幕間:『王の休日と、秘書の憂鬱』
魔王が大陸全土に「一年」という絶望的なタイムリミットを告げ、そして「瓦礫の上の円卓会議」で人類の反撃の策が定められてから、数日が過ぎていた。
ロムグール王国の国王執務室は、もはや戦場そのものだった。
羊皮紙の山が城壁のように積み上がり、インクと、フィンが時折持ち込む栄養ドリンクの薬草臭い匂いが混じり合い、独特の空気を醸成している。
俺、アレクシオス・フォン・ロムグールは、その戦場の中心で、眉間に深い皺を刻みながら、大陸地図を睨みつけていた。
賢者セレヴィアが眠るという南のザルバード王国。
星詠みの神剣が眠るという東のヤシマ。
どちらも、あまりにも遠い 。
そして、道中には、様々な危険が待ち受けているに違いない。
俺自身の護身のため、そして、万が一の事態に、仲間を守れるだけの最低限の力が、今の俺には必要だった。
「―――というわけで、リリアナ。すまないが、俺に魔法の基礎を教えてはくれないだろうか」
俺の、その唐突な申し出に、山積する外交文書の最終確認をしていたリリアナは、手に持っていた羽根ペンを危うく取り落としそうになりながら、驚きに目を見開いた。
「へ、陛下が……ま、魔法を、でございますか!?」
その声は、驚きと、そして、それ以上の、隠しきれない歓喜に打ち震えていた。
「もちろんでございます! なんと素晴らしいお心がけでしょう! 陛下が、文武両道、いえ、文武魔の全てを修められようとは! このリリアナ、誠心誠意、陛下が大陸一の魔法の使い手となられるよう、全力でお手伝いさせていただきますわ!」
リリアナは、うっとりとした表情で、頬を薔薇色に染めている。
彼女にとって、敬愛する国王が、自らの専門分野に興味を示してくれたことは、何よりの喜びなのだろう。
その、あまりにも純粋な期待が、正直、少しだけ重い。
◇
その日の午後。
俺は、リリアナに連れられ、王城の、普段は使われていない中庭へと来ていた。
「さて、陛下。まずは、全ての魔法の基本となります、魔力制御の訓練から始めましょう。ご自身の体内に流れる、温かい『気』のようなものを感じ、それを、ゆっくりと、手のひらに集めるイメージで……」
リリアナは、まるで子供に教えるかのように、丁寧な、しかし、どこか楽しげな口調で説明してくれる。
彼女が、そっと手のひらをかざすと、その指先に、小さな美しい光の玉が、ふわりと灯った。
「おお……」
俺は、素直に感嘆の声を漏らした。
「これが、『灯火』の魔法。最も簡単で、最も基本的な光の魔法ですわ 。さあ、陛下も」
促されるまま、俺は、目を閉じ、必死に、体内の「温かい気」を探す。
(……温かい気……? いや、どちらかというと、慢性的な胃痛しか感じないんだが……。これか? いや、違うな……)
数分後。
「……どうでしょうか、陛下?」
リリアナの、少しだけ不安そうな声に、俺は、目を開けた。
俺の手のひらの上には、何も、起きていなかった。
「……おかしいな。もう一度だ」
俺は、再び集中する。今度は、前世で培った、プレゼン前の極限の集中力を思い出し、全神経を、手のひらの一点へと注ぎ込んだ。
すると、どうだろう。
パチッ、と。
俺の指先から、本当に小さな静電気のような火花が、一瞬だけ散った。
「……おお! 陛下、今、確かに! 魔力の輝きが!」
リリアナが、自分のことのように、声を弾ませる。
その、あまりにも純粋な喜びに、俺は、かえって、申し訳ない気持ちになった。
(……ダメだ、これ。俺、本当に、才能ないぞ……)
【絶対分析】スキルは、魔法の理論――術式の構成、魔力の流れ、最適な詠唱法――を、完璧に、寸分の狂いもなく、俺の脳内に叩き込んでくる。
頭では、理解できているのだ 。
リリアナが、どれほど高度な魔力制御で、あの光の玉を生み出しているのかも。
だが、俺の身体が、その理論に、一ミリも、ついてこない。
理論は完璧に理解できるのに、実践が、全くダメ 。前世の、頭でっかちな新人社員のようだった。
それから、一時間。
俺は、リリアナの、辛抱強い指導の下、必死に「灯火」の魔法を練習し続けた。
その結果。
パチッ……パチパチッ……。
俺の手のひらから、時折、火花が散るようになった。それだけだった。
リリアナは、最初は「素晴らしいですわ、陛下!」「その調子です!」と、必死に俺を励ましていた。
だが、一時間経っても、一向に「光の玉」にならない、ただの「火花」を、健気に生み出し続ける俺の姿に、彼女の、必死に堪えていた何かが、ついに限界を迎えた。
「……くすっ」
最初は、小さな、忍び笑いだった。
「……ふふっ……あ、いえ、申し訳ございません、陛下……でも……」
やがて、彼女は、両手で口元を押さえ、その肩を、ぷるぷると、震わせ始めた。
そして、ついに。
「……あ、あははははははっ! ご、ごめんなさい、陛下! でも、あまりにも……! その、真剣な、お顔で……パチパチ、と……!」
リリアナは、涙を流しながら、腹を抱えて、その場に、蹲ってしまった。
その、年頃の少女らしい、無邪気な、そして、一点の曇りもない笑い声が、静かな中庭に響き渡った。
俺は、呆然と、その光景を見ていた。
そして、不思議なことに、屈辱や、怒りといった感情は、全く湧いてこなかった。
むしろ、その逆だった。
この数週間、常に張り詰めていた心の糸が、彼女の、その、あまりにも楽しげな笑い声によって、ふっと緩んだような気がした。
「……陛下にも、お出来にならないことが、あるのですね」
ひとしきり笑い終えたリリアナは、涙を拭いながら、悪戯っぽくそう言った。
その、普段の、完璧な補佐官としての彼女からは、決して見ることのできない、無邪気な笑顔 。
その笑顔に、俺は、この世界に来てから、初めて、本当に、救われたような気持ちになった 。
「……ああ。どうやら、俺は、魔法使いには、なれそうにないな」
俺は、そう言って、彼女と同じように、笑った。
その日、俺は、魔法の才能が皆無であることを、完全に、証明した。
だが、それと引き換えに、もっと、ずっと、温かく、そして、かけがえのないものを、手に入れたような気がしていた。
王と、その秘書の、束の間の確かな絆。
それは、これから始まる、過酷な旅路を、そっと照らしてくれる、小さな「灯火」となるのかもしれない。
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