に纏う巨大な影。四天王が最後の一人、”不動”のグラズニールだった。
彼はヴォルディガーンの前に進み出ると、恭しく、しかし一切の感情を排した動きで片膝をついた。
「我が君」
その声は、岩石が擦れ合うような無機質な響きを持っていた。
ヴォルディガーンは、星幽の地図から視線を外さずに応じる。
「やあ、グラズニール。君はいつも、つまらないくね」
「……」
「見てごらんよ」
ヴォルディガーンは、星幽の地図が映し出す、遥か彼方、濃い霧に覆われたもう一つの暗黒大陸を、その華奢な指で、そっと指し示した。
「僕たちの故郷、『外大陸』だ。相変わらず、霧が深くて何も見えないね。あそこは楽しかった。強い者が全てを喰らい、弱い者はただ喰われるだけ。実に単純で、美しい理だった。それに比べてこの世界は……? 馴れ合いの間違いだろう?」
その言葉には、懐かしむような響きと、それ以上の、底なしの憎しみが込められていた。
「ねえ、グラズニール。みんないなくなっちゃったね。モルガドールも、フェンリラも、ヘカテリオンも……みんな、あの地獄から一緒に逃げてきたのに」
彼の言葉には、仲間を失った悲しみなど微塵も感じられないが、純粋な喪失感だけがあった。
「だが、僕たちは戻る」
突然、ヴォルディガーンの纏う空気が変わった。無邪気な子供の表情は消え、その瞳に、千年の時を超えた復讐の炎が燃え上がる。
「この退屈なアルカディア大陸の全てを喰らい尽くし、あの頃とは比べ物にならない力を手に入れて、今度こそ僕たちを打ち負かした奴らに復讐するんだ。そうだろ、グラズニール?」
それこそが、原初の魔王ヴォルディガーンが抱いていた、唯一の目的だった。
だが、次の瞬間。
ヴォルディガーンは、ふと、小首を傾げた。その瞳から、復讐の炎が、ふっと消える。代わりに浮かんだのは、純粋な、そしてどこか物憂げな響きだった。
「……でも、それも、なんだか、面倒くさいな……。戦うのも、奪うのも、もう疲れた……」
彼の脳裏に、千年前の光景が蘇る。
『―――静かに、なりたいだけだ』
「……そうだよな。全てが無に帰した、『完全な静寂』こそが、本当の救済なのかもしれない……」
その呟きは、復讐に燃える覇者のものではない。全てに疲れ果て、ただ安寧を求める、哀れな魂の響きそのものだった。
グラズニールの、黒曜石でできた鋼の身体が、ギシリ、と軋む音を立てた。
恐怖。
彼の感情のない思考回路に、唯一プログラムされた、絶対的な命令。
目の前の主君は、もはや、かつての、あの覇王ではない。その目的は根底から歪んでしまった。
外大陸への復讐という『渇望』と、完全なる静寂という『願い』。二つの、決して交わることのない魂が、一つの器の中で、今もなお、哀しい不協和音を奏で続けている。
その、あまりにも不安定で、予測不能な魂の揺らぎこそが、グラズニールにとって、外大陸のどんな強者よりも、恐ろしいものだった。
「まあ、いいや」
ヴォルディガーンは、けろりとした表情に戻ると、再び星幽の地図へと視線を向けた。
「どちらにせよ、この盤上の、うるさい駒を掃除しないとね」
その瞳には、再び、子供のような無邪気さと、底なしの残酷さが戻っていた。
グラズニールは、その事実を再認識し、ただ、その巨体を、深く、深く、うなだれることしかできなかった。
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