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第百六十二話:英雄の黄昏

 

 意識が、現実へと引き戻される。


 その感覚は、まるで凍てつく湖の底から、魂だけを無理やり掴んで引きずり上げられたかのようだった。


 最後に見た、闇に飲み込まれる勇者ハルキの姿。その虚ろな瞳が、まだ脳裏に焼き付いている。


 エルヴァン要塞の司令室は、死んだような静寂に包まれていた。


 窓の外で静かに降りしきる雪の音だけが、ここが現実の世界であることをかろうじて示している。


 誰もが、言葉を発することができなかった。


 千年前の英雄の絶望、そして賢者の罪。あまりにも重すぎる真実を、彼らは、その身をもって知ってしまったのだ。


「……これが……これが、真実……」


 シルヴァントの騎士サー・レオンが、その顔を両手で覆い、嗚咽を漏らした。


 彼が幼い頃から信じて疑わなかった、完璧な英雄の、あまりにも哀しい結末。


 彼の、騎士としての理想は、根底から打ち砕かれていた。


「フン……」


 その中で、最初に立ち上がったのは、ヴァレンティンだった。その表情は、これまで以上に険しく、そして冷え切っていた。


 だが、その瞳の奥には、これまでにはなかった、ある種の共感が静かに燃えていた。


「……くだらんな。結局、奴も、俺と同じだったというわけだ。仲間を失い、理想に裏切られ、ただ、逃げ出しただけの、哀れな敗北者だ」


 彼は、大賢者セレヴィアを、そして、かつての自分自身を嘲笑うかのように、そう吐き捨てた。


 その言葉は、彼の砕け散ったプライドを守るための、最後の鎧のようだった。


「―――ああ……ああああ……っ!」


 その時だった。それまで糸が切れた人形のように動かなかったセレヴィアが、ついに、その張り詰めていた心の糸を断ち切られた。


 彼女は、床に崩れ落ち、子供のように、声を上げて泣きじゃくり始めた。


 千年間、その華奢な身体に溜め込み続けてきた、罪悪感と後悔の奔流が、今、堰を切って溢れ出したのだ。


「わたくしが……! わたくしが、ハルキを独りにしたから……! あの時、彼の側で、共に戦う覚悟が、わたくしにあれば……! 彼を、見捨てなければ……!」


 その悲痛な叫びは、聞く者の心を抉った。


 リリアナが、慌てて彼女の側に駆け寄り、その震える肩を抱きしめる。だが、どんな慰めの言葉も、千年の悔恨の前では、あまりにも軽く、空虚に響くだけだった。


 絶望が、伝染していく。


 この戦いは、もはや勝利することすら許されないのではないか。


 魔王を討つということは、一人の、絶望した英雄の魂を、二度殺すことと同義なのではないか。


 そんな、抗いがたい無力感が、司令室の空気を支配していた。


 その、誰もが絶望に沈む中。


 ただ一人、田中樹だけが、違った。


 彼は、もう、泣いても怯えてもいなかった。


 ただ、呆然と、しかし、その瞳には、これまで見せたことのない深い怒りと、そして、どうしようもない哀しみの色を宿して虚空を睨みつけていた。


「……おい」


 樹が、低い唸るような声で、誰に言うともなく、呟いた。


「……あいつ、なんでだよ」


「イトゥキ様……?」


「なんで、諦めたんだよ、あの勇者は!」


 樹の、その声は、震えていた。


 それは、恐怖からではない。理解できないものに対する、どうしようもない憤りだった。


「仲間が、死んだ? んなこたぁ、知るか! 俺だって、目の前で、死なれた! 怖くて、クソみてえに、足が震えた! だけど、それでも!」


 彼は、自らの胸を強く殴りつけた。


「だけど、それでも、諦めるなんて、そんなの、ありかよ! あいつら、テメエを信じて、死んでいったんだろうが! なのに、最後の最後で、全部、放り出しやがって! そんなの、勇者でも、なんでも、ねえじゃねえか!」


「イトゥキ様、おやめなさい。ハルキ様を、侮辱する気ですか」

 リリアナが、かろうじて彼を諌めようとする。


 だが、樹の怒りは止まらなかった。


「うるせえ! 俺は、あいつが、ムカつく! 」


 そして、樹は、その怒りの矛先を泣き崩れるセレヴィアへと向けた。


「てめえもだ! なんで、そこで逃げんだよ! あいつが、一番、苦しい時に、なんで、手を離しちまうんだよ! 仲間じゃ、なかったのかよ!?」


 その、あまりにも真っ直ぐで、そして、あまりにも残酷な問いかけ。


 それは、千年間、誰も彼女に問わなかった、そして、彼女自身が最も問われることを恐れていた罪の核心だった。


 だが、樹の怒りは、もはや彼女個人にすら向いてはいなかった。


 彼は、立ち上がると、円卓を囲む、全ての者たちを見渡し、そして、まるで、この世界そのものに叩きつけるかのように叫んだ。


「見捨てられたからって、世界を呪っていい理由には、ならねえだろうが! 寂しいからって、全部ぶっ壊して、静かになりてえだぁ? ふざけんじゃねえぞ!」


 それは、英雄の言葉ではない。ただの不器用な少年の本心だった。


「俺は、あいつみたいに、強くもねえし、頭も良くねえ。だけどな」


 樹は、懐から、レオの形見である、小さな木彫りの鳥を取り出し、それを強く握りしめた。


「あいつが、俺を信じて死んだってのは、事実だ。だから、俺は、あいつに、胸を張れるくらいには、なりてえ。ただ、それだけだ。……諦めた奴が、何が勇者だ。俺は、絶対にあんな風にはならねえ。ならねえぞ、ちくしょう……!」


 その、魂からの叫び。


 それは、絶望に沈んでいた、仲間たちの心を、強く、強く揺さぶった。


 泣き崩れていたセレヴィアが、はっとしたように顔を上げる。ヴァレンティンが、その氷の仮面の下で、わずかに目を見開く。


 そして、アレクシオスは、その光景を、静かに見つめていた。


 彼は、悟った。この、あまりにも残酷な真実を共有することこそが、この寄せ集めの英雄たちを、一つの、真の共同体へと変えるための、最後の試練であったのだと。


 彼は、ゆっくりと立ち上がると、円卓の中央に置かれた神剣を、再び手に取った。


「……イトゥキ殿の、言う通りだ」


 その声には、もはや迷いはない。


「我々が討つべきは、魔王ヴォルディガーンではない。千年前、この世界が生み出してしまった、一人の英雄の、深すぎる『絶望』そのものだ。―――これは、もはや討伐戦ではない。救出作戦だ」


 アレクシオスは、仲間たちの顔を、一人一人、見渡した。


「我々は、千年の悪夢を終わらせる。そして、ハルキの魂を、その呪いから解放するのだ」


 その、王としての、絶対的な宣言。


 絶望の淵から、より困難な戦いへの、確かな決意が、力強く産声を上げた瞬間だった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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