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幕間:盤上の伊達男

最近、シリアスなエピソードばかりだったので、コメディを。



 

 王城の一室、今や「戦時国家再建司令室」と化したその部屋の空気は、インクと古い羊皮紙、そして若き宰相代行の疲労が混じり合い、重く淀んでいた。


 フィンは、もはや何度目かも分からぬ計算結果のズレに、苛立たしげに髪をかきむしる。


「……駄目だ。この兵站ルートでは、補給が三日遅れる。三日の遅れは、全軍の命取りになりかねん……!」


 彼の脳内では、大陸全土の物資の流れ、各地の天候、そして何よりも大陸全土を蝕む『呪いの種』の拡散予測とそれに対する防衛線の構築といった、無数の変数が目まぐるしい速度で計算され続けていた。


 だが、答えが出ない。あまりにも多くの不確定要素が、彼の完璧なはずの数式にノイズとして混じり、最適解を弾き出すことを阻んでいた。


 ペンを握る指先が、微かに震える。


 三日、まともに眠っていない。思考の速度は落ちないが、その精度が確実に鈍っているのを、彼自身が誰よりも理解していた。


 (……くそっ、このままじゃ……)

 焦りが、彼の合理的な思考を蝕んでいく。


 その時、彼の脳裏に、ふと少女の困ったような笑顔が蘇った。


 『フィン様。頭をたくさん使うと、お腹が空くって、おばあちゃんが言っていました。少し、お休みになられてはいかがですか』

 ロザリア。彼女の、どこまでも真っ直ぐで、温かい気遣い。あの時食べた、ふかした芋の素朴な甘さ。


 フィンは、大きく舌打ちした。


「……非効率、極まりない」

 彼は誰に言うでもなく呟くと、乱暴に椅子から立ち上がった。


 ペンを叩きつけるように置き、司令室の扉へと向かう。


 彼の頭脳が、これ以上の作業は精神衛生上のリスクがリターンを上回ると、ようやく警鐘を鳴らしたのだ。


 気分転換。それもまた、長期的な計画遂行のための、合理的な判断の一つだった。


 彼が向かったのは、城の片隅にある衛兵たちの詰所だった。そこでは非番の兵士たちが、年季の入った木製のボードゲーム盤を囲み、賑やかに興じている。


 その盤は、ロムグール王国に古くから伝わる兵法ゲーム『獅子戦争(レオ・ウォー)』。かつて、あのバルカス総司令官ですら、フィンの前では子供扱いであった、因縁のゲームだ。


 フィンの登場に、衛兵たちは一瞬身を固くしたが、彼が「少し、頭を冷やしたいだけだ」とぶっきらぼうに告げると、恐る恐る彼を輪に招き入れた。


 フィンの戦い方は、彼の頭脳そのものだった。


 無駄な動きは一切ない。相手の駒の動きを数手先まで読み切り、確率論に基づいた最も効率的な手で、盤面の優位を築いていく。


 衛兵たちは、まるで巨大な機械にじわじわと追い詰められるかのように、なすすべもなく敗北を重ねた。


 だが、フィンの心は晴れなかった。


 勝ってはいる。だが、そこに何の喜びもない。ただ、無味乾燥な数式の正しさが証明されるだけ。彼の盤面は、あまりに完璧で、あまりに退屈だった。


 その退屈な空気を切り裂くように、詰所の扉が優雅に開かれた。


「おや、これはこれは。なんとも無骨で、美しくない空間だこと」

 現れたのは、王都一の伊達男、アルマン伯爵だった。


 彼は、レースのハンカチで鼻を覆い、まるで汚物でも見るかのように部屋の中を見渡している。


 彼の視線が、フィンの前のゲーム盤に注がれる。そして、深いため息をついた。


「ああ、なんと醜悪な。これは戦いではない、ただの作業だ。駒が泣いているのが聞こえんのかね? もっと、こう、情熱的な、魂の躍動がなくては!」

 アルマン伯爵は、唖然とする衛兵の一人を丁重に席から立たせると、自らがその前に座った。


「フィン殿。君のその、あまりにも退屈な盤面に、この私が『芸術』という名の彩りを加えてしんぜよう」

 フィンは、この突拍子もない男の相手をするのが心底面倒だったが、断るのもさらに面倒だと判断し、新たなゲームを開始した。


「……貴族のお前がこのゲームやったことあんのか?」

 フィンが不審がる顔をする。


「さぁ、なんとかなるでしょう」

 アルマン伯爵のそのあっけらかんとした態度に、フィンは、泣いても知らねえぞと返す。


 序盤、盤面はフィンの完全な支配下にあった。アルマン伯爵の指す手は、素人が見ても意味不明なものばかりだったからだ。


 防御の要である「城壁」の駒を、理由もなく前進させる。攻撃の主力である「竜騎士」を、敵陣のど真ん中に孤立させる。


 その全てが、定石からあまりにもかけ離れた、無謀な自殺行為にしか見えなかった。


(……なんだこいつは。本当に、ただの馬鹿なのか?)


