幕間:『賢者の見る千年の夢と、英雄の黄昏』
深い、深い砂の底。
大陸南部、ザルバードの大砂漠の中心。
灼熱の太陽と、永遠に続くかのような砂丘の下、古代の魔術によって人の記憶から消された忘れられた聖域が、千年の時を静かに眠っていた。
その聖域の、最も深い場所。
巨大な水晶の棺の中で、一人の少女が、ただ、夢を見続けている。
絹のような白銀の髪は、彼女の華奢な身体を覆うように棺の底にまで広がり、その顔立ちは精巧な人形のように美しい。彼女こそ、大賢者セレヴィア・ル=メイラン。
彼女の夢の中では、千年前の景色が、繰り返し、繰り返し、再生されている。希望の夜明けと、絶望の黄昏が永遠に。
夢はいつも、光の中から始まる。
魔王ヴォルディガーンの脅威の前に疲弊しきっていたかの時代の王国。
そこに、理不尽に召喚された一人の少年、ハルキ。
ネオンの光、アスファルトの匂い、そんな彼が失った世界の記憶を瞳の奥に宿した、最後の希望。
国王が苦々しげな顔で紹介した仲間たちは、お世辞にも「精鋭」とは呼べない、はぐれ者の集まりだった。
「あたしはアストリッド! 王国の騎士団に籍を置いてはいるが、堅苦しいのは性に合わなくてね。まあ、見ての通りのただの酒好きの女さ。だが、剣の腕だけは、そこいらの軟弱な貴族の坊ちゃんどもには負けんよ!」
最初に名乗りを上げたのは、腰に下げた長剣を無造作に肩に担ぎ、豪快に笑う女剣士だった。
その瞳は、どんな逆境も楽しむかのような、強い光を宿していた。
「……ボルグ」
次に、地響きのような低い声で名乗ったのは、山岳部族出身の寡黙な大男だった。
その身の丈は常人の倍近くあり、背負った巨大な戦斧は、それだけで並の兵士を震え上がらせるほどの威圧感を放っている。
彼は、ただ、仲間になる者たちの顔を、その熊のような目でじっと見つめるだけだった。
「……セレヴィア・ル=メイラン、です。神殿で、少しばかり、古い文字を読んでいるだけの、しがない学者ですので、あまり、期待はしないでくださいまし」
そして、神殿の奥深くで古文書の研究に明け暮れていた、若き天才賢者―――夢を見ている自分自身、セレヴィア。
彼女は、フードを目深にかぶり、誰とも視線を合わせようとせず、そう呟いた。
「……ハルキ。よろしく。まあ、死なない程度に、頑張りましょう」
最後に、勇者ハルキが、あまりにも他人行儀な挨拶を返す。
旅は、当初、困難を極めた。出自も、考え方も、何もかもがバラバラな四人は、当然のようにぶつかり合った。
「ハルキ! あんた、また一人で突っ走って! 少しは、あたしたちのことも考えな!」
「……セレヴィア。お前の、その理屈ばかりの戦い方は、好かん」
「……うるさい! 俺は、俺のやり方でやる!」
それでも、共に死線を越え、焚火を囲み、互いの傷を舐め合ううちに、彼らの間にはいつしか、言葉にはできない確かな絆が芽生えていた。
ハルキもまた、この世界で初めて「仲間」を得て、自らの役目を少しずつ受け入れ始めていた。
そして、もう二人が仲間に加わった頃には、勇者と仲間たちの名声は大陸中、いや、外大陸にも名が轟いていた。
だが、夢は、徐々に、色を失っていく。
旅路は、あまりにも過酷だった。
最初の絶望は、中部の山岳地帯で訪れた。魔王軍の四天王が率いる大軍勢に包囲された村を救うための戦い。
その中で、ボルグは、仲間たちを逃がすための殿を務め、その巨体を盾とし、魔王具幹部の一撃に身体を貫かれ、無数の刃を受けながら、仁王立ちのまま、絶命した。
「友は死に」―――ハルキが、初めて知った、守れなかった命の重さだった。
二人目の喪失は、さらに唐突で、理不尽だった。
東方の地を抜ける道中、一行は魔王が仕掛けた、古代の呪詛が渦巻く「嘆きの沼」に迷い込んだ。
アストリッドは、瘴気にあてられ動けなくなったセレヴィアを庇い、沼の主である巨大な魔獣の毒牙にかかった。
