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第百二十二話:幽閉されし元騎士団長

 

 司令室は、もはや戦場と化していた。


 影のロザリアが振るう、黒い茨の鞭。


 それは、しなやかな曲線を描きながら、空気そのものを切り裂くような鋭さで、フィンとイデンに襲いかかる。


「くっ……!」

 イデンは、その長い政治人生で、およそ縁のなかった剣――杖に仕込まれた細身のレイピアを抜き放ち、必死にその攻撃を捌いていた。


 だが、彼の剣技は、あくまで護身の域を出ない。


 影のロザリアの、人知を超えた動きの前には、防戦一方となるのがやっとだった。


「宰相! 下がれ!」

 フィンは、近くにあった装飾用の重い鎧を、力任せに影のロザリアへと突き飛ばした。


 影は、それを、まるで紙切れのように鞭の一閃で弾き飛ばすが、ほんの一瞬、確かな隙が生まれる。


 二人は、その隙に、分厚い執務机の陰へと転がり込んだ。


 その時、司令室の扉が外から勢いよく開け放たれた。


「宰相閣下、ご無事ですか!」


「何事です!」


 騒ぎを聞きつけた、屈強な近衛騎士たちが、四名、剣を抜き放ちながら駆け込んできたのだ。


 彼らは、王城の守りの中でも精鋭中の精鋭だった。


「おお、助けが……!」

 フィンが安堵の声を漏らすよりも早く、騎士たちは、敵である影のロザリアの姿を認めた。


 だが、その顔を見て、彼らの動きが、一瞬、確かに止まった。


「……ロザリア殿?」


 先頭に立っていた騎士の一人が、信じられないといったように、その名を呼んだ。


「な、なぜここに!? そのようなお姿で……!」

 彼らが知るロザリアは、戦いとは無縁の、心優しき「恵みの大地の癒し手」。


 その彼女が、禍々しい鞭を手に、宰相に襲いかかっている。


 その、あまりにも矛盾した光景が、歴戦の騎士の判断を、致命的に鈍らせた。


 影は、その一瞬の隙を、見逃さなかった。


 その口元に、ロザリア本人とそっくりな、しかし、残酷なまでに冷たい笑みが浮かぶ。 


「あら、わたくしに何かご用ですか?」


 次の瞬間、茨の鞭が、蛇のようにしなり、声を上げた騎士の、その無防備な喉元を、正確に撃ち抜いた。


「か……はっ……」

 騎士は、声にならない音を漏らし、自らの喉から噴き出す血を、信じられないといった目で見つめながら、その場に崩れ落ちた。


「ディノ!」


「き、貴様ぁっ!」


 仲間を瞬殺されたことで、残る三人の騎士は、ようやく目の前の存在が、ロザリアではない、何かおぞましい「化け物」であることを理解した。


 彼らは、怒りと恐怖に顔を歪ませ、一斉に襲いかかる。


 だが、影のロザリアは、楽しげに、くすりと笑っただけだった。


「あらあら、元気な虫さんが、増えましたわね」

 茨の鞭が、三本に分かれ、それぞれが意思を持つかのように、三人の騎士へと、同時に襲いかかった。


 ガシャン!と、甲高い音。一人の騎士の剣が、鞭の一撃で、明後日の方向へと弾き飛ばされる。


 残る衛兵も、足元の床を打った鞭が跳ね返り、その柄頭で鳩尾を強打され、あるいは足払いをかけられ、赤子の手をひねるように、次々と無力化されていく。


「……どうする、若造」

 イデンの額には、脂汗が滲んでいた。


「このままでは、我ら二人、あの化け物の餌食になるだけだぞ」


「分かってる!」

 フィンは、荒い息をつきながら、猛烈な速度で思考を巡らせていた。


(ダメだ、こいつの戦闘パターンは、俺の解析能力を超えている。物理的な干渉は可能だが、その動きはあまりにも速く、そして正確だ。ロジックが通用しない。必要なのは、この理不尽なまでの暴力を、さらに上の暴力でねじ伏せる、圧倒的な『武』の力……!)


