第百四話:偽りの標的
東方諸侯連合の、とある国境に近い宿場町。
その、薄暗い酒場の隅で、一人の、人の良さそうな、しかし、どこか目の泳いだ小物の商人が、ギルドの連絡員と思われる男に、声を潜めて情報を売っていた。
「……聞いたぜ。例の、王都から来たっていう、生意気な連中…『闇滅隊』とか言ったか。仲間が一人、死んだらしいじゃないか。それですっかり、頭に血が上っちまってるらしい」
商人に扮した、東方諸侯の諜報員ジエンは、完璧な演技で、震える声を装いながら言葉を続ける。
「リーダーの、あの小娘……。奴が、完全に暴走してる、と。復讐だ、なんだと息巻いてな。次の標的が、不敗のヴァルター将軍だって、どこからか聞きつけたらしくてな。その情報を疑う部下と別れて、その護衛に、1人でしゃしゃり出て行ったらしいぜ。」
連絡員の男は、その情報を、疑うことなく、懐から、数枚の銀貨を取り出し、ジエンの手に握らせた。
その情報は、瞬く間に、闇のネットワークを駆け巡り、そして半日後。
大陸の、どこか、深い森の奥深く。
月明かりを浴びながら、優雅に、その銀色の髪を梳かしていた、”疾風”のフェンリラの元へと届けられた。
「―――ヴァルター将軍、ですと?」
報告を聞いたフェンリラは、その、あまりにも愚かな間違いに、思わず、くすくすと、可憐な笑い声を漏らした。
「まあ、可愛いネズミさん。仲間が一人、死んだくらいで、そんなにも、冷静さを失ってしまうなんて。だから、人間は、面白くて、そして、哀れだわ」
彼女にとって、闇滅隊は、もはや脅威ではなかった。
ただの、感情に任せて動く、予測しやすい哀れな獲物。
自らが仕掛けた最初の揺さぶりに、面白いほど綺麗に引っかかってくれた。
「ふふ。彼らが、見当違いの場所で、無駄な血を流している間に、わたくしは、本当の『お仕事』を、済ませてしまいましょう」
彼女は、闇滅隊が、取るに足らない者の護衛に、その全力を注いでいると、信じて疑わなかった。
しかし、ギルドの潜入員に、オルテガ公爵が潜んでいる砦に罠が仕掛けられてないか、念入りに調査をさせたが、砦には何も仕掛けられていないとの報告があった。
その報告を伝えた者が、ギルド員に変装したジエンであった事に、気付いた者はいなかった。
そして、その油断こそが、ファムたちが仕掛けた本当の罠だった。
フェンリラは、残った諸侯の中でも筆頭格のオルテガ公爵を、自ら、単独で仕留めるべく、彼が潜んでいる砦へと、一陣の風となって駆け出した。
その先が、闇滅隊が、シズマの死という、あまりにも大きな代償の上に、全ての知恵と、覚悟を込めて作り上げた、本当の「狩場」であるとも知らずに。
◇
決戦の地。
かつて、国境の監視のために使われていたという、今は廃墟と化したその砦は、霧深い谷間にまるで、巨大な獣の骸のように、静かに横たわっていた。
闇滅隊の三人は、砦の最も高い物見櫓の、その影に、息を殺して潜んでいた。
眼下には、深い谷間に架かる、一本の古びた石橋。
そこが彼らが選んだキルゾーンだった。
砦には罠を仕掛けず、その外側にキルゾーンを設置した。
「……ナシル。結界は?」
ファムの、低い問いにナシルは静かに頷いた。
「ああ。この谷一帯に、風の魔術を著しく減衰させる、対抗結界を、複数、張っておいた。完全に、無力化することはできんが、奴の、神業のような速さは、これで、人の目で追えるレベルまで落ちるはずだ」
「……仕掛けは完了している」
ハヤテが、静かに、シズマの形見である霊刃の柄を、握りしめた。
石橋の、その構造の、最も脆い部分。
そして、彼女が、必ず通るであろう、その一点に、ヤシマに伝わる、霊力を帯びた、特殊な鋼線が巧妙に張り巡らされている。
「……あとは、あいつが、本当に、ここに来るか、だ」
ファムは、眼下に広がる、霧の海を見下ろした。
それは、あまりにも危険な賭けだった。
もし、フェンリラが、この作戦すらも見抜き、姿を現さなければ、全てが水泡に帰す。
だが、ファムには、確信があった。
(……来る。あいつは、必ず来る)
狩人は、自らの獲物の断末魔を、特等席で見るのが何よりも好きなのだから。
時は、満ちた。
ナシルが、その手に持つ『真実の鏡』の欠片が、淡い、警告の光を放ち始めた。
「……来たぞ」
その声に、三人の間に、鋼のような緊張が走る。
「……気配は、一つ。間違いない、奴だ」
やがて、谷間の霧の向こうから、一つの、銀色の影が、現れた。
フェンリラ。
彼女は、まるで月夜の散歩でも楽しむかのように、優雅な、そして、油断しきった足取りで、古びた石橋へとその一歩を踏み出した。
彼女の、その美しい顔には、これから始まる、一方的な狩りを、心から楽しむ、残酷な笑みが浮かんでいた。
彼女は、まだ、知らない。
自らが、狩人ではなく、蜘蛛の巣に、かかろうとしていた一匹の蝶であることを。
物見櫓の影。
ファムは、その姿を、ただ、じっと見つめていた。
彼女は、ハヤテから託された、シズマの形見の霊刃を、強く握りしめる。
その、冷たい柄の感触が、彼女に、仲間の最後の温もりと、そして、自らが為すべきことを思い出させてくれた。
(……見てろよ、シズマ。今度は、俺たちの番だ)
フェンリラが、石橋の、ちょうど中央に差し掛かった。
それは、三人が、この、数日間、血の滲むような思いで、準備してきた、ただ一点の完璧な死地。
ファムは、静かに、息を吸い込んだ。
そして、誰にも聞こえない、か細い声で呟いた。
「―――かかったな、狐」
決戦の、火蓋が、今、切られようとしていた。
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