第百十五話:獅子の決断
エルヴァン要塞の、最も深い階層。
堅牢な岩盤をくり抜いて作られた「魔力炉心の間」は、肌を焼くほどの熱気と、悲鳴のような魔力の共振音に満たされていた。
「持ちこたえろ! 術式を維持しろ! 一瞬でも気を抜けば、城壁が内から崩壊するぞ!」
部屋の中央に鎮座する、要塞の守護術式の中核である巨大な青水晶。
その周囲で、ローブ姿の魔術師たちが、蒼白な顔で汗を流しながら、必死に自らの魔力を注ぎ続けていた。
青水晶は、外から響く「終焉の槌」の波動に呼応するかのように、不気味な紫の光を明滅させ、表面には既に無数の細かい亀裂が走っている。
「司令官……! もはや、限界です!」
魔術師団の長である老魔導士が、駆けつけたグレイデンとバルカスに、かすれた声で訴えた。
「敵の魔力は、あまりにも強大で、そして、淀みがない。我々の魔力で、ただひたすらに、その津波を押し返しているに過ぎませぬ。既に、魔力枯渇で倒れる者が続出しております。このままでは、あと数日もすれば、この炉心は……!」
その言葉を裏付けるかのように、一人の若い魔術師が、鼻から血を流し、その場に崩れ落ちた。
仲間が慌てて彼を抱きかかえるが、その意識は既になかった。
司令部に戻ったグレイデンの顔には、もはや焦りというよりも、絶望に近い色が浮かんでいた。
作戦室には、副官のサンゼンと各部隊の隊長たちが、重い沈黙の中で彼を待っていた。
「……このままでは、ジリ貧だ」
グレイデンの、その声は、極度の疲労でかすれていたが、その瞳の奥には、まだ諦観に染まりきらない、危険な光が宿っていた。
「壁が崩れるのを、兵の心が折れるのを、ただ待つだけでは、我らは犬死にするだけだ。シルヴァラントの援軍が間に合うという保証も、どこにもない」
「……では、どうすると言うのだ」
バルカスが、重々しく問い返す。彼の脳裏にも、打つ手は、もはやほとんど残されていなかった。
「打って出ます」
グレイデンの、その一言に、作戦室にいた全ての士官が息を呑んだ。
「司令官、ですがそれは!」
反対の声を上げたのは、騎士サンゼンだった。
「敵は鉄壁の布陣! 城門を開けたが最後、なだれ込んでくる敵軍に、一瞬で蹂躙されますぞ! まさに自殺行為に等しい!」
「自殺行為だと?」
グレイデンは、サンゼンの悲痛な叫びに、静かに、しかし力強く応じた。
「では問うが、このまま籠城を続けることは、緩やかな自決と何が違う? 奴らの戦術を見ろ。正面からの力押しではない。終焉の槌が我らの守りを内側から崩し、工兵が足元を掘り崩し、呪いの声が兵の心を蝕んでいる。我らは、ただ首を締め上げられるのを待つだけの、籠の中の鳥だ。これは時間稼ぎではない、緩やかな処刑だ」
誰も反論の言葉を見つけられない。
「だが」
グレイデンは続けた。
「あの軍勢は、もはや生き物ではない。その強みは、完璧な統率力にある。ならば、道は一つ。あの頭脳、グラズニール本陣を、我らが直接叩く!」
それは、あまりにも、常軌を逸した作戦だった。
守るべき砦から、精鋭を引き抜き、敵の大軍の、まさに心臓部へと、一点突破の奇襲を仕掛ける。
「確かに博打だ」
グレイデンは、士官たちの顔を見渡し、言い放った。
「だが、このまま座して確実に滅びるか、万に一つの勝機に賭けて活路を開くか! 私には、後者こそが、大陸の盾たるエルヴァン要塞の、真の誇りだと思う! それこそが、民を守るための、唯一の道だ!」
若き獅子の、魂からの絶叫。
その、絶望から生まれた、しかし、確かな論理に裏打ちされた覚悟に、バルカスは言葉を失った。
彼は、ゆっくりと目を閉じ、この絶望的な盤面を、脳裏で何度も反芻する。
そして、やがて目を開いた時。
その瞳には、グレイデンと同じ、死を覚悟した戦士の光が、燃え上がっていた。
「……ふん。面白い。面白いではないか、グレイデン」
老獅子の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「貴様の言う通りだ。どうせ死ぬなら、ただ待つのではなく、攻めてこそ、だ。よかろう。その狂気の博打、この老いぼれも乗らせてもらおう」
バルカスは、作戦地図の前に立つと、その歴戦の経験を元に、グレイデンの、あまりにも無謀な作戦に、具体的な「牙」を与えていく。
「奇襲の要は、速度と、一点集中。斥候が命懸けで持ち帰った情報によれば、グラズニール本陣は、巨大な戦象に引かせた、あの黒曜石の台座だ。あれを叩く。我らが持つ、全ての騎馬隊と、動ける兵の、その全てを、二つの部隊に分ける」
彼は、地図の上に、二本の、赤い線を引いた。
「俺とグレイデン、それぞれが隊を率い、左右から同時に、敵陣の側面を抉るように突撃する。狙いは、敵兵の殲滅ではない。ただ、中央の本陣へと続く道を、こじ開けるための一瞬の『隙』を作り出すことだ」
「だが、それでは、陽動に回った部隊は…」
サンゼンが、息を呑む。
「……生きては戻れまい」
バルカスの、その静かな言葉に、作戦室は、再び沈黙に包まれた。
それは、部隊の半数を、確実に犠牲にするという、非情な作戦。
だが、それ以外に、グラズニールの元へたどり着く方法は、なかった。
その夜、バルカスは、自らが王都から率いてきた、かつての「獅子王隊」の生き残りである部隊長たちを、自室に集めた。
蝋燭のか細い光が、歴戦の勇者たちの、覚悟に満ちた顔を照らし出す。彼は、作戦の全てを、その犠牲の大きさも包み隠さず語った。
「……そういう訳だ。これは、命令ではない。この、九死に一生もない作戦に、命を賭ける覚悟のある者だけ、俺に続け。家族の元へ帰りたいと願う者は、この場に残れ。誰も、それを、責めはしない」
だが、部隊長の一人、白髪の混じった歴戦の騎士が、静かに一歩前に出ると、その場に片膝をついた。
「師の行く道が地獄ならば、どこまでもお供いたします。それこそが、我ら獅子王隊の誇り。陛下と、そして師に、この命を捧げる機会をいただけること、光栄に存じます」
その言葉に、他の部隊長たちも、次々と、無言で、しかし、揺るぎない覚悟の瞳で、膝をついた。
彼らの心は、とっくの昔に、決まっていたのだ。
「―――作戦開始は、明朝。夜明けと共に、だ」
グレイデンの、その静かな宣言が、彼らの、最後の決断となった。
獅子たちの、誇りを賭けた、最後の突撃。
その運命は、もはや、神ですら、知る由もなかった。
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