第百十話:予測された聖域
漆黒の、呪いの槍が、空間そのものを歪ませながら、リリアナへと迫る。
その、あまりにも邪悪な魔力の前では、アレクシオスが振るう王剣の聖なる輝きも、ヴァレンティンが放つ帝国の誇る魔導の光も、あまりにも無力だった。
間に合わない。
誰もが、リリアナの、そして、自らの死を覚悟した。
「リリアナッ!」
アレクシオスの、絶叫が響き渡る。
その、絶望的な声に、リリアナの背後に隠れ、ガタガタと震えていた、田中樹の足が止まった。
(……怖い)
全身の、細胞の一つ一つが、悲鳴を上げている。
本能が、ここから一刻も早く逃げ出せと警鐘を鳴らし続けている。
だが、彼の瞳は、その恐怖に凍りついてはいなかった。
彼の、その瞳は、ただ真っ直ぐに、目の前で、今まさに、死の淵に立たされている、リリアナの小さな背中を捉えていた。
(……まただ。また、俺は、誰かの背中を見ているだけなのか……?)
自らを庇い、その命を、散らした、騎士レオの最後の笑顔。
あの時、自分は、何もできなかった。
ただ、守られるだけの、役立たずな置物だった。
もう、あんな思いはしたくない。
(……どうやるんだ? どうすれば、あの光は、また……?)
彼は、自らの内に眠る、得体の知れない黄金の光の力を思い出していた。
これまで、それは無意識のうちに暴発するだけだった。
だが、今は違う。
彼は、その得体の知れない力を、自らの「仲間」として、信じようとしていた。
(分からねえ。けど、やるしかねえんだ。俺が、やらなきゃ、リリアナが……!)
彼は、震える両の拳を、強く握りしめた。
(信じろ……! 俺は……勇者、なんだから……!)
その、魂からの覚悟。
それが、彼の、恐怖に縛られていた足の枷を、粉々に打ち砕いた。
その刹那、樹は、飛び出していた。
リリアナの前に、その頼りない身体を、投げ出すようにして、飛び出した。
それは、恐怖に駆られた、反射的な動きではない。
ただ、大切な人たちを守りたいという、一心だけで、彼の身体を突き動かした、それは「勇気」だった。
「俺は……勇者だッ!!」
彼の、その魂からの叫びが、トリガーとなった。
彼の身体から、凄まじい、黄金の光が、溢れ出した!
彼の、仲間を救いたいという「意志」と、自らの力を信じる「覚悟」が、ついに、聖なる力を完全にコントロールすることができたのだ!
光は、奔流となって、周囲に広がり、一行を、そして迫りくる、漆黒の呪詛の槍をも、その暖かく、しかし、絶対的な輝きの中へと飲み込んでいく。
黄金の光と、紫黒の闇が、激しく衝突する。
だが、勝敗は、一瞬だった。
ヘカテリオンが放った、必殺の呪詛は、その、あまりにも純粋な聖なる光の前では、まるで、太陽の前に、かき消される夜霧のように、跡形もなく消滅していた。
後に残されたのは、黄金の光でできた半球状のドーム。
そこには、確かに仲間を守り切ったという、微かな達成感と、戸惑いと共に、呆然と立ち尽くす、勇者の姿があった。
「……いけた……? 俺……リリアナを……守れた……?」
「樹さん……! あなた、私を……?」
リリアナは、自らを庇ってくれた、その小さな背中を静かに見つめていた。
彼女の脳裏に、これまでの勇者の姿が、次々と蘇る。
その、あまりの変貌ぶりに、彼女の思考は完全に追いついていなかった。
「……馬鹿な。また、あの光か……! だが、今回は……偶然ではない、だと……!? この、小僧が、自らの意志で、これほどの奇跡を……?」
ヴァレンティンは、聖都での光景を思い出し、目の前の現象が、ただの暴発ではないことを、瞬時に理解し、戦慄していた。
アレクシオスだけが、その光景を、確かな手応えと共に見つめていた。
(……聖都の時とは、違う。あの時は、恐怖による暴走だった。だが、今のは……奴自身の、明確な『意志』だ。仲間を守るという……。ついに、本当の意味で、勇者への、一歩を踏み出したか……!)
一行は、予想だにしなかった、勇者の、真の覚醒に、一筋の希望の光を見出し、安堵の表情を浮かべた。
だが、その光景を、ただ一人、楽しげに、そして、「待ってました」とでも言うかのように、見つめている男がいた。
「素晴らしい! ブラボー! 実に、素晴らしいじゃないか、勇者殿!」
ヘカテリオンは、手を叩き、心からの賞賛を、樹へと送っていた。
「その、純粋な、聖なる力! そして、仲間を思う、その、健気な意志! それこそが、真の勇者の証だ! 君は、最高の役者だよ!」
「な、何を言っている、貴様……!」
アレクシオスが、警戒を解かずに問いかける。
「おや、分からないかい? 君たちの、その希望の光。それこそが、私の、この偉大なる儀式を、完成させるための、最後の『鍵』だったのだよ」
ヘカテリオンは、その、サディスティックな笑みを、さらに深くした。
「―――第三楽章、『光と闇の狂想曲』」
彼が、そう、宣言した、その瞬間。
樹が作り出した、黄金の「聖域」が、激しく明滅を始めた!
「なっ……!?」
「リリアナ、これは、どういうことだ!?」
「分かりません! 聖域の魔力が、外の、ゲートの邪悪な魔力と、激しく反発し合っています!……暴走している!?」
「うわぁ!力をコントロールしきれない!」
樹が、両手を掲げながら、必死な表情で叫ぶ。
そう。
ヘカテリオンの、本当の狙い。
それは、リリアナを殺すことではなかった。
樹の、その絶対的な聖なる力を、無理やり引きずり出し、そして、この帝都の負の魔力が、最も凝縮された、この場所で暴走させること。
清浄な魔力と、邪悪な魔力。
その二つの、相反する巨大なエネルギーが、激しくぶつかり合い混じり合うことにより、異常事態を巻き起こす。
「あの人間、枢機卿ヴァレリウスという名前だったでしょうか。少しは役に立ちましたね。あの時、研究させてもらいましたよ。……その光」
黄金の聖域は、もはや、彼らを守る希望の盾ではなかった。
その輝きは熱を帯び、内側から、アレクシオスたちを、焼き尽くさんとする、光の檻へと、その姿を変えてしまった。
「ぐ……あああああっ!」
「陛下!」「将軍!」
わずかに生き残った騎士たちの、悲鳴が上がる。
「ふふふ、ははははは! 見なさい! これこそ、私が、見たかった、最高の舞台だ! 希望が、絶望へと変わる、その、美しい瞬間を!」
ヘカテリオンの、狂った高笑いが、地獄と化した帝都の広場に、響き渡った。
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