彼女は最後まで豪快に笑いながら、ハルキに「おい、勇者様よ。あたしの分の酒、天国まで持ってきな! 約束だぞ……!」と言い残し、その命を散らした。
そし、仲間たちは次々と死んでいった。
そして、ハルキ自身もまた、その身も、心も、とうに、限界を超えていた。
旅の終着点、「終焉の谷」。
そこにたどり着いた時、ハルキの隣にいたのは、もはや、セレヴィア、ただ一人だった。
そこで彼らを待っていたのは、絶対的なまでの破壊の化身、魔王ヴォルディガーンだった。
その、あまりにも巨大な力の前に、もはやハルキの心には、戦意すら湧いてこなかった。
絶望に染まる勇者の目の前で、魔王ヴォルディガーンが嗤った。
そして、夢は、歴史が記さなかった、彼女だけが知る真実へと至る。彼女が犯した、取り返しのつかない「過ち」の記憶へ。
「ハルキ、逃げよう! 私たちでは、勝てない!」
セレヴィアの心が、折れた。
仲間たちの死、そして目の前の絶対的な絶望を前に、彼女は、戦うことを、放棄してしまったのだ。
彼女はハルキの腕を掴み、この場から逃げ出そうとした。
それこそが、彼女が千年間苛まれ続ける、賢者としての、仲間としての、最大の罪だった。
彼女のその絶望が、ハルキの心に残っていた、最後の細い糸を、ぷつりと断ち切った。
ハルキは、砕けた心で、乾いた笑いを漏らした。
「……破壊? 混沌? 支配?結構なことだ。好きにすればいい」
「俺は、もう、疲れたんだ。戦うのも、救うのも、期待されるのも……何もかも。この世界が、どうなろうと、もう、知ったことか」
ハルキは、その手に握られた「星詠みの神剣」を、祈るように胸の前に掲げた。
「俺は、この世界を救う気なんて、もうない。ただ……」
「……俺は、静かに、なりたいだけだ」
それは、世界を救うための自己犠牲ではない。
この理不尽な世界そのものを道連れにする、最後の呪いだった。
「だから、貴様も、この世界も、俺と一緒に、永遠に眠れ」
―――私は、逃げた。
―――そして、ハルキを、独りにしてしまった。
ハルキの、あまりにも純粋で、そして絶望に満ちた「静寂への願い」の光が、セレヴィアの不完全な封印術式を乗っ取る。
光は、破壊の化身であった魔王の、その混沌の闇へと、吸い込まれるように、混じり合っていく。
純粋な闇は、それと同質で、しかし対極の光をその内に取り込み、その性質を、静かに、そして、永遠に変質させていった。
水晶の棺の中で眠る彼女の、血の気のない頬を、一筋の熱い涙が伝った。
戦いの後、生き残ったセレヴィアは、自らの弱さと、仲間を見捨てて逃げ出した行いを深く恥じた。
その拭い去ることのできない罪の意識が、彼女を、世界から隔絶されたこの砂漠の聖域へと導き、自らを水晶の棺に封印させたのだ。
千年の眠りは、彼女が自らに課した、永遠の贖罪だった。
彼女は、眠りながら、世界の微かな声を聞いている。
大地の嘆き。
魔王の、目覚めの気配。
そして、千年の時を経て、この世界に新たに産声を上げた、「王」と、「勇者」の存在を。
だが、その声はまだ届かない。
彼女の魂は、千年前の絶望と後悔に、固く、固く閉ざされている。
(……いや……)
(……もう、何も、考えたくない……)
水晶の棺が、千年の沈黙を破り、淡い光を放ち始めた。
それは、絶望の色か、あるいは、贖罪の果ての、新たな希望の色か。
彼女の目覚めが、何を動かし、そして、何をこの世界にもたらすのか。
それはまだ、誰にも、知る由もなかった。
明日から、第四部の本編に入ります。
第四部自体はすでに書き上げてますので、1日朝夜の2話投稿を考えています。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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