百十九話:最後の抵抗
空気が死んだ。
「終焉の槌」の先端に埋め込まれた巨大な魔石が、禍々しい紫黒の光を飽和させ、周囲の光という光を全て吸い込んでいく。
吹雪は止み、風の音すら消え失せた。
それは音ではない。
鼓膜を内側から圧迫する、純粋な魔力の圧力波。耳鳴りのような、高密度の魔力が空間を軋ませる音だけが、エルヴァン要塞の生き残りたちの骨の髄まで震わせていた。
「……来るぞ」
本丸の城門前で、グレイデン・アストリアは、残った僅かな兵士たちを背に、静かに呟いた。
その声に、恐怖はない。
ただ、自らの運命を受け入れた者の、凪いだ覚悟だけがあった。
「盾を構えろ! 何があろうと、決して退くな! 我らの背後には、王都へと続く道がある! ここが、ロムグール王国最後の城壁だ!」
「「「応!!」」」
兵士たちの、腹の底から絞り出した雄叫び。
だが、その声は、目の前の絶対的な絶望を前に、あまりにも虚しく響いた。
そして、世界から、音が消えた。
紫黒の光が、一条の奔流となって放たれた。
光というよりは、空間そのものを削り取る『無』の柱。
それが通過する大気は捻じ曲がり、目に見えぬ熱波が肌を焼いた。
―――轟音。
要塞全体が、根こそぎ揺さぶられる。
城壁に立つ兵士たちは、その衝撃波だけで、木の葉のように吹き飛ばされた。
まさにその瞬間、もう一つの絶望が、彼らの足元から牙を剥いた。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!
城門への着弾音とは明らかに違う、地の底から響くような、巨大な爆発音。
それは、本丸の中庭に面した、北塔の真下からだった。
グラズニール軍が執拗に続けていた坑道掘削が、ついに要塞の心臓部に達したのだ。
「なんだ!?何が起きた!」
「北塔だ!床が……床が抜けるぞぉっ!」
兵士たちの絶叫と共に、北塔の頑丈な石造りの床が、まるで火山の噴火のように真上へと吹き上がり、凄まじい轟音と共に陥没し、巨大な穴が口を開けた。
粉塵と岩石の破片が降り注ぐ中、そこから、つるはしや削岩具を手にした魔族の工兵たちが、そして、その背後から、黒い鎧に身を包んだ屈強なオークの精鋭部隊が、地の底から湧き出す悪夢のように、次々と姿を現した。
「なっ……! 地下からだ!?」
「敵が、城内に!」
兵士たちの間に、致命的な混乱と恐怖が走る。
正面の城門は、今まさに破られようとしている。
そして、今や、背後の城内からも敵が。
完全な、挟撃。
絶対的な死の盤面が完成した。
「サンゼン!」
グレイデンは、口内に広がる血の味と共に叫んだ。
「半数を連れて、北塔へ向かえ! 何としても、食い止めろ!」
「し、しかし司令官!も、もう……」
「やるしかないのだ! 行けぇ!」
副官のサンゼンは、一瞬だけ、苦渋に顔を歪ませたが、すぐに覚悟を決めた目で頷き、残った兵の半分を引き連れて、城内で新たに生まれた地獄へと駆け出していった。
残されたグレイデンと、数十名の兵士たち。彼らが守るべき城門は、魔力の直撃を受けて中央から巨大な亀裂が走り、分厚い鉄の扉は内側へと大きく歪み、今にも崩れ落ちそうだ。
そして、その向こう側からは、魔王軍の本隊が、地響きを立てながら、こちらへと進軍してくる。
もはや、これまでか。
グレイデンが、最後の突撃を命じようと、その口を開いた、まさにその瞬間だった。
「……まだだ」
背後から、聞こえるはずのない声が、聞こえた。
あまりにも、懐かしく温かい声。
「……まだ、ロムグールの獅子の牙は、折れてはおらんぞ」
グレイデンは、まるで雷に打たれたかのように、ゆっくりと、信じられないといった表情で、振り返った。
そこに、彼はいた。
全身を血染めの包帯で覆われ、片腕は吊り布で固定されている。
その屈強な身体の至る所から、おびただしい血が滲んでいる。
傍らの部下の肩を借りなければ、立っていることすら、ままならない。
だが、その瞳だけは、老いることも、傷つくことも知らぬ、百戦錬磨の獅子の光を宿していた。
「……し……師よ……!?」
グレイデンの声が、震えた。
「バルカス……様……!」
「生きて……おられたのですか……!」
絶望に染まっていた兵士たちの顔が、信じられないものを見るように、次々と彼に向けられる。
囁きが、やがて地鳴りのような歓声に変わった。
「ふん。死に損なったわ」
バルカスは、そう言って、忌々しげに吐き捨てた。
「あの世の門を叩いたはいいが、どうにも、まだやることが残っていると、追い返されてしまってな。……それより、グレイデン。みっともない顔をするな。貴様は、ここの司令官であろうが」
老獅子の一喝が、グレイデンの、そして、全ての兵士たちの心に、最後の、そして、最強の火を灯した。
「はっ……! 申し訳、ございません!」
グレイデンは、涙をこらえ、師の前に立つ。
言葉はいらない。
彼がどうやって生き延びたのか、それを問うのは、野暮というものだった。
「最後の戦いだ。見事な盾になってみせろ、小僧」
「御意に」
師弟は、言葉少なに対峙し、そして、互いの覚悟を、その視線だけで共有した。
バルカスは、部下から、一本の、使い古された大剣を受け取ると、それを杖代わりに、ゆっくりと、しかし、確かな足取りで、グレイデンの隣へと進み出た。
二人の獅子が、並び立つ。
老いたる獅子と、その魂を受け継いだ獅子が。
ミシミシ、と、最後の悲鳴を上げていた城門が、ついに、その機能を失い、内側へと、轟音と共に崩れ落ちた。
開かれた風穴の向こうに広がるのは、黒鉄の絶望。
魔王軍の最精鋭である、黒曜石の鎧に身を包んだ重装歩兵部隊が、一つの巨大な鉄塊となって、なだれ込んでくる。
バルカスが、その肺に残った、最後の空気を、全て絞り出した。
それは、獅子の、最後の咆哮。
「ロムグールに、栄光あれぇぇぇぇぇぇっっ!!」
「「「うおおおおおおおおおおっっ!!」」」
グレイデンも、そして、残った全ての騎士たちも、その声に呼応し、最後の雄叫びを上げた。
彼らは、なだれ込んでくる黒鉄の津波に向かって、自ら、その身を投じた。
死を覚悟した、最後の、そして、最も気高い突撃。
鋼と鋼が、激突する。
国のために、王のために、民のために、一秒でも時間を稼ぐために、ロムグールの獅子たちの、誇りを賭けた最後の抵抗が、今、始まった。




