第百八話:炎上の帝都と眼
錆びついたマンホールの蓋を、アレクシオスとヴァレンティンが、二人がかりで押し上げる。
途端に、熱風と、肉の焼ける、甘ったるい悪臭が、地下道へと流れ込んできた。
「……これが、帝都か」
アレクシオスは、地上へと這い出し、その光景に、言葉を失った。
壮麗だったはずの白亜の街並みは、燃え盛る炎に舐められ、黒い骸骨のように、天へと突き出ている。
磨き上げられていたはずの石畳は、おびただしい血と、瓦礫で覆い尽くされ、空は、黒煙によって、太陽の光すら届かない、絶望的な鉛色に染まっていた。
そして、何よりも、耳を劈くのは、逃げ惑う市民の断末魔の悲鳴と、それにかき消されるほどの、およそこの世のものとは思えぬ、おぞましい魔物たちの歓喜の咆哮だった。
「……ああ。我が、故郷だ」
ヴァレンティンは、その地獄絵図を、呆然と見つめ、そう呟いた。
彼の顔から、傲慢な獅子の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
あるのは、ただ、故国を蹂躙された、一人の男の、深い絶望だけだった。
彼と共に地上へ出た、もう一つの影。皇帝直属の特務機関に所属するエージェント、ヘルガ。
聖都での一件の後、皇帝の命により、ヴァレンティンの「監視役」として、常に、その行動を共にしていた彼女は、この惨状を前にしても一切の感情を見せず、ただ主人の、そして、この小国の王の動きを鋭い視線で観察していた。
「うわあああ……! な、なんだよ、ここ……! ゲームじゃない、本物の、地獄じゃねえか……!」
転がるように出てきた田中樹が、腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
彼の、いつもは不平不満しか言わない口も、本物の恐怖を前に、カタカタと震えるだけだった。
「……陛下。魔力の、邪悪な気配が、強すぎます。このままでは、精神が、蝕まれて……!」
リリアナが、自らの周囲に、清浄な光の結界を張りながら苦しげに言う。
「ヴァレンティン将軍。中央広場の『ゲート』へ、最も安全で、最短の道を示せ。この状況では、一刻の猶予もない」
アレクシオスの、有無を言わさぬ声が、呆然とする将軍の意識を現実へと引き戻した。
ヴァレンティンは、ハッと顔を上げた。
この小国の王は、伝令兵の、あの錯乱した報告から、既に、全ての元凶が、中央広場の『ゲート』にあると、正確に理解している。
彼は、傍らの、自らの監視役へと、視線を送った。
「……ヘルガ」
フードを目深にかぶった女エージェント、ヘルガは、静かに一歩前に出ると、抑揚のない、しかし、聞き取りやすい声で淀みなく答えた。
「大通りは、既に、魔物の主戦力によって、完全に制圧されています。侵入は、自殺行為です。ですが、帝都の西区画、職人街の裏路地は、もともと、道が複雑で、大型の魔物の侵入が遅れている模様。そこを抜ければ、中央広場への、最短ルートを確保できます。私が、先導を」
その、あまりにも冷静で的確な状況分析。
彼女は、地上に出て、わずか数分の間に、最適な潜入ルートを割り出していたのだ。
アレクシオスは、その、底の知れない有能さに静かに頷いた。
「……頼む」
一行は、燃え盛る建物の影を縫うように、地獄と化した市街地を進み始めた。
先頭に立つのは、音もなく、影から影へと移動する、ヘルガ。
その後ろを、ヴァレンティン、アレクシオスと、彼が率いるロムグールの近衛騎士たち、帝国騎士が続く。
ロムグールの騎士らは、モルガドールとの死闘を生き延びた、精鋭中の精鋭。
この地獄絵図を前にしても、その隊列は、微塵も乱れない。
帝国の騎士らは、帝都の惨状を目の当たりにし、心ここにあらず状態にある
。
リリアナは、一行の周囲に、常に浄化と防御の結界を張り続け、魔物たちからその気配を、可能な限り遮断していた。
そして、樹は、ただ、リリアナのマントの裾を強く握りしめ、恐怖に目を白黒させながら、必死にその後に続くことしかできなかった。
だが、彼らの、その慎重な歩みを、空から見ていたものがいた。
「キシャアアアアアッ!」
甲高い、耳障りな鳴き声。
見上げると、黒煙の向こう側、燃え盛る建物の屋根から、翼を持つガーゴイルに似た魔物の群れが、その、血のように赤い目で一行を捉えていた。
「上だ! 囲まれるぞ!」
ヴァレンティンが叫ぶ。
次の瞬間、ガーゴイルの群れは、まるで、獲物を見つけたハイエナのように、一斉に、急降下してきた!
「させるか! 密集隊形を組め! 盾を上に!」
アレクシオスの、的確な号令が飛ぶ。
近衛騎士たちは、即座に、アレクシオスたちを守るように、円陣を組み、その盾を、天へと掲げた。
ガギン! ガガガギンッ!
ガーゴイルの、鋭い爪が、鋼の盾を叩き、火花を散らす。
孤立した帝国騎士らが、次々と倒れていく。
「くそっ!リリアナ、援護を!」
「はいっ! 【炎の槍よ、天を舞え! ファイア・ランス!】」
リリアナの杖から、数十本の、炎の槍が放たれ、空を舞うガーゴイルたちを、次々と撃ち落としていく。
だが、敵の数は、あまりにも多い。
一匹のガーゴイルが、防御網をすり抜け、最も無防備な、樹の頭上へと、その爪を振り下ろした!
「ひっ……!」
樹が、悲鳴を上げる。
その、まさに、その瞬間。
どこからともなく、銀色の閃光が、飛来した。
それは、ヘルガが放った一本の投げナイフだった。
ナイフは、ガーゴイルの翼の、その関節の一点を、正確に寸分の狂いもなく貫いた。
翼の動きが、一瞬麻痺する。
その、コンマ数秒の、硬直。
それを見逃す、アレクシオスと、ヴァレンティンではなかった。
二人の剣が、まるで、長年、共に戦ってきた相棒のように、完璧な連携でガーゴイルの両翼を、同時に断ち切っていた。
翼を失った魔物は、奇声を上げながら地面に叩きつけられる。
アレクシオスは、ちらり、と、路地裏に一瞬だけ見えた、黒い影へと視線を送った。
ヘルガは、ただ無言で、任務を遂行しただけといった様子で、既に、次の脅威へとその視線を移していた。
「……やるな、小国の王」
「将軍こそ」
短い、言葉の応酬。
それは、絶望的な状況が生んだ、今までであればあり得なかった共闘の始まりだった。
辛うじて、ガーゴイルの群れを退けた一行。
だが、休む暇はない。
彼らの行く手の先、遥か遠くに見える、帝都の中央広場の上空が、禍々しい紫黒の光を放って、巨大な嵐のように、渦を巻いていた。
それこそが、全ての元凶、ヘカテリオンが待つ、「ゲート」。
「……行くぞ」
アレクシオスは、血に濡れた剣を、一度、振るうと、言った。
一行は、覚悟を決め、再び、地獄の奥深くへと、その一歩を踏み出す。
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