第百五十八話:宰相代行の決断
静まり返った司令室に、若き宰相代行の苦渋に満ちた絶叫が、まだ重く響いていた。
ロザリアは唇を噛みしめ、そのあまりにも非情な、しかし、国を守るためにはあまりにも現実的な判断を下したフィンの横顔を、ただ見つめることしかできなかった。
王都警備の責任者である、古参の衛兵団長は、悔しそうに顔を歪めながらも、反論の言葉を見つけられずにいる。
「……異論は、認めねえ」
フィンは、誰に言うでもなく、そう吐き捨てた。
彼の瞳には、もはや葛藤の色はない。
一度下した決断を、冷徹に実行に移す為政者の光だけが宿っていた。
「ロザリア、あんたには、今すぐ国境の町へ向かってもらう。現地で、難民キャンプの設営と、食糧配給の全権を委任する。あんたの持つ農業の知識と、何より、その人柄が必要だ。パニック寸前の民衆を、少しでも落ち着かせてやってくれ」
「……はい、フィンさん」
ロザリアは、涙をこらえ、力強く頷いた。
彼女は、この決断の非情さを理解している。
だが、それ以上に、フィンがどれほどの重圧の中で、この苦しい選択をしたのかを痛いほど感じていた。
「衛兵団長。貴官には、王都の衛兵団を率いて、同じく国境へ向かってもらう。キャンプの周囲に厳重な警戒線を敷き、秩序の維持と、不審者の徹底的な洗い出しを命じる。どんな些細な兆候も見逃すな。敵は、必ずこの混乱に乗じてくる」
「……御意」
衛兵団長は、短く、しかし重々しく応えた。
矢継ぎ早に指示を飛ばすフィンの姿は、もはや王都の片隅で燻っていた少年ではない。王の不在という、国家最大の危機に、その双肩で国の全てを支えようとする、若き獅子の姿だった。
だが、彼の決断は、すぐに新たな壁にぶつかる。
緊急招集された『王室評議会』。
王の不在を預かる、旧体制派の貴族たちが集うその場所は、フィンの決断に対する悪意に満ちた非難の嵐に包まれた。
「正気か、フィン補佐官! 素性の知れぬ難民を、国境とはいえ、我が国の領内に入れるなど! 彼らが病を持ち込んでいたらどうするのだ!」
「その通り! 我が領地の民が、不安に怯えておるわ! 即刻、国境を完全封鎖し、一人残らず追い返すのが筋であろう!」
私腹を肥やすことしか考えてこなかった貴族たちが、ここぞとばかりに「民のため」という大義名分を振りかざす。
彼らの真の狙いは、フィンの政策の足を引っ張り、その権威を失墜させ、再び国の実権を自分たちの手に取り戻すことだった。
「黙れ、時代遅れの寄生虫どもが。俺は、補佐官じゃねぇ、宰相代行だ」
フィンの、氷のように冷たい一言に、議場が静まり返った。
「あんたらが私腹を肥やしている間に、この国がどうなったか忘れたか? 食糧がなく、民が飢え、国が滅びかけていたのを立て直したのは、誰だ? 王様と、そして、俺たちだ。あんたらが口を出す資格なんざ、どこにもねえ」
彼は、最新の国内の食糧備蓄と、難民を受け入れた場合のシミュレーション結果を、貴族たちの目の前に叩きつけた。
ぎりぎりだが、なんとかなる。
だが、恐怖と私欲に駆られた彼らに、論理は通じない。
「若造が!」「平民出が口を出すな!」という罵声が、議場を支配した。
(……くそっ、ここまでか。王様がいないと、俺たちは、この国ではまだ、ただの子供扱いか……!)
フィンが、悔しさに拳を握りしめた、その時だった。
「―――ああ、なんと醜悪な。私の耳が、腐ってしまうではないか」
議場の重い扉が、ゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、王都一の伊達男と名高いアルマン伯爵だった。
彼は、まるで汚物でも見るかのように眉をひそめ、レースのハンカチで口元を覆いながら、優雅な足取りで議場へと入ってきた。
「アルマン伯! なぜ貴殿がここに!」
貴族の一人が驚きの声を上げる。
アルマン伯爵は、政治には一切興味を示さず、自らの美学の世界にのみ生きる男として有名だったからだ。
「なぜ、かね?」
アルマン伯は、心底不思議そうに小首を傾げた。
「決まっているだろう。この王都に、これほどまでに『美しくない』不協和音が響き渡っているのだ。芸術を愛する者として、その根源を確かめに来るのは当然の嗜みではないか」
彼の視線は、フィンやロザリアではなく、騒ぎ立てる旧体制派の貴族たちへと向けられた。
その目は、まるで出来の悪い彫刻を鑑定するかのように、冷ややかだった。
「恐怖に駆られ、己の保身のためだけに、か細い声で喚き散らす。その姿の、なんと醜いことか。君たちのその震える唇、脂汗の浮いた額、そして何より、その議論の欠片もない、ただの自己弁護の羅列。美の欠片も、知性の輝きも、そこにはない。あるのはただ、醜悪な『生存本能』だけだ」
伯爵は、うっとりとした表情で、今度はフィンとロザリアの姿を見つめた。
「だが、見なさい。あの若き宰相代行の、なんと美しいことか。絶望的な状況下で、国という重責をその痩せた肩に背負い、誰にも理解されずとも、ただ己の信じる論理と正義のために戦う。その、孤独な姿! 悲壮なまでの覚悟! これぞ、悲劇の英雄を描いた、最高の芸術作品ではないか!」
彼は、涙をこらえながら必死にフィンを支えるロザリアに、賞賛の視線を送る。
「そして、あの村娘の、なんと健気で美しいことか! 汚れを知らぬ優しさが、この醜悪な現実によって打ち砕かれそうになりながらも、なお輝きを失わぬ。まるで、泥の中に咲く、一輪の白百合のようだ!」
アルマン伯爵は、くるりとターンを決めると、呆然とする貴族たちに向かって、高らかに宣言した。
「私は、美の側に立つ。故に、フィン宰相代行の決断を、全面的に支持する! この、あまりにも醜い現実の中で、最も美しい『物語』を紡ごうとしているのは、明らかに、彼らの方だからな!」
その、あまりにも常軌を逸した、しかし、この国の誰よりも影響力を持つ大貴族の一言。
それは、旧体制派の貴族たちの、ちっぽけな利害や打算を、完全に粉砕するには、十分すぎるほどの威力を持っていた。
フィンとロザリアは、その、あまりにも規格外な援軍の登場に、ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
王の不在。
そのあまりにも大きな穴を、残された者たちは、自らの血の滲むような決断と、そして、予想だにしなかった、美を愛する伊達男の気まぐれによって、かろうじて、埋めることができたのだった。
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