幕間『二人の盾、交わした誓い』
勝利の歓声は、とうの昔に、極北の冷たい風に掻き消されていた。
”不動”のグラズニールが率いた黒鉄の軍勢が、謎の撤退を遂げてから数時間が過ぎたエルヴァン要塞。
そこに広がっていたのは、勝利の余韻などでは断じてなく、おびただしい数の死がもたらす、重苦しい静寂だけだった。
半壊した城壁には、無数の矢が突き刺さり、至る所で黒煙が立ち上っている。
石畳は、ロムグールとシルヴァラント、そして魔族の血が混じり合い、ぬかるんで赤黒く染まっていた。
生き残った兵士たちは、言葉少なに、倒れた仲間たちの亡骸を丁重に運び出し、あるいは、自らの傷の手当てをしながら、虚ろな目で、静まり返った雪原を見つめている。
シルヴァラント公国、精鋭騎馬隊の一員としてこの地獄に駆けつけたサー・レオンは、そのあまりにも凄惨な光景に、言葉を失っていた。
彼は、シルヴァラントのアカデミーで、騎士道を学び、理想を胸に剣を振るってきた。
もちろん、国境での小競り合いや、魔物の討伐といった実戦経験もある。
だが、これほどの規模の、国家の存亡を賭けた総力戦の、その爪痕を目の当たりにするのは、初めてだった。
一体、どれだけの命が、この数日間で失われたのか。
ロムグールの騎士たちの鎧は、例外なくボロボロに砕け、その顔には、死線を越えた者だけが持つ、深い疲労と、そして、仲間を失った哀しみが刻まれている。
だが、誰一人として、その瞳の光を失ってはいなかった。
彼らは、敗残兵ではない。絶望的な状況下で、最後まで国を、仲間を、信じて戦い抜いた、真の英雄の顔をしていた。
「……これが、北壁の獅子たち……」
レオンは、畏敬の念と共に呟いた。そして、彼は、この地獄の戦場を最後まで指揮しきったという、若き司令官の姿を探した。
グレイデン・アストリアは、本丸の、崩れかけた城門の前に、ただ一人、静かに立っていた。
彼は、自らの傷の手当てもせず、ただ、一体、また一体と運び出されていく、部下たちの亡骸に、無言で敬礼を捧げ続けていた。
その多くが、バルカスと共に最後の突撃を敢行し、そして帰らなかった「獅子王隊」の古強者たちだった。
その誇り高き騎士の鎧は、見る影もなく引き裂かれ、乾いた血と泥が、おびただしくこびりついている。
彼の顔は、煤と疲労で汚れ、その瞳は、あまりにも多くの死を見過ぎたせいで、感情というものが抜け落ちたかのように、深く、そして、虚ろだった。
レオンは、意を決して、その、あまりにも大きな背中へと、歩み寄った。
「……エルヴァン要塞司令官、グレイデン・アストリア殿」
レオンは、シルヴァラントの流儀に則り、胸に手を当て、完璧な騎士の礼をした。
「わたくしは、シルヴァラント公国より参りました、サー・レオン・アルフェンと申します。貴殿らの、その気高く、そして、あまりにも勇敢な戦いぶりに、一人の騎士として、心からの敬意を表します」
それは、レオンの、一点の曇りもない本心だった。理想を胸に抱く騎士として、目の前の、傷ついた獅子のような男は、まさしく英雄そのものに映った。
グレイデンは、ゆっくりと振り返ると、その虚ろな瞳でレオンを一瞥した。
そして、まず、司令官として、友軍への感謝を口にした。
「シルヴァラントのサー・レオン殿。貴殿らの援軍は、まさに最後の瞬間に到着した。エルヴァン要塞の兵を代表し、礼を言う。貴殿らの助力がなければ、我らは誰一人として、ここに立ってはいなかっただろう」
その声は、乾いてはいたが、確かな感謝の響きがあった。だが、彼は続けた。その声は、一転して、冷たく、そして深い自責に満ちていた。
「だが……この戦いへの敬意と口にするのは、やめていただきたい。周りを見ろ。これは誉れ高き光景ではない。我々の失敗が招いた、惨劇の名残だ。私は師を死の淵に追いやり、数えきれぬ部下を死なせた。これは勝利ではない。ただ、我々の無力さが招いた悲劇の証明に過ぎん」
グレイデンの言葉に、レオンは息を呑んだ。彼の瞳の奥に渦巻いているのは、深い自責の念だった。
彼は、生き残ってしまったことを、そして、多くの仲間を犠牲にしてしまったことを、悔いているのだ。
理想に燃えるレオンの、その純粋な言葉が、今の、傷つききった彼の心には、ただの、現実を知らぬ若者の戯言のように響いたのかもしれない。
「……申し訳、ありません。わたくしの、言葉が足りませんでした」
レオンは、再び、深く頭を下げた。だが、次に顔を上げた時、彼の瞳から、先ほどまでの、純粋な憧れの色は消えていた。
代わりに宿っていたのは、グレイデンの絶望を、正面から受け止める、同じ「盾」としての、揺るぎない覚悟だった。
「ですが、司令官殿。それでも、これは、敗北ではありませぬ」
レオンは、崩れた城壁の向こう、遥か南、ロムグール王都があるであろう方角を、その指で示した。
「貴殿らが、ここで、その命を賭して時間を稼いでくださったからこそ、今も、多くの民が、平和な朝を迎えることができている。貴殿らが、ここで血を流してくださったからこそ、我らシルヴァラントも、そして大陸の他の国々も、真の脅威に気づき、立ち上がる時間を得ることができたのです」
レオンは、グレイデンの目を、真っ直ぐに見据えた。
「貴殿らの犠牲があったからこそ、大陸の未来は、繋がれた。我々、生き残った者たちは、その、あまりにも尊い意志を、継がねばならない。……それこそが、我らに課せられた、唯一の責務のはずです」
その、あまりにも真っ直ぐな言葉。
それは、グレイデンが、師であるバルカスが死地へと向かう際に託された言葉と、奇しくも、同じ響きを持っていた。
『―――お前は、生きろ。そして、私の代わりに、王の、そしてこの国の、盾となれ!』
グレイデンの虚ろだった瞳に、何かの光が灯った。
目の前にいる、この銀狼の国の若き騎士は、ただの、理想に燃える若者ではない。自分と、同じ覚悟を、同じ痛みを、その双肩に背負う覚悟のある、真の「盾」なのだ、と。
「……そうか」
やがて、グレイデンは、ぽつりと、呟いた。
その声には、まだ、深い悲しみが滲んでいたが、確かに、前を向こうとする、意志の光が宿っていた。
「……お前の、言う通りかもしれんな、サー・レオン」
グレイデンは、自らの、血と泥に汚れた籠手を、差し出した。
レオンは、その手を、自らの、磨き上げられた銀の籠手で、強く、固く、握り返した。
言葉は、もはや必要なかった。
異なる国の、異なる道を歩んできた、二人の「盾」。
その魂は、今、この、絶望の淵で、一つの、固い、固い誓いによって、結ばれた。
共に、この大陸を、守り抜こう、と。
二人は、静まり返った雪原を見つめた。
不落の要塞は、砕けた。だが、その瓦礫の上で、大陸の未来を守るための、二つの、より強固な盾が、今、確かに、産声を上げたのだった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




