第百十四話:鉄の包囲網
エルヴァン要塞の城壁に、バルカスは独り立っていた。
肌を刺す極北の風が、彼の頬に刻まれた深い皺を、血の滲むような赤色に変えていく。
眼下に広がるのは、黒鉄の絶望。
寸分の乱れもなく隊列を組むグラズニールの軍勢は、まるで生き物ではなく、大地に根差した巨大な、悪意ある森のようだった。
(間に合ったはずだった、が…)
王都からの、あの決死の強行軍。
本来であれば一週間以上はかかる道のりを、馬を乗り潰し、兵を振り落としながら、半分以下の時間で駆けつけた。
あの時、兵士たちの顔には、確かに希望があった。
だが、この数日間、この動かぬ敵と、内側から砦を蝕む不気味な軋み音を前に、その光は日に日に弱々しくなっていく。
希望は、より深い絶望のための、ただの序曲に過ぎなかったのか。
老獅子の心に、久しく忘れていたはずの焦りが、冷たい影を落としていた。
「終焉の槌」――それが放つ紫黒の波動が、天を覆い、大地を震わせる。
物理的な破壊音はない。
ただ、不落を誇ったエルヴァン要塞の城壁が、内側から、静かに、そして確実に、自壊していく不気味な軋み音だけが、絶えず響き渡っていた。
「くそっ……! あれを止めぬ限り、我らがどれだけ奮戦しようと、この砦は内から腐り落ちるだけだ!戦う機会すら与えられんとは……」
再建された司令部で、グレイデン・アストリアが、血の滲む拳を卓に叩きつける。
城壁に守護の魔法を掛け続ける魔法師団も、魔力欠乏により次々と倒れていっている。
彼の師であるバルカスも、苦虫を噛み潰したような顔で、眼下に広がる黒鉄の軍勢を睨んでいた。
グラズニールの軍勢は、完璧な方陣を組み、一切の隙を見せない。
こちらの騎馬隊による突撃も、まるで硬い岩盤にぶつかる波のように、いとも容易く受け流され、無駄に兵を失うだけだった。
攻めれば、鉄壁の陣に阻まれ、守りに徹すれば、城壁が内側から崩壊していく。
じわじわと、確実に、希望が削り取られていく、あまりにも残忍な攻城戦。
その夜。
要塞の仮眠室は、地獄と化していた。
ドン……ドン……ドン……。
外から、巨大な心臓の鼓動のような、単調で、しかし神経を逆撫でする重低音が、絶え間なく響き続ける。
それは、眠りを許さない、精神的な拷問だった。
そして、その音に混じって、時折、風に乗って聞こえてくる。
『……助けてくれ……痛いよ……』
『なぜ見捨てた……友よ……』
それは、捕虜となった仲間たちの声だった。
魔術によって増幅され、絶望だけを抽出された声が、壁を、鎧を、そして人の心を容赦なく貫いてくる。
「やめろ……やめてくれ……!」
若い騎士は、耳を塞ぎ、頭をかきむしる。
だが、その声は、頭蓋の内側で直接響くかのようだった。
周囲を見渡せば、どの騎士も皆、血走った目で虚空を睨み、あるいは、聞こえぬふりをして、ただ震えている。
食料は、まだある。
矢も、まだまだ尽きてはい。
だが、エルヴァン要塞の、最も重要な生命線である、兵士たちの「士気」が、目に見えぬ敵の、じわじわとした猛攻の前に、確実に削り取られていく。
司令部の作戦室で、グレイデンとバルカスは、眠ることもできず、ただ無言で地図を睨みつけていた。
「師よ……」
グレイデンが、か細い声で絞り出した。
「シルヴァラントは…まだ、なのでしょうか…?」
その問いに、バルカスは厳しい現実を告げるしかなかった。
「ああ。だが、グレイデン。シルヴァラントからこの極北の地までは、いかに精鋭の強行軍とて、まだ何日もかかるだろう。魔王軍四天王は愚か者ではないはず。我らが援軍を待っていることなど、お見通しのはずだ。奴は、我らが希望を抱き、そして、その希望が尽きる、まさにその瞬間を狙って、次の一手を打ってくるに違いない」
その分析に、グレイデンは言葉を失う。
その時だった。
作戦室の扉が、凄まじい勢いで開かれた。飛び込んできたのは、要塞の建築技師長だった。
彼の顔は土埃にまみれ、その目は恐怖に見開かれていた。
「司令官! 地下貯蔵庫より報告! 北壁の基礎岩盤から、奇妙な振動と音が!」
グレイデンとバルカスが駆けつけたのは、要塞の最も深い階層にある、ひんやりとした地下貯蔵庫だった。
技師たちが、松明の明かりを頼りに、北側の基礎岩盤に耳を当てていた。
「どうした!」
「これをお聞きください!」
グレイデンも、岩壁に耳を当てる。
ゴリゴリゴリ……という、巨大な何かが岩を削る、不快な音。
!!
ドリルワームだ。
だが、それだけではなかった。
その音に混じって、明らかに異質な音が聞こえてくる。
コツ……コツ……。
それは、ドリルワームが岩を削る音とは違う、もっと軽く、そして規則正しい金属音。
つるはしの音か。
「……間違いない。ドリルワームの掘る音とは別に…つるはしの音が混じっております。それも、一つや二つではない!奴ら、ドリルワームに大穴を掘らせ、そこから工兵を送り込み、この要塞の基盤を、直接、破壊するつもりです!」
技師長の絶望的な報告。
そして、彼の言葉を裏付けるかのように、岩盤の向こうから、微かに、しかし確かに、陽気な鼻歌のようなものまでが、聞こえてくるようだった。
(……どうだい、兄弟たち。この岩盤、なかなか、掘りごたえがあるだろう? もう少しだ。もう少しで、この、退屈な地上に、我らが主の、素晴らしい『静寂』を、届けてやれるのだからな……)
その、あまりにも場違いで、そして、あまりにも狂気じみた響きが遠くから聞こえてくる。
それこそが、”不動”のグラズニールが仕掛けた、次なる、絶望の始まりだった。
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