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幕間『黄金の鷲の育て方』

 

 ガルニア帝国の人間は、生まれながらにして勝者であることを義務付けられる。


 特に、その血に皇帝家の「黄金の鷲」の紋章を宿す者は、その宿命から決して逃れることはできない。


 ヴァレンティン・フォン・シュタイナーが、その真理を骨の髄まで理解したのは、まだ彼が十歳にも満たない、幼き日のことだった。


 帝都にそびえる帝国軍士官アカデミー。


 その、選ばれた者しか足を踏み入れることのできない学び舎で、ヴァレンティンは常に「完璧」だった。


 皇帝の甥という血筋。


 銀糸のような髪と、彫刻のように整った顔立ち。そして何より、剣術、馬術、戦術学、魔導理論、その全てにおいて、同年代の誰をも寄せ付けない、圧倒的なまでの才能。


 彼は、教官たちから「帝国の未来そのもの」と称賛され、学友たちからは畏怖と嫉妬の眼差しを向けられていた。


 ヴァレンティン自身、それを当然のことと受け入れていた。


 一番であること。勝者であること。それこそが、シュタイナー家の、そして皇帝の血を引く者の、存在理由なのだから。


「ヴァレンティン。負けは、死と同義だ。いや、死以下の、一族の恥辱だと思え。我らガルニアの鷲は、決して地に落ちてはならぬのだ」


 叔父であり、大陸の覇者である皇帝コンスタンティンは、幼い彼に、そう繰り返し教え込んだ。


 その言葉は、ヴァレンティンの魂に深く刻み込まれた、絶対の戒律だった。


 彼は、誰よりも努力した。


 血の滲むような鍛錬を、遊びたい盛りの子供が受けるにはあまりにも過酷な学問を、歯を食いしばって乗り越えた。


 それは、恐怖からではない。


 ただ、皇帝の、そして帝国の期待に応えることだけが、彼の唯一の存在価値だと信じていたからだ。


 その、完璧な世界に、初めて亀裂が入ったのは、アカデミーの卒業を間近に控えた、選抜模擬戦闘でのことだった。


 決勝の相手は、カインという名の、平民上がりの者だった。


 彼は、ヴァレンティンのような華やかさも、血筋も持たない。


 ただ、その瞳だけが、雑草のように、しぶとく、そして飢えた光を宿していた。


 彼は、その剣の腕一つで、数々の貴族の子弟を打ち破り、この決勝の舞台まで這い上がってきた、アカデミー始まって以来の異端児だった。


 誰もが、ヴァレンティンの圧勝を疑わなかった。ヴァレンティン自身もまた、そう信じていた。


 だが、試合が始まった瞬間、彼は、初めて経験する感覚に襲われた。


 カインの剣は、荒削りで、型にはまらない。


 だが、その一振り一振りには、ヴァレンティンの剣には決定的に欠けているものが、宿っていた。


 生きるための、必死さ。そして、ただ純粋に、強さを求める、渇望。


 ヴァレンティンの、美しく、完璧な剣技は、その泥臭く、しかし、生命力に満ちた剣の前で、徐々にその輝きを失っていく。


「どうした、お貴族様! その程度かよ!」

 カインは、獰猛な笑みを浮かべ、嵐のような連撃を仕掛けてくる。


 ヴァレンティンは、初めて、防戦一方に追い込まれた。


 焦り。


 屈辱。


 そして、理解不能な相手への、微かな恐怖。彼の心に、これまで感じたことのない、黒い感情が渦巻き始める。


 そして、ついに、その瞬間は訪れた。


 カインの、渾身の一撃が、ヴァレンティンの防御を弾き飛ばし、その木剣の切っ先が、彼の喉元に、寸止めで、ぴたりと突きつけられたのだ。


「……勝負、あり!」


 審判を務める教官の、苦々しげな声が、水を打ったように静まり返った訓練場に響き渡った。


 ヴァレンティンは、動けなかった。


 負けた。


 自分が。この、ヴァレンティン・フォン・シュタイナーが。平民上がりの、雑草のような男に。


 それは、彼がこれまで築き上げてきた、完璧な世界の、完全な崩壊を意味していた。


 だが、本当の地獄は、そこからだった。 


 数日後、アカデミーの掲示板に、一枚の、冷たい告示が張り出された。


『カイン。模擬戦闘中における、過剰な攻撃及び、対戦相手への侮辱行為により、騎士としての適性なしと判断。よって、本日付けで、アカデミーより追放処分とする』


「事故」として、彼の勝利は、歴史から抹消された。


 ヴァレンティンは、その告示の前で、ただ、立ち尽くしていた。


 彼は、私わかっていた。


 カインの攻撃に、過剰な点など、何一つなかったことを。


 ただ、自分より、強かった。


 それだけのことだ。


 彼は、皇帝の元へと、駆け出した。そして、生まれて初めて、叔父に、懇願した。


「陛下! お待ちください! アカデミーによるカインの追放は、間違いです! 彼は、私よりも、強かった。ただ、それだけなのです! どうか、お力を!」


 だが、皇帝は、静かに、本を読んでいた手を止めると、その、感情の読めない瞳で、甥を見つめた。


「ヴァレンティン。お前は、まだ、分かっておらんようだな」

 その声は、静かだが、冬の湖面のように、冷たかった。


「帝国に必要なのは、個人の武勇ではない。帝国の秩序を、その身をもって体現する、揺るぎない『象徴』だ。そして、その象徴が、平民の、得体の知れない小僧に負けるなどという『事実』は、帝国の歴史にあってはならんのだ。……あの小僧は、強すぎた。そして、お前は、弱すぎた。それだけのことよ」


