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幕間:『銀狼の姫、巣立ちの時』

 

 わたくしの手の中にある、父アルベリヒから託されたシルヴァント公国の印章が、ずしりと重い。


 王都カドアテメで開かれた「瓦礫の上の円卓会議」を終え、故国へと戻った今、この印章の重みは、もはやただの権威の象徴ではありませんでした。


 それは、アレクシオス陛下やリリアナ様、そしてイトゥキ様たちがそれぞれの死地へと旅立った今、この国を、ひいては連合の後方を預かるという、わたくし自身の覚悟の重さそのものでした。


 窓の外に広がる、月光に照らされた銀狼城の穏やかな夜景を見つめながら、わたくしの記憶は、この激動の始まりとなった、あの夜へと遡ります。


 全ての始まりは、父の執務室でした。


 初めて「対魔王大陸戦略会議」への参加から戻った夜、父はわたくしを一人、書斎へと呼びました。


 インクと古い羊皮紙の匂いが満ちるその部屋で、父は長年、大国ガルニア帝国の圧力と、国を治める重責に、その身を削って耐え抜いてきました。


「セレスティナ。本当に、あのロムグールの若き王を信じるに値すると、そう申すのか」

 その声には、わたくしの身を案じる父親としての切実な想いと、為政者としての深い疑念が滲んでいました。


「父上。もはや、座して待つ時代ではありません」

 わたくしは、きっぱりと告げました。


 脳裏に焼き付いていたのです。


 混沌とした会議の場で、予期せぬザルバードやヤシマの参加にも動じず、帝国の傲慢な将軍すらも手玉に取って見せた、あの若き王の姿が。


「わたくしは、彼に、このシルヴァラントの未来を、賭けたいのです」

 わたくしの瞳に宿る光に、父は何を思われたのでしょう。


 やがて、彼は長く、深い息を吐きました。


 そして、その顔に浮かんだのは、穏やかな、しかしどこか吹っ切れたような、父親の笑みでした。


「……分かった。お前の、好きにしなさい。シルヴァラントの未来は、お前に託そう」

 あの瞬間、守られるだけの姫であったわたくしは死に、シルヴァラントの未来を背負う、一人の為政者として生まれ変わったのです。


 その覚悟が試されるのは、想像よりもずっと早いことでした。


 わたくしたちの故国を「黒枯れ病」の呪詛が襲ったのです。


 日に日に黒く枯れていく大地、苦しむ民の姿に、わたくしは為政者としての無力さを初めて骨の髄まで味わいました。


 ですが、アレクシオス陛下は、わたくしたちを見捨てませんでした。


 彼が派遣してくださった調査団がもたらした光景は、わたくしに、そして父に、「連合」というものが、ただの言葉ではない、確かに民を救う力なのだと教えてくれました。


 しかし、その直後に訪れたのが、”剛腕”のモルガドールによるロムグール侵攻でした。


 エルヴァン要塞が炎に包まれ、アレクシオス陛下率いる先遣隊が出立したという報せ。


 わたくしは、連合の一員として友軍を救うべく、すぐさま援軍を編成いたしました。


 ですが、その部隊の進路は、マーカス辺境伯の裏切りによって完全に断たれてしまったのです。


 北の友軍は死の淵にいる。


 そして、その背後では反逆者が王国の生命線を断っている。


 この脅威を放置すれば、アレクシオス陛下は完全に孤立してしまう。


 ならば、わたくしたちが辺境伯を討つ。


 それが、間接的にエルヴァンを救う唯一の道だと信じ、わたくしは自ら軍を率いて出陣いたしました。


「王の橋」で、数で遥かに勝る辺境伯の軍勢と、わたくしたちの軍は激突しました。


「セレスティナ様、敵の数が多すぎます!」


「持ちこたえなさい! 私たちがここで崩れれば、アレクシオス陛下の退路は完全に断たれるのです!」


 泥沼の膠着状態。


