第百四十三話:聖域の亀裂
リリアナの魂からの叫びに応え、嘆きの迷宮は一時的にその牙を収めた。
水晶の壁から現れた巨大な「眼」は、ただ静かに涙を流し一行を見つめている。
だがそれは許しでも和解でもなかった。
千年の孤独を続けた大賢者の魂が、予期せぬ侵入者たちを前にただ困惑し、その心の扉をさらに固く閉ざそうとしているかのようだった。
張り詰めた静寂の中、一行はかろうじて息をつき態勢を立て直していた。
「……攻撃が、止みましたわ」
リリアナが荒い呼吸を整えながら呟く。
「あれは……泣いているのか?」
サー・レオンが、水晶の「眼」から流れ落ちる光の雫を信じられないといった表情で見つめる。
「我々の言葉が、届いたとでもいうのか……」
「油断するな」
ヴァレンティンが低い声で制した。
「あれは感傷に浸っているのではない。理解不能な異物を前に、次の一手を測りかねているだけだ。哀れみは隙を生むぞ」
彼の言葉通り、迷宮は沈黙したまま、しかしその拒絶の意志は魔力の壁となって一行の行く手を阻んでいた。
「それはともかく、まずはあの壁をどいにかすることからだ」
力で破壊しようにも壁は瞬時に再生する。
幻術は止んだが、一行は完全に手詰まりの状態に陥っていた。
「……どうする、リリアナ殿」
ライアスがこの部隊の指揮官に問いかける。
リリアナは迷っていた。
この巨大な哀しみの壁を前に、もはや武力も魔術も意味をなさない。ならばどうすれば。
彼女はアレクシオスならどうしただろうかと考えた。
あの王は決して諦めない。
どんな絶望的な状況でも必ず相手の心の、ほんの僅かな隙間を見つけ出し、そこに言葉をねじ込む。
「……もう一度、話しかけてみます」
リリアナは覚悟を決めた。
彼女は武器である杖を静かに床に置くと、無防備な姿で涙を流す巨大な「眼」へと一歩歩み寄った。
「大賢者セレヴィア様。わたくしたちは貴女と戦うためにここに来たのではありません。貴女のお力を、お借りしたいのです。今、世界は千年前と同じ、いえ、それ以上の危機に瀕しています。魔王が復活し、その呪いは大陸の全てを覆い尽くそうとしています。貴女が守ろうとした世界が、今度こそ本当に、永遠の静寂に沈もうとしているのです」
彼女は必死に言葉を紡ぐ。
聖域に満ちる哀しみの魔力が、彼女の言葉に共鳴するかのようにわずかに揺らぐ。
「貴女が千年の孤独の中で、どれほどの罪悪感に苛まれてきたか、わたくしには想像もつきません。ですが、その贖罪はもう十分です。どうか、そのお力で、我々と共に未来を……」
「……無駄だ、小娘」
ヴァレンティンがリリアナの隣に静かに立った。
彼は嘲るでもなく、ただ事実を告げるかのように言った。
「お前のその綺麗な言葉は、本物の絶望を知らぬ者の戯言に過ぎん。……千年の孤独か。面白い。俺も今、同じものを味わっている」
彼は巨大な「眼」を自らの同類を見るかのように真っ直ぐに見据えた。
「大賢者とやら。お前は仲間を救えなかった罪悪感から世界を拒絶したと言ったな。その結果がどうだ。お前が目を逸らしている間に世界は腐り、俺の故郷は滅び、民は救済という名の甘い毒に身を委ねている。お前の孤独な祈りは何一つ世界を救いはしなかった。ただの自己満足だ。俺と、同じようにな」
そのあまりにも苦く、そしてあまりにも真実の言葉。
ヴァレンティンの砕け散った魂からの告白に、巨大な「眼」が初めてピクリと揺らめいた。
だがそれでも壁は開かない。千年の絶望はあまりにも深く重い。
その張り詰めた空気を破ったのは、全く予期せぬ人物だった。
田中樹だった。
彼はリリアナの難しい演説もヴァレンティンの暗い独白も、ほとんど聞いていなかった。
ただ目の前で、巨大な目玉がずっと泣いている。その単純な事実だけを見ていた。
彼はレオの死を思い出す。
あの時、自分は何もできず、ただ泣くことしかできなかった。
目の前の巨大な目玉も、あの時の自分と同じように、ただ独りで泣いているように見えた。
彼はおずおずと二人の前に進み出た。
そして何を思ったか、涙を流す水晶の壁にそっとその手を伸ばし、まるで子供の頭でも撫でるかのように、ぽん、ぽんと優しく叩いた。
「……もう、泣くなよ」
何の計算も、何の英雄的な意志もない。
ただ目の前で泣いている「誰か」に対する、不器用で子供じみた慰めの言葉。
そのあまりにも純粋で単純な善意。
それが、千年の絶望に閉ざされた大賢者の心の、最後の扉をこじ開けた。
リリアナの理知的な説得でも、ヴァレンティンの共感に満ちた絶望でもない。
ただの少年の不器用な優しさ。
それに応えるかのように、巨大な「眼」からこれまでで最も大きな水晶の涙が一筋こぼれ落ちた。
その涙が床に落ちた瞬間。
ピシリ、と。
空間そのものに亀裂が走った。
それは破壊の音ではない。千年の氷がようやく春の陽光に触れ、溶け始める最初の音だった。
亀裂は瞬く間に広がり、一行の目の前にさらに奥へと続く新たな道を形作った。
その亀裂の向こう側に一行は見た。
巨大な水晶の棺のシルエットを。
仲間たちは呆然と立ち尽くしていた。
そして自らが何をしでかしたのかも分からず、ただきょとんとしている勇者の姿を、誰もが言葉もなく見つめていた。
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