第百四十六話:絶望を前に
意識が、現実へと引き戻される。
その感覚は、まるで冷たい水の底から、無理やり頭を掴んで引きずり上げられたかのようだった。
最後に見た、闇に飲み込まれる勇者ハルキの姿。
その絶望が、まだ、リリアナの目の奥に焼き付いている。
「はっ……! はぁっ……!」
一行は、聖域の水晶の広間で倒れていた。
身体はどこも痛くない。
だが、魂が、まるで万力で締め付けられたかのように、軋み、悲鳴を上げていた。
千年前の英雄の絶望。
そして、賢者の罪。あまりにも重すぎる真実を、彼らは、その身をもって知ってしまったのだ。
「……これが……これが、真実……」
サー・レオンが、その顔を両手で覆い、嗚咽を漏らした。
彼が幼い頃から憧れ、その輝かしい伝説を信じて疑わなかった、完璧な英雄の、あまりにも哀しい結末。
彼の、騎士としての理想は、根底から打ち砕かれていた。
「……なんということだ。我らは……これほどの絶望を抱えた魂を、無理やり、こじ開けようとしていたというのか……」
ライアスもまた、その顔を青ざめさせ、砕け散った水晶の棺の残骸を、畏れと同情の入り混じった目で見つめていた。
「フン……」
その中で、最初に立ち上がったのは、ヴァレンティンだった。
その表情は、これまで以上に、険しく冷え切っていた。
だが、その瞳の奥には、これまでにはなかった、ある種の共感が、静かに燃えていた。
「……くだらんな。結局、奴も、俺と同じだったというわけだ。仲間を失い、理想に裏切られ、ただ、逃げ出しただけの、哀れな敗北者だ」
彼は、大賢者セレヴィアを、かつての自分自身を、嘲笑うかのように、そう吐き捨てた。
その、あまりにも、救いのない言葉に、リリアナは、反論することができなかった。
彼女自身もまた、その絶望に、飲み込まれかけていたのだ。
(……そう、だわ。ハルキ様ほどの英雄でさえ、救えなかった。セレヴィア様ほどの賢者でさえ、逃げ出すしかなかった。そんな、あまりにも巨大な絶望に、私たちのような、不完全な者たちが、どうして、立ち向かえるというの……?)
アレクシオス陛下の顔が、脳裏をよぎる。
彼の信頼に、応えなければ。
だが、千年の絶望の重みが、彼女の心を鉛のように沈ませていた。
一行が、それぞれの絶望に打ちひしがれ、完全な沈黙に支配される中。
ただ一人、田中樹だけが違った。
彼は、広間の中心、砕け散った水晶の棺の跡地を、ただ、じっと睨みつけていた。
その瞳には、恐怖も、絶望も、同情もない。
あるのは、ただ燃え盛るような、純粋な「怒り」だった。
「……おい」
樹が、低い、唸るような声で、誰に言うともなく、呟いた。
「……あいつ、なんでだよ」
「イトゥキ様……?」
「なんで、諦めたんだよ、あの勇者は!」
樹の、その声は、震えていた。
それは、恐怖からではない。
理解できないものに対する、どうしようもない憤りだった。
「仲間が、死んだ? んなこたぁ、知るか! 俺だって、目の前で、死なれた! 怖くて、クソみてえに、足が震えた! だけど、それでも!」
彼は、自らの胸を、強く、強く、殴りつけた。
「だけど、それでも、諦めるなんて、そんなの、ありかよ! あいつら、テメエを信じて、死んでいったんだろうが! なのに、最後の最後で、全部、放り出しやがって! そんなの、勇者でも、なんでも、ねえじゃねえか!」
「……イトゥキ様、おやめなさい。ハルキ様を、侮辱する気ですか」
リリアナが、かろうじて、彼を諌めようとする。
だが、樹の怒りは、止まらなかった。
「うるせえ! 俺は、あいつが、ムカつく! 仲間を、見捨てた、あいつが!」
そして、樹は、その怒りの矛先を、砕け散った水晶の棺のその中心へと向けた。
「てめえもだ! なんで、そこで、逃げんだよ! あいつが、一番苦しい時に、なんで、手を離しちまうんだよ! 仲間じゃなかったのかよ!?」
その、あまりにも、真っ直ぐで、そして、あまりにも、残酷な問いかけ。
それは、千年間、誰も彼女に問わなかった、そして、彼女自身が、最も問われることを恐れていた、罪の核心だった。
樹の叫びに、呼応するかのように。
砕け散った水晶の破片が、共鳴するように、淡い光を放ち始めた。
千年の間、凍てついていた大賢者の魂が、今その硬い殻に亀裂を入れられた瞬間だった。
一行は、固唾を飲んで、見守っていた。
絶望の淵に沈む哀れな魂が、あまりにも不器用で、そして、あまりにも真っ直ぐな、新しい勇者の声に、どう応えるのかを。
ピシ、ピシピシッ……!