 皇帝は、そう言うと、再び、本へと視線を戻した。


 その横顔は、もはや、甥の訴えに、一片の興味も示してはいなかった。


 その瞬間、ヴァレンティンは、全てを、悟った。


 この帝国では、強さも、弱さも、真実すらも、帝国の秩序という、巨大なシステムの前では、何の意味も持たないのだ、と。


 弱者は、切り捨てられる。


 たとえ、それが、真実の勝者であったとしても。


 そして、勝者であり続けるためには、決して、負けてはならない。いかなる手段を使っても。


 その日を境に、ヴァレンティン・フォン・シュタイナーという、一人の少年は、死んだ。


 代わりに生まれたのは、決して感情を表に出さず、決して負けることのない、完璧な「黄金の鷲」。


 彼の傲慢さと、冷徹さは、生まれ持ったものではない。


 この、巨大な帝国というシステムの中で、生き残るために、彼が、自らの手で、その身に纏った、重い、重い、鋼の「鎧」だったのだ。


 その鎧の下で、かつて、一人の少年の心にあったはずの、純粋な葛藤や、痛みは、誰にも知られることなく、永遠に、封じ込められた。


 ―――そして現代。


 ザルバード王国へと向かう旅の途中、荒野に設けられた質素な野営地で、ヴァレンティンは一人、焚火の揺らめきを無感情に見つめていた。


 パチパチと薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。少し離れた場所では、ロムグール王国の若き魔術師リリアナが静かな寝息を立て、その隣では、あの忌々しい勇者イトゥキが「すてーき……」などと寝言を漏らしながら、だらしなく眠りこけている。


(……くだらん)


 いつもならば、そう一蹴して思考を閉ざしていたはずだった。


 だが、今宵の彼は違った。


 皇帝陛下は、崩御された。


 あの完璧な秩序の象徴であった帝都は、魔族の策略の前に、あまりにもあっけなく燃え落ちた。


 帝都から流れ込んだ地方も少なくない被害を受けた。


 領主どもは関所を閉鎖し、帝国からの半独立のような立場を見せている。


 自分が生涯をかけて守り、そしてその一部であろうとした「完璧な世界」は、もはやどこにもない。


 鋼の鎧は砕け散り、今や、剥き出しになった魂が、極寒の夜風に晒されているかのようだった。 


 なぜだ。なぜ、帝国は敗れた。


 その問いが、彼の脳裏で何度も反響する。


 そして、その答えは、皮肉にも、目の前で眠る、あの役立たずな勇者の姿と、遠い昔に封じ込めたはずの、あの雑草のような少年の記憶の中にあった。


 カイン。そして、イトゥキ。


 二人とも、帝国の秩序からはみ出した「イレギュラー」。理屈も、常識も、通用しない存在。


 あの時、皇帝はカインという「イレギュラー」を、帝国の秩序を乱す異物として排除した。真の強さよりも、見せかけの完璧さを選んだ。


 その結果、帝国は硬直した。


 そして、ヘカテリオンという、別の「イレギュラー」な脅威を前に、その脆さを露呈し、崩壊した。


 一方で、ロムグールの若き王はどうだ。


 彼は、フィンやロザリアといった出自も定かでない者たちを抜擢し、そして何よりも、このイトゥキというとんでもない「イレギュラー」を、排除するどころか、連合の切り札として利用して見せた。


 あの小国の王は、秩序の外にある力を恐れなかった。


 むしろ、それこそが現状を打破する鍵だと、最初から理解していたかのようだ。


 叔父上が説いた、完璧な秩序と、揺るぎない象徴。それは、ただの幻想だったのか。


 あの時、カインを切り捨てた帝国の選択こそが、今日のこの敗北を招いた、遠い始まりだったのではないか。

 その思考に至った瞬間、ヴァレンティンの胸の奥深く、数十年も前に封じ込めたはずの場所が、ズキリと痛んだ。


 それは、少年の日に感じた、敗北の屈辱。


 見殺しにした罪悪感。


 そして、自らが信じた世界の、その根幹が揺らぐ、底なしの恐怖。


 鋼の鎧の下で、忘れ去られていたはずの少年が、数十年ぶりに、血を流していた。


 もし、あの時、自分がもっと強ければ。


 もし、あの時、皇帝に逆らってでも、カインと共に立つ道を選んでいれば。


 ありえない仮定が、嵐のように彼の心の中で吹き荒れる。


「……」


 ヴァレンティンは、無言で立ち上がると、眠るイトゥキの傍らに歩み寄った。


 そして、そのあどけない寝顔を、ただ、じっと見下ろした。


 この男の中に、彼は、かつて自分が失った、そして帝国が切り捨てた、「何か」の残滓を見ているのかもしれない。


(ロムグールの王よ。お前は、この男に、一体何を賭けている……?)



 黄金の鷲は、翼を折られ、地に落ちた。



 残されたのは、ただのヴァレンティン・フォン・シュタイナーという、一人の男。


 彼が、この絶望の荒野で、何を見出し、そして、どのような道を再び歩み始めるのか。


 それはまだ、彼自身にも、分からなかった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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