第百五話:包囲網
「―――かかったな、狐」
物見櫓の影で、ファムが、誰にも聞こえない声で呟いた、その瞬間。
決戦の火蓋は、切られた。
彼女の、ほんの僅かな合図。
それに、闇滅隊の仲間たちが、寸分の狂いもなく呼応した。
「―――秘剣、岩境断ち!」
石橋の、遥か対岸の岩陰。
そこに、息を殺して潜んでいたハヤテの霊刃が、閃光のように煌めいた。
彼の刃が断ち切ったのは、フェンリラではない。
橋のたもとに、巧妙に仕掛けられていた、霊力を帯びたヤシマの鋼線。
その瞬間、古びた石橋が、轟音と共にその姿を変えた。
ただ、崩落するのではない。
鋼線の張力によって、橋の前後の部分が、計算通りに谷底へと崩れ落ち、中央部分だけがまるで孤島のように取り残されたのだ。
「なっ……!?」
初めて、フェンリラの、その優雅な表情に、純粋な驚きが浮かんだ。
道は、断たれた。
だが、罠は、それだけではなかった。
「―――顕現せよ、ザルバードの静寂」
橋の、もう一方の岸壁で、ナシルが静かに詠唱を終える。
彼の足元に置かれた、複数の魔石が共鳴し、淡い光のドームを形成する。
それは、攻撃の魔術ではない。
ただ、その領域内の風の流れを、魔力の循環を強制的に淀ませ停滞させる、古代の封印術の一種だった。
びゅう、と吹いていた谷間の風が、ピタリ、と止む。
フェンリラの身体を、常にヴェールのように覆っていた、疾風の加護が、その輝きをに失った。
「てめえの、その、ふざけた速さは、もう通用しねえぞ!」
物見櫓から、ファムが、獣のような速さで、駆け下りてくる。
その手には、自らの愛用の短剣と、そして、シズマの形見である、霊刃が、逆手に握られていた。
ハヤテもまた、崩れた橋のこちら側の岸から、フェンリラが孤立する中央部へと、一直線に地を蹴る。
ナシルは、後方から、一行の「眼」となり、敵の動きの予測し分析する。
三方向からの、完璧な包囲網。
「……まあ」
フェンリラは、その状況を一瞬で理解した。
「少しは、楽しませてくれそうね」
その口元には、焦りではなく、ようやく、遊ぶに値する獲物を見つけたという、獰猛な、そして、心からの愉悦の笑みが浮かんでいた。
戦いは、閃光の応酬となった。
「右翼から、来る!」
ナシルの声に応じ、ハヤテが、フェンリラの、三日月刀による、神速の斬撃を、その二刀で、的確に弾き返す。
だが、フェンリラの動きは、結界によって、多少、鈍っているとはいえ、まだ、人のそれを遥かに超越していた。
彼女は、ハヤテとの打ち合いの、その、ほんの僅かな隙を突き、身体を回転させ、その回し蹴りを、ファムの側頭部へと叩き込もうとする。
「―――遅えよ!」
ファムは、その攻撃を、地を這うような低い姿勢で、紙一重でかわす。
そして、その勢いを利用し、フェンリラの、がら空きになった足元へと、シズマの霊刃を、薙ぎ払った。
キンッ!
フェンリラは、その刃を、もう一方の三日月刀で、弾き返すが、その体勢はわずかに崩れた。
その、一瞬の隙。
「―――今だ!」
ナシルの声と、ハヤテの動きは、完全に一つだった。
ハヤテの霊刃が、復讐の全てを込めて、唸りを上げる。
「おおおおおおおおっっ!」
それは、もはや剣技ではない。ただ、純粋な怒りと、悲しみの質量。
フェンリラは、その、あまりにも人間的な一撃を、その目で捉えきれなかった。
ザシュッ!
ハヤテの刃が、フェンリラの左腕を、浅く、しかし、確かに、切り裂いた。
銀色の毛皮から、鮮血が夜の闇に舞う。
「……てめえ……!」
初めて、フェンリラの顔から、笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、獲物に逆襲された狩人の、純粋な驚愕と、そして屈辱の色。
「まだだ!」
ファムは、その好機を見逃さなかった。
彼女は、懐から、数本の、毒を塗った投げナイフを、フェンリラの、死角となる方向へと、放物線を描くように投げ放つ。
フェンリラは、腕の傷を意にも介さず、それを最小限の動きで、全て叩き落とそうとする。
だが、その死角から投げられたナイフは、陽動だった。
本命は、その影に隠れて地を這うように彼女の懐へと潜り込んでいた、ファム自身のシズマの霊刃。
「もらったぁ!」
ファムの、渾身の一撃が、フェンリラの、無防備な胴体へと、深々と、突き立てられる―――
はずだった。
だが、フェンリラの口元が、再び、三日月のように歪んだ。
「―――甘いわよ」
次の瞬間、彼女の身体から、これまでの比ではない、おぞましい量の邪気が爆発した。
ファムの身体が、見えない壁に叩きつけられたかのように、後方へと吹き飛ばされる。
「ぐっ……!?」
「面白い。面白いわ、人間のネズミ。久しぶりよ、わたくしを、ここまで楽しませてくれたのは」
傷を負い、追い詰められたはずのフェンリラ。
だが、その瞳には焦りの色ではなく、むしろ、心からの愉悦の光が、爛々と輝いていた。
「礼を言うわ。あなたたちのおかげで、ようやく、本気を出す理由ができた。本当はね、美しくないから嫌だったのだけど……」
彼女の身体が、おぞましい音を立てて軋み、そして変貌を始める。
しなやかだった手足は、より太く、より逞しい、獣のものへ。
美しい銀髪は、逆立ち、その口からは、鋭い牙が、覗き始める。
もはや、そこに、優雅な、女の姿はなかった。
ただ、月明かりの下、傷ついたことで、その本能を完全に解き放った、一匹の巨大な飢えた「魔狼」が、静かに立っているだけだった。
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