第百二十一話:魔王、降臨
その日、王都カドアテメは、束の間の、しかし確かな平穏の中にあった。
三つの戦線からの知らせは途絶え、民衆は不安を抱えながらも、復興へと向かう日々の営みに身を投じている。
その誰もが、王の帰還を、そして勝利の報せを、固唾をのんで待っていた。
だが、彼らの祈りは、最も残酷な形で裏切られることになる。
王城の戦時国家再建司令室。
フィンは、目の下の隈を指でなぞりながら、壁の巨大な地図を睨みつけていた。
隣では、宰相イデンが静かに茶をすすっている。
「……北のエルヴァン要塞からの連絡が、丸一日、完全に途絶えている。ただの魔力障害ならいいが、万が一の事態も想定しておくべきだ。追加の増援と予備の兵糧と治癒師団を、いつでも動かせるようにしておく」
フィンの声には、極度の疲労と、隠しようのない焦りが滲んでいた。
「落ち着け、若造」
イデンは、表情一つ変えずに言った。
「貴様が焦ったところで、戦況が好転するわけではない。今は、ただ、陛下と、バルカス殿たちの武運を信じ、我らが成すべきことを、淡々とこなすのみ」
その、宰相の言葉が、フィンの神経を逆撫でした。
「あんたはいいよな、ジジイ! どうせ、王様が負けりゃ―――」
「口が過ぎるぞ」
イデンが、冷たい視線をフィンに向けた、まさにその瞬間だった。
ふ、と。
部屋の空気が、変わった。
それまで、蝋燭の炎が立てていた、微かな音も、外から聞こえていたはずの、風の音も、全てが、消えた。
まるで、世界が、一枚の分厚いガラスの中に、閉じ込められてしまったかのような、絶対的な静寂。
そして、部屋の中央、何もないはずの空間に、何の予兆もなく、一人の青年が、立っていた。
年の頃は、二十歳前後。
少し癖のある黒髪に、華奢な体つき。
その顔には、人懐こい、どこか少年のような、無邪気な笑みが浮かんでいる。
服装は、王侯貴族のような豪奢なものではなく、ただ、上質な、黒を基調とした旅人の衣服。
だが、フィンも、イデンも、その男から、目が離せなかった。
いや、動けなかった。
蛇に睨まれた、蛙のように。
フィンの、あらゆる事象から法則性を見出し、最適解を導き出すはずのスキルが、目の前の存在から、何のパターンも、何のデータも、引き出すことができずに、空転している。
彼の頭脳は、理解不能な存在を前に、初めて、意味のある思考を拒絶した。
イデンの、その長い政治人生で初めて、その手に、じっとりと冷たい汗が滲んだ。
彼は、目の前の青年を、値踏みしようとした。
どんな人間にも、欲があり、隙がある。
それを見抜き、利用するのが、彼のやり方だった。
だが、この青年からは、何も読み取れない。
ただ、底なしの宇宙のような虚無だけが、その無邪気な笑みの奥に広がっていた。
「やあ」
青年が、にこやかに、口を開いた。
「ここが、ロムグールの王の巣かい? 思ったより、質素だね。でも、まあ、悪くない」
その声は、優しく、そして、心地よくさえあった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、フィンとイデンの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
「……き、さま……何者だ……」
フィンが、絞り出すような声で、尋ねた。
「僕? 僕は、ヴォルディガーン。君たちが、『魔王』って呼んでるもの、かな」
魔王ヴォルディガーンは、楽しそうに、そう名乗った。
「「なっ!!!」」
「さて、と」
魔王は、軽く伸びをした。
「王様はお留守か。残念だけど、まあ、いいや。彼が、大切にしている『おもちゃ』は、この城に残っているみたいだし、僕が、少し、遊んであげることにするよ」
彼が、パチン、と指を鳴らした。
その瞬間、彼の足元の影が、まるで生きているかのように、蠢き、盛り上がり、やがて、二つの、人型を形作った。
一つは、フィンと瓜二つの姿。
もう一つは、ロザリアと瓜二つの姿。
だが、その二つの「何か」は、本人たちとは、決定的に違っていた。
影のフィンは、その目に、一切の光がなく、ただ、冷徹な、機械のような無機質さを宿している。
影のロザリアは、その優しい笑顔とは裏腹に、瞳の奥に、全てを支配しようとする、独善的な狂気を宿していた。
「これは、君たちの『IF』。君たちの理想が、歪みきった、成れの果ての姿さ」
ヴォルディガーンは、楽しそうに説明する。
「さあ、お行き。そして、本当の自分に、教えてあげなさい。君たちの信じるものが、いかに脆く、そして、醜いものなのかを」
魔王の言葉と共に、影のフィンは、司令室の壁に、音もなく溶け込み消えた。
魔王も、いつの間にか現れたときと同じように一瞬で消えている。
そして、影のロザリアは、その場に残ったフィンとイデンに向かって、ゆっくりと、歩み寄ってきた。
その手には、影から作り出された、黒い茨の鞭が、握られている。
「……イデン様、フィン様。なぜ、抵抗するのですか? 全てを、わたくしに委ねてくだされば、この国は、全ての民は、等しく、幸せになれるのに」
その声は、ロザリアのものなのに、聞く者の心を縛るような、不気味な響きを持っていた。
「……化け物が」
イデンが、その長い人生で、初めて、本気の殺意を込めて吐き捨てる。
彼は、杖に仕込まれた、細身の剣を抜き放った。
「若造! 下がれ!」
その頃、王城の診療所。
ロザリアは、疲れた身体に鞭打って、薬草の調合を続けていた。
その、彼女の目の前に、音もなく、影のフィンが、姿を現した。
「ロザリア殿。君のその献身は、素晴らしい。だが、それは、非効率だ」
影のフィンは、感情のない声で、告げた。
「一人一人を救うなど、無駄なことだ。僕の計算によれば、弱者は切り捨て、強者を活かす方が、国全体の生存確率は上昇する。君のその、無駄な優しさが、この国を滅ぼすんだよ」
「……あなた、は……フィン、さん……? いいえ、違う!」
ロザリアは、その、あまりにも冷たい言葉に、戦慄し後ずさった。
「さあ、僕に協力して。この国を、最も『効率的』な、理想郷に作り変えよう」
影のフィンが、無機質な一歩を、踏み出した。
二つの場所で、同時に始まった、悪夢。
フィンとイデンは、圧倒的な力を持つ、影のロザリアを前に、絶体絶命の窮地に。
そして、ロザリアもまた、影のフィンを前になすすべもなかった。
嵐は、過ぎ去ったのではない。
王のいない王都の、まさに、その心臓部で、今、吹き荒れようとしていた。