 騎士団の主力は、遠い北の戦場。


 王城に残された衛兵では、あの化け物には到底歯が立たない。万策尽きたか。


 いや、まだだ。


 この城には、まだ、残っている。


 あまりにも危険で、常軌を逸した、最後の「牙」が。


「……イデン宰相。あんたに、一つ、賭けを提案する」

 フィンの、血走った目が、イデンを捉えた。


 その瞳には、恐怖を通り越した、狂気じみた光が宿っていた。


「俺が、ここから脱出し、最後の『戦力』を連れてくる。それまで、あんたには、何としても、ここで時間を稼いでもらいたい。できるか?」


「……正気か。貴様に、一体どんな『戦力』の当てがあるというのだ」


「この城の、一番深い場所に、眠ってるだろ。俺たちが、最も使いたくなかった、最悪の『駒』が」


 フィンの言葉に、イデンは、息を呑んだ。


 彼が言わんとしていることを、瞬時に理解したからだ。


 それは、あまりにも、無謀な、そして、国そのものを再び揺るがしかねない、危険な賭けだった。


「……よろしい。だが、若造」

 イデンの顔に、初めて、獰猛な笑みが浮かんだ。


「もし、貴様が、その『駒』に食い殺されるようなことがあれば、わしは、心から、貴様の愚かさを笑ってやるぞ」


「上等だ!お前こそ、俺が来るまでに死にやがったら、あの世で笑ってやるよ」



 フィンは、新たに駆けつけた衛兵と、イーデンが作り出した、ほんの僅かな隙を突き、司令室の隠し通路へと、その身を滑り込ませた。


 彼が向かう先は、ただ一つ。王城の、最も深く、暗い場所。


 地下監獄。


 冷たく、湿った空気が、フィンの頬を撫でる。


 彼は、松明の明かりを頼りに、長い螺旋階段を、駆け下りていった。


 その最下層。


 最も厳重な、魔術的な封印が施された独房の前に、フィンはたどり着いた。


 鉄格子の向こう側、その薄暗がりの中に、一人の男が、飢えた獣のように、殺気を放ちながらも静かに座っていた。


 その身体は、囚人服を着ていてもなお、鍛え上げられた筋肉で、はち切れんばかりだった。


 その瞳は、腐敗貴族のそれではない。


 ただ、己の力を信じ、そして、自らを貶めた者への、尽きせぬ憎悪に燃える、誇り高き剣士の光を宿していた。



 ロムグール王国、元騎士団長。レナード・フォン・ゲルツ。



「……なんだ、貴様は。宰相のところの、小賢しい計算係の小僧か。こんな、俺の寝床にまで、何の用だ? 俺の処刑の日でも、決まったか?」

 レナードは、フィンを認めると、その唇に、侮蔑の笑みを浮かべた。


 フィンは、鉄格子越しに、息を切らしながら、単刀直入に言った。


「……力を貸せ、レナード。今、この城は、得体の知れない化け物に襲われている。俺たちじゃ、手に負えん。あんたの、その剣の腕が必要だ」


「はっ! 面白い冗談を言う。この俺が、貴様ら、俺をここに繋いだ者たちのために、剣を振るうだと? 寝言は、寝て言え」

 レナードは、心底おかしそうに、肩を揺らした。


「取引だ」

 フィンは、続けた。


「この国を、この危機から守れば、国王陛下に、あんたの罪の赦免を進言してやる。これは、あんたが、この薄汚い牢獄から出て、再び、表舞台に戻る、唯一のチャンスだ」


「赦免、だと……?」

 レナードの動きが、ピタリと止まった。


 フィンは、最後の言葉を、突きつけた。


「敵は、人間じゃない。魔王直属の配下だ。とてつもなく強い。……ここで無様に朽ち果てるか。それとも、最後に、騎士として不足のない相手と戦って、死ぬか。―――選べよ、元・騎士団長殿」


 独房に、長い、長い沈黙が落ちる。


 やがて、レナードは、顔を上げた。


 その顔には、先ほどまでの侮蔑ではない。


 全てを、楽しむかのような、不敵な、そして、獰猛な笑みが浮かんでいた。


「―――くくっ。はははははっ! 面白い! 実に、面白いことになった!」

 彼は、立ち上がった。


 その身体から、幽閉されていたとは思えぬほどの、圧倒的な覇気が、放たれる。


「よかろう、小僧! その取引、乗ってやる!」


 レナードの瞳が、ぎらりと光った。


「どうせ死ぬなら、道連れが多い方がいい。せいぜい、俺が、気持ちよく死ねるだけの、舞台を用意しておけよ!」


 フィンは看守に命じ、独房の重い鍵を開けさせた。


 ギィィ、と、錆びついた鉄の扉が開く。


 解き放たれた、最も危険な、そして、最も頼れる、最後の牙。


 その男が、絶望の王都に、新たな混沌を連れて、今、解き放たれた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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