 だが、中盤に差し掛かった頃、フィンは自らの盤面に広がる、ある種の違和感に気づき、動きを止めた。


 アルマン伯爵が捨て石のように配置した駒たちが、いつの間にか、一つの、巨大で、そして恐ろしくも美しい「模様」を描き出していたのだ。


 それは、まるで雪の結晶のようでもあり、あるいは、獲物を待ち構える蜘蛛の巣のようでもあった。


 一つ一つの手は、確かに悪手だ。だが、それらが組み合わさった結果、フィンの駒は、その完璧なはずの論理的な配置のまま、完全に動きを封じられていた。


「……馬鹿な。ありえない。なぜ、俺の『グリフィン』が動けない……?」

 彼の【数理最適解】スキルが、目の前の盤面を解析しようと空転する。だが、答えが出ない。


 アルマン伯爵の戦術には、論理も、確率も、効率も存在しない。あるのはただ、彼個人の「美学」だけ。


 そして、アルマン伯爵は、最後の一手を、まるで指揮者がタクトを振るうかのように、優雅に指した。


「―――チェックメイトだ、若き閃光よ。君の王は、今、最も孤独で、最も美しい場所に、追い詰められた」

 フィンの「国王」の駒は、盤面のど真ん中で、四方を、伯爵の「芸術品」と化した駒たちに、完璧に包囲されていた。


 逃げ場は、どこにもない。それは、敗北というよりは、一つの、完璧な芸術作品の完成だった。


「君たちわかったかい?美しいものは、それだけで至高なのだよ」


 詰所にいた衛兵たちは、何が起きたか分からず、ただ呆然と、その信じられない光景を見つめていた。


 フィンは、生まれて初めて経験する理解不能な敗北に、しばし、完全に沈黙した。


 だが、その沈黙は、彼が普段見せる冷静なそれとは、明らかに異質だった。彼の肩が、微かに震えている。


 やがて、彼は顔を上げた。その瞳には、もはや冷静さなど微塵もない。


 あるのは、自らの論理が通用しなかったことへの純粋な驚愕と、そして、生まれて初めて味わう完膚なきまでの敗北に対する、子供のような剥き出しの悔しさだった。


「……もう一度だ」

 その声は、低く震えていた。


「へ?」


「もう一度、やれ! 今のは、何かの間違いだ! 俺の計算では、ありえない!」

 フィンは、普段の彼からは想像もつかないような剣幕で、盤上の駒を乱暴に初期位置へと戻し始めた。


 アルマン伯爵は、その様子に、心底楽しそうに目を細めた。


「おやおや。ようやく、君の魂にも、美しい『情熱』の炎が灯ったようだね。よろしい。何度でも、付き合ってしんぜよう」


 第二戦目。


 フィンは、今度こそ伯爵の奇想天外な戦術を解析しようと、全神経を盤上に集中させた。だが、結果は同じだった。


 彼が論理を積み重ねれば重ねるほど、伯爵はそれを嘲笑うかのように、より美しい、より理解不能な「模様」を描き出し、そして、フィンは再び、芸術的な詰みに追い込まれた。


「……もう一度だッ!」


 第三戦、第四戦……。


 フィンは、完全に我を忘れていた。彼は、勝つまでやめないとばかりに、何度も、何度も、アルマン伯爵に勝負を挑み続けた。


 その度に、彼は、伯爵の「美学」の前に、完膚なきまでに敗れ去った。


 詰所の衛兵たちは、いつの間にか仕事に戻るのも忘れ、宰相代行殿の、いつもとは違う、あまりに人間的で大人げない奇行を、固唾をのんで見守っていた。


 アルマン伯爵は、満足げに立ち上がると、ついに頭を抱えて唸り始めたフィンの肩をぽんと叩いた。


「君の描く国は、実に合理的で、力強い。だが、それだけでは、人の心は動かせんよ。国という名の盤面にも、時には、無駄で、非効率で、しかし、どうしようもなく心を惹きつける『美しさ』というものが、必要なのだからな」

 伯爵は、謎めいた言葉と、最高級のワインのような芳醇な香りを残して、詰所を去っていった。


 後に残されたフィンは、目の前の、芸術的なまでに美しい詰みの盤面を睨みつけ、「……ありえない……ありえない……!」と、壊れた機械のように呟き続けるのだった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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