 北で死闘を繰り広げる友軍を救うことも、目の前の敵を打ち破ることもできず、ただ時間だけが過ぎていく。


 あの時の、己の力の及ばなさに対する忸怩たる思いを、わたくしは生涯忘れることはないでしょう。


 その絶望的な戦況が覆ったのは、北の地平線から、あの黄金の獅子の旗が現れた時でした。


 辺境伯軍が動揺し、壊滅していく様を、わたくしはただ呆然と見つめていました。


 戦いが終わった後、わたくしは馬を駆り、橋の中央で再会を果たしたアレクシオス陛下の元へ向かいました。  


「アレクシオス陛下! ご無事で…そして、お見事な勝利、お祝い申し上げます」

 言葉とは裏腹に、わたくしは彼の姿に戦慄していました。 


 そこにいたのは、王都で見た理知的な王ではありませんでした。


 鎧は砕け、血と泥に汚れ、その瞳の奥には、仲間を失った深い哀しみと、全てを焼き尽くすかのような冷たい怒りが宿っていました。


 彼は、地獄から帰ってきたのです。


 そして、その地獄で、我々の想像を絶する真実を掴んでしまったのだと、その目を見ただけで分かりました。


 だからこそ、あの三つの絶望が大陸を襲った時、わたくしは誓ったのです。


 二度と、同じ過ちを繰り返すものか、と。


 司令室の円卓で、アレクシオス陛下がエルヴァン要塞への救援を叫ばれました。


「セレスティナ殿、シルヴァラントからも軍勢を出していただきたい!」

 その声に、わたくしの脳裏には、「王の橋」で見た陛下の、あのあまりにも痛々しいお姿が蘇りました。


 わたくしは、即座に立ち上がりました。

「当然ですわ、陛下!」


 そして、わたくしはこの会議に護衛として同行していた、我が国最速と謳われる騎士の名を呼びました。 


「サー・レオン!」

 呼ばれた彼が、驚きと共にわたくしの前に進み出ます。


 わたくしは、彼の目を真っ直ぐに見つめ、公女としてではなく、一人の盟友として、懇願しました。


「レオン、貴方に我が国の最精鋭を託します。エルヴァン要塞は、今、まさに陥落の瀬戸際にあります。かつて、わたくしたちは間に合わなかった。その屈辱を、雪ぐ時は今です」

 そして、わたくしは、その場にいた誰もが予想しなかったであろう行動に出ました。


 シルヴァラント公国の公女として、自らが臣下である騎士の前に、深く、深く、頭を垂れたのです。


「これは、命令ではありません。わたくしからの、心からのお願いです。どうか、風となってください。我々の、そして大陸の希望を、北の同胞の元へ届けてください。銀狼の牙の鋭さを、かの不動の鉄槌に、見せつけておやりなさい!」


「……姫君、お顔を……」

 レオンの、震える声。


 わたくしが顔を上げると、彼の瞳には、驚きと、そして、その身を燃え上がらせるかのような、鋼の決意が宿っていました。


「セレスティナ様。その御心、このレオン、確かに拝受いたしました。この命に代えましても、必ずや!」


 彼が仲間と共にエルヴァン要塞の窮地を救ったという報せが届いた時、わたくしは父の執務室で、一人、静かに涙を流しました。


 そして、今。


 アレクシオス陛下とリリアナ様、イトゥキ様たちが、それぞれの死地へと旅立った今、この国を、そして連合の後方を預かるという、わたくし自身の覚悟の重さ。


 わたくしは、もう迷いません。


 父が守ったこの国を、今度はわたくしが、より強く、より気高い国へと育て上げてみせる。


 銀狼の姫は、もういない。


 ここにいるのは、大陸の未来を担う、一人の盾。 


 わたくしは、静かに、しかし、鋼のような決意を胸に、夜明けを迎えつつある自国の空を、真っ直ぐに見据えました。




 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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