第百四十話:盤上の遊戯
その頃、大陸の遥か北、人間界の地図には記されぬ魔族領『ヴォルクリプト』。
その最深部、終焉の谷に城はあった。
それは炎と溶岩が渦巻く地獄の城塞ではない。
周囲の光という光を全て吸い込む、巨大な黒水晶を削り出して作られたかのような静寂の宮殿。
そこには命の音が一切存在しなかった。
風の音も獣の声も衛兵の足音すらない。
ただ絶対的な静けさだけが万物を支配していた。
宮殿の最も奥、広大な玉座の間。
その中央に鎮座する磨き上げられた黒曜石の玉座に、魔王ヴォルディガーンは子供のように無邪気な笑みを浮かべ、退屈そうに頬杖をついていた。
彼の目の前には、何もないはずの空間が水面のように揺らめき、二つの光景を同時に映し出す巨大な闇の鏡が浮かんでいる。
一つは旧帝国領の荒野を進むリリアナたちの姿。
もう一つは東方の山中を険しい表情で進むアレクシオスたちの姿。
「ふふっ」
ヴォルディガーンは闇の鏡を眺めながら楽しそうに喉を鳴らした。
「面白い。実に面白いことになっているね。僕が少し眠っている間に、盤上の駒がずいぶんと賑やかになった」
彼はまずリリアナたちの姿にその視線を注いだ。
鏡は民衆に石を投げつけられ、屈辱と絶望に打ちひしがれるヴァレンティンの姿を残酷なまでに鮮明に映し出す。
「誇りを砕かれた帝国の将軍に、王国最強の若き魔術師。そして何も分からずただ怯えるだけの、空っぽの器。実にちぐはぐで見ていて飽きない一座だ。あの将軍の心の中にある帝国への忠誠と、自らの無力さへの絶望。その二つが混じり合う味は、きっと極上のものだろうね」
次に彼は鏡の視点をアレクシオスへと移す。
そこには若き王が、恐怖に支配された諸侯を王としての覚悟と冷徹な脅迫を織り交ぜて屈服させる様が映っていた。
「そしてもう一方。僕の可愛い四天王たちを二匹も屠ってくれた賢しい王様。彼は恐怖をさらに大きな恐怖で上書きすることで道を切り拓くことを選んだか。実に人間らしい、浅はかでそして美しい選択だ。その選択がいずれ誰からも信じられなくなるという、絶対的な孤独へと至る道だとも知らずに。ああ、可哀想に」
その呟きには憐憫の色などひとかけらもなかった。
ただこれから熟成されていくであろう極上の苦しみを待ち望む美食家のような愉悦だけがあった。
その時、玉座の間に重く機械のように正確な足音が響いた。
音もなく現れたのは、生きた黒曜石の鎧をその身に纏う巨大な影。
四天王が最後の一人、”不動”のグラズニールだった。
彼はヴォルディガーンの前に進み出ると、恭しく、しかし一切の感情を排した動きで片膝をついた。
「我が君、ご報告を」
その声は岩石が擦れ合うような無機質な響きを持っていた。
「北壁での作戦は、最終段階で想定外の変数――シルヴァラントからの援軍――の介入により、目標達成率92%の時点で中断。戦略的価値の低下を鑑み、部隊は損失率10%未満で撤退を完了しております」
「うん、知ってるよ。ご苦労様、グラズニール。君はいつも、本当に面白いね」
ヴォルディガーンは闇の鏡から視線を外さずに応じた。
「ヘカテリオン、フェンリラ、モルガドールの三名は、それぞれ人間の抵抗により生命活動を停止。これにより、我らが軍の総戦力は当初の計画より47%低下。残存戦力のみで人間界の完全なる『静寂』を達成するには、再計算の結果、当初の計画よりさらに18ヶ月の期間延長が必要との結論に至りました。現時点での最適解は、一度戦力を再編し、――」
「――もういいよ」
ヴォルディガーンは、グラズニールのあまりにも無味乾燥な報告を楽しげに遮った。
「戦力が減った? 計画が遅れる? そんな数字、どうでもいいんだよ。ヘカテリオンもフェンリラも、そしてあの猪も、それぞれが最高の舞台で、最高の悲鳴を上げて散った。それだけで彼らの存在価値は十分だ。君には理解できないだろうけどね」
「……」
グラズニールは主のその言葉の意味を理解できず、ただ沈黙した。
彼にとって戦いとはただの計算であり目標達成のためのプロセスに過ぎない。
「見てごらんよ、グラズニール」
ヴォルディガーンは闇の鏡に映るアレクシオスたちを指し示した。
「彼らは僕の可愛い四天王たちを倒し、希望を手に入れたとそう信じ込んでいる。その希望が大きければ大きいほど、それが砕け散った時の絶望はより深く、より美しい音を奏でる。僕が聞きたいのはただの悲鳴じゃない。希望が絶望に変わる、その瞬間の魂の不協和音なんだ。君の言う『最適解』は、あまりにも、芸術的じゃない」
彼はそう言うと、ふと、この壮麗で静寂に満ちた黒水晶の城を、愛おしげに見渡した。
「魔王と言えば魔王城だよねー。そして、そこで勇者の到着を待つ。これは昔からの常識。お城ありがとね、グラズニール」
その、あまりにも場違いで、軽薄な口調。
グラズニールは、主の言葉の意図を測りかね、その赤い一つ目をわずかに明滅させる。
ヴォルディガーン自身も、今、自らが口にした言葉に、ほんの僅かな違和感を覚えた。
(……ん? 昔からの常識? なんだそれ……。まぁ、いいか)
その無邪気な笑みが、ふと、ほんの一瞬だけ消えた。
彼の瞳の奥に、子供のような愉悦とは全く異質の、深く、そして憂いを帯びた色が、本当に微かに、水面の波紋のように揺らめいた。
それは、彼の本質であるはずの無垢な残酷さとは相容れない、どこか異質な感情の欠片。
だが、その色は一瞬で掻き消され、再び彼の顔には無邪気で残酷な笑みが戻っていた。
そして闇の鏡に映る、必死にそれぞれの死地へと向かう二つの小さな光を見つめ、心からの愉悦を込めて独り言ちた。
「いいね。絶望は、希望という餌を与えると、より美味しく育つ」
彼はそのどこまでも無邪気な少年のような笑みをさらに深くした。
「さあ、どちらが先に私をより楽しませてくれるのかな。賢者の知恵を求め過去の亡霊にすがる者たちか。それとも神の剣を求め未来を斬り拓こうとする者か」
彼にとってこれは戦争ではない。
ただの遊戯。
人類が自らの手で最も美しい絶望の形を完成させるまでの、壮大な盤上の遊戯に過ぎなかった。
そのあまりにも巨大で残酷な視線を、盤上で必死にもがく駒たちはまだ知る由もなかった。
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