第百十七話:絶壁の盾
絶望は、鉄の匂いと、血のぬかるみの味がした。
「ぐあっ……!」
若い騎士マルクの目の前で、共に王都の練兵場で汗を流した同期の盾が、オークの巨大な戦斧の一撃で、紙屑のように砕け散った。
仲間だったものの、赤い飛沫がマルクの頬を濡らす。
悲鳴を上げる暇も、恐怖に震える暇もない。
次なる刃が、すぐそこまで迫っている。
「持ちこたえろ! 隊列を崩すな!」
誰かの怒声が飛ぶ。
だが、その声も、四方から押し寄せる黒鉄の津波の前では、あまりにもか細い。
グラズニールの罠。
それは、完璧すぎた。
偽りの本陣におびき出されたロムグール連合軍は、完全に包囲され、狩られる獲物と化していた。
逃げ場はない。
四方を、機械のように冷徹な魔物の軍勢が、ゆっくりと、しかし確実に、その鉄の輪を狭めてくる。
「師よ……! もはや、これまでです!」
辛うじて味方が固まる中央で、グレイデン・アストリアが、血を吐きながら叫んだ。
彼の誇るエルヴァン要塞の精鋭たちも、この包囲殲滅戦の前にはなすすべもなく、次々と倒れていく。
「弱音を吐くな、若造が!」
バルカスは、その巨体で敵兵を薙ぎ払いながら、一喝する。
だが、その彼の呼吸もまた、明らかに荒くなっていた。
老いた獅子の、その比類なき武勇ですら、この数の暴力の前では、いずれ尽きる。
(……ここまで、か)
グレイデンは、砕けた自らの剣を見下ろし、死を覚悟した。
民を守ることも、王の期待に応えることも、そして、敬愛する師の背中を守り抜くことも、何もかもが、叶わなかった。
その、絶望に心が折れかけた、まさにその瞬間。
「グレイデン」
バルカスの、静かだが鋼のように強い声が、彼の耳を打った。
「聞け。まだ、道は一つだけ、残されている」
「道……? この、地獄のどこに!」
「ある」
バルカスは、断言した。
「貴様らが、生き延びる道がだ」
老将軍は、グレイデンの肩を、その巨大な手で、強く掴んだ。
その瞳には、もはや戦士の怒りではなく、弟子に全てを託す、師の、深く哀しい覚悟が宿っていた。
「わしが、殿を務める」
「……なっ!?」
グレイデンは、息を呑んだ。
「何を……! それでは、師よ、貴方が!」
「そうだ。私と、ここに残った獅子王隊の古強者どもが、最後の盾となる。我らが、この命を燃やし尽くし、鉄の檻に一瞬の亀裂をこじ開ける。貴様は、その隙に、残った兵を率いて、要塞まで退け。良いな」
それは、あまりにも、非情な作戦。
そして、あまりにも、気高い自己犠牲だった。
「嫌です! 断じて! 師を見捨てて、生き恥を晒すことなど、できませぬ! 死ぬのなら、ここで共に!」
「馬鹿者がッ!」
バルカスの拳が、グレイデンの頬を、本気で打ち据えた。
「これは、感傷ではない! 命令だ! 貴様は、このエルヴァン要塞の、そしてロムグール北壁の司令官! 貴様の命は、貴様一人のものではない! この要塞と、その向こうにいる民全ての、希望なのだ! それを、ここで、無駄死にさせることこそが、最大の罪だと知れ!」
老獅子は、荒い息をつきながら続けた。
その声は、もはや怒声ではなく、諭すような、そして、懇願するような響きを帯びていた。
「アレクシオス陛下は、我らを信じて、南で巨大な敵と戦っておられる。この北壁が、落ちるわけにはいかんのだ。……だから、グレイデン。お前は、生きろ。そして、私の代わりに、王の、そしてこの国の、『盾となれ!』」
師の、最後の言葉。
それは、グレイデンの魂を、直接、揺さぶった。
彼は、泣きたかった。叫びたかった。
だが、彼は、もはやただの弟子ではない。
この要塞の、数千の兵の命を預かる、司令官だった。
「…………御意に」
絞り出すような、その一言。
それが、彼の、答えだった。
バルカスは、満足げに、深く頷いた。そして、彼の周りに集まっていた、百を超えるかつての「獅子王隊」の、白髪の混じった歴戦の騎士たちへと、向き直った。
「聞いたな、我が獅子たちよ! これが、我らの、最後の戦場だ! 長年、酒場で昔話に花を咲かせるだけの老いぼれであったが、どうやら、最高の死に場所が、与えられたようだ!」
彼の言葉に、騎士たちの顔に、笑みが浮かぶ。
それは、死を前にした、戦士だけが浮かべることのできる、誇りに満ちた、獰猛な笑みだった。
「我らが王に、そして、未来を託す若き獅子たちに、我らの、最後の牙を、見せてやろうではないか!」
「「「おおおおおおおおおおっっ!!」」」
魂の咆哮が、天を衝く。
バルカスは大剣を掲げ、敵陣の最も分厚い一点を睨み据えた。
「全軍、わしに続け! 蹂躙せよ!」
老獅子が、駆けた。
その鬼神の如き突撃に、敵陣が初めて揺らぐ。
鉄壁を誇った包囲網に、ほんの一瞬、しかし、確かな亀裂が生まれた。
「今だ! グレイデン! 行けぇっ!」
バルカスの絶叫が響く。
だが、グレイデンと、マルクをはじめとする若い騎士たちは、師を、そして敬愛する先輩たちを見殺しにすることへのためらいから、一瞬、足がすくんだ。
その、致命的な逡巡を見逃さず、一人の老騎士が、マルクの馬の尻を、その槍の柄で、力任せに叩いた。
「ぐははははっ!司令官を死なせるわけにはいきませんぞ!ここは私たちで十分!!おい、マルク、貴様らが司令官を連れていけ!!」
その騎士の眼からは、極度の疲労と覚悟からか、血の涙が流れていた。
だが、その顔は、確かに笑っていた。
他の老騎士たちもまた、次々と若い騎士たちを突き飛ばし、自らが盾となって、殺到する敵兵の前に立ちはだかる。
「行け、若き獅子よ!」
「未来は、お前たちのものだ!」
「……全軍、撤退! 要塞へ、急げ!」
グレイデンは、血の涙をこらえ、非情な命令を下した。
マルクは、撤退する軍の中で、ただ、振り返った。
彼の目に焼き付いたのは、こじ開けられた血路を再び塞ごうと殺到する黒鉄の津波を、バルカスと百を超える老獅子たちが、笑いながら迎え撃つ姿だった。
その英雄たちの姿は、撤退するグレイデンとマルクの目に、生涯忘れ得ぬ光景として、強く、強く焼き付いた。
遥か丘の上。
”不動”のグラズニールは、その、あまりにも人間的な、あまりにも気高い抵抗を、その赤い一つ目で、ただ、無感情に、見下ろしていた。
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