空間そのものが軋むような音と共に、光の粒子が、棺があった場所へと収束していく。
そして、その光の中からゆっくりと、一人の美しい白銀の髪を持つ少女が、その姿を現した。
「……うるさい、人たち……ですね」
大賢者セレヴィアの、千年の眠りから覚めた最初の言葉。
それは、感謝でも、怒りでもない、ただひたすらに、全てが面倒だ、とでも言うかのような、乾いた呟きだった。
彼女は、一行に一瞥もくれることなく、ただ呆然と、自らの透けるように白い手を見つめている。
そして、ゆっくりと、その場にへたり込むように、座り込んだ。
「……もう、いいのです。放っておいてください。わたくしは、もう、誰とも、関わりたくない。ただ、ここで、静かに、朽ちていくだけですから……」
その声には、何の感情も、込められていなかった。
千年の時が、彼女から、生きるという意志そのものを、奪い去っていたのだ。
「……おい、賢者!」
樹があまりにも救いのない姿に、たまらず声をかける。
「あんた、それでいいのかよ! 仲間を見捨てて、一人で逃げ出して、それで、ただ、ここで死ぬのを待つだけだってのかよ!」
「……仲間……?」
セレヴィアの虚ろな瞳が、初めて樹の方を向いた。
「わたくしには、もう、そんなもの、ありません。……わたくしが、この手で、見殺しにしたのですから」
そのあまりにも哀しい告白。
樹は、言葉を失った。
彼は、怒りに任せて、彼女を責めた。
だが目の前にいるのは、ただ自分を責め続け、心が壊れてしまった、一人の哀れな少女だった。
「……大賢者様」
リリアナが、意を決して、彼女の前に膝をついた。
「……わたくしたちと、共に、来てはいただけませんか。貴女のお力が必要です。いえ……貴女自身が、もう一度、光の中を歩むために、わたくしたちが、貴女の、力になりたいのです」
その、あまりにも、誠実な言葉。
だが、セレヴィアは、ただ静かに首を横に振った。
「……光……? わたくしには、もう、眩しすぎます。それに……」
彼女は、樹のその魂を見つめた。
そして、その奥に、確かに感じ取ったのだ。
千年前、自らが見捨ててしまった、あの太陽のように眩しかった、親友のそれと、同じ……。
どこか、懐かしい、「光の匂い」を。
「……ハルキ……?」
彼女の、血の気のない唇から、か細い、そして、あまりにも、哀しい声が漏れた。
その瞳から、千年の時を経た一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。
だが、それは希望の涙ではなかった。
ただ、自らの罪を、再び、鮮明に思い出した、絶望の涙だった。
「……そうか。お前は、まだ、そこにいるのか」
その時、それまで黙っていたヴァレンティンが、その場の誰よりも、重い言葉を、吐き出した。
「お前は、千年間、ずっと、あの最後の戦場に、一人で立ち尽くしていたのだな。……俺も、同じだ。帝都が燃え落ちた、あの日に、俺の時間は、止まったままだ」
彼は、セレヴィアを、同類を見る目で、見つめていた。
「だがな、賢者よ。俺たちは、まだ、生きている。そして、生きている限り、戦いは終わらん。お前が、ここで朽ち果てるのは、勝手だ。だが、それは、お前がハルキとやらを見捨てた、あの日の選択を、もう一度、繰り返すだけのことだ。……今度は、この世界そのものを、見捨てるという形でな」
その、あまりにも残酷で、あまりにも真実の言葉。
それは、セレヴィアの千年の絶望に、現実という名の冷たい刃を突きつけた。
「……あなたに、何が分かるのですか……!」
セレヴィアが、初めて感情を露わにした。
「ハルキは、死んだ! わたくしが、この手を離したから! わたくしが、弱かったから! もう、誰も……何も救えはしない!」
「ああ、そうだな」
その、魂の叫びを肯定したのは、田中樹だった。
彼は、セレヴィアの前に、どかりと胡坐をかいて座り込んだ。
「あんたは、弱い。俺も、弱い。だから、レオは死んだ。……ハルキって奴も、死んだんだろ。それで、いいじゃねえか」
「……え?」
その、あまりにも投げやりな言葉に、セレヴィアも、リリアナたちも言葉を失った。
「俺は、あいつみたいに、世界を救うとか、そんな、デカいことは、分かんねえ。だけどな」
樹は、懐から、レオの形見を取り出して言った。
「あいつが、俺を信じて死んだってのは、事実だ。だから、俺は、あいつに、胸を張れるくらいには、なりてえ。ただ、それだけだ。……あんたも、そうじゃねえのかよ。ハルキって奴に、もう一度、会いてえんじゃねえのかよ。会って、文句の一つでも、言ってやりてえんじゃねえのかよ!」
それは、英雄の言葉ではない。ただの不器用な、少年の本心だった。
「……会える、はずがありません。彼は、もう……」
「独りぼっちで、あの闇に飲み込まれちまったんだろうが!」
樹は叫んだ。
「だったら、確かめに行くしか、ねえじゃねえか! ここで、泣いてるだけで、何が変わるってんだよ!」
その単純で真っ直ぐな一つの目的。
千年の絶望に閉ざされていた、セレヴィアの心に一条のか細い確かな光が差し込んだ。
(……ハルキに、会う……?)
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
その足は、まだ震えている。
その瞳は、まだ深く淀んでいる。
だが、彼女は確かに、自らの意志で立ったのだ。
「……分かりました」
彼女は、リリアナと、そして、樹の顔を見つめた。
「……わたくしは、行きましょう。貴方がたと、共に。世界のためでは、ありません。ただ、もう一度、彼に……ハルキに会って、そして、千年前の、あの日の答えを、確かめるために」
それは、希望に満ちた仲間としての誓いではない。
ただ、自らの千年の罪と向き合うための個人的で、そして、あまりにも哀しい旅立ちの宣言だった。
一行は、言葉もなく立ち尽くしていた。
大賢者は、目覚めた。
だが、その心は、まだ、千年前の絶望の夜に、固く閉ざされたままだった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




