表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
121/227

第九十五話:北壁の鉄槌

 

 北壁、エルヴァン要塞の空気は、張り詰めていた。


 数日前にもたらされた、東方諸侯連合からの凶報。


 連合の要人が、密室で、風のような何者かに惨殺されたという報せは、この最果ての砦にまで、目に見えぬ敵への恐怖という、冷たい影を落としていた。


「全城壁、警戒レベルを最大に引き上げろ。僅かな魔力の揺らぎも見逃すな。敵は、もはや我々の常識の内にいるとは思うな!」


 司令官グレイデン・アストリアは、城壁の上を歩きながら、各所の持ち場に檄を飛ばしていた。


 その声には、疲労よりも、研ぎ澄まされた刃のような緊張感が宿っている。


 彼は、眼下に広がる、不気味なほど静まり返った北の魔族領を睨み据えた。


 モルガドールが討たれて以来、ゴブリン一匹姿を見せなかったこの大地が、今、何か、とてつもなく巨大なものを、その胎内に隠しているような、嫌な圧力を放っていた。


「司令官、ご命令通り、各監視塔との魔力伝信の経路を再確認させました。いつでも、異常を即時報告できる状態にあります」

 背後から、若々しくも、芯の通った声がかかる。


 グレイデンが新たに副官に任命した、騎士サンゼンだった。


 彼は先のモルガドール戦で目覚ましい働きを見せた若手の一人で、その実直さと冷静な判断力をグレイデンが高く評価した男だ。


「ご苦労、サンゼン。お前も少し休め。ここ数日、あまり寝ていないだろう」


「いえ、これしきの事。司令官こそ」

 サンゼンは、真っ直ぐな目でグレイデンを見つめる。


 その瞳には、敬愛する上官への純粋な尊敬と、この危機を共に乗り越えんとする強い意志が宿っていた。


(サンゼンも頑張ってくれている。ただ……、ゲルト……お前なら、この状況をどう見る?)


 グレイデンは、今は亡き、最も信頼した副官の姿を、心の中で思い描いた。


 サンゼンは優秀だ。だが、あの老練な騎士が持っていた、戦場の些細な空気の変化を嗅ぎ分ける嗅覚、その深い経験に裏打ちされた洞察力は、まだ彼にはない。


 この得体のしれない静寂を前に、グレイデンは、失われたものの大きさを、改めて痛感していた。


 その静寂は、音もなく、しかし、確実に破られた。


 最初に異変に気づいたのは、城壁の上で見張りに立っていた、一人の若い騎士だった。


 彼は、耳を澄ますでもなく、ただ、その足の裏から、大地が微かに、そして、奇妙なほど規則正しく震えているのを感じ取った。


 それは、地震のような不規則な揺れではない。


 まるで、巨大な心臓が、地の底で、ゆっくりと、しかし、力強く鼓動を始めたかのような、重く、規則正しい振動だった。


「……なんだ……? この揺れは……」


 彼が、訝しげに峠道の彼方へと目を凝らした、その瞬間。


 峠道が、黒く染まった。


 陽光を鈍く反射する、巨大な「壁」。


 それが、ゆっくりと、しかし、抗いがたい力で、こちらへと迫ってくる。


 距離が縮まるにつれ、その「壁」の正体が、明らかになっていく。


「て、敵襲ーーーーーッ!! 敵襲だああああっ!! 」


 彼の、恐怖と驚愕に引きつった絶叫が、警鐘となって、要塞全体を揺るがした。


 ゴオオオオオン! ゴオオオオオン!


 けたたましい鐘の音が鳴り響き、非番の兵士たちまでもが、鎧を身に着けながら、それぞれの持ち場へと駆け出す。


「落ち着け! 陣形を崩すな!」

 城壁の上に駆けつけたグレイデンは、眼下に広がる光景に、我が目を疑った。


 そこにあったのは、かつて対峙した、モルガドール軍のような、混沌とした魔物の群れではなかった。


 黒鉄の、巨大な盾を、まるで一枚の城壁のように、寸分の隙間なく構え、磨き上げられた長槍の穂先を、天を突く森のように、完璧に揃えて進軍してくる、一糸乱れぬ「方陣」。


 その歩みは、機械のように正確で、一歩進むごとに、大地が、重く、規則正しく揺れた。


 ザッ……ザッ……ザッ……。


 鬨の声も、威嚇の咆哮もない。


 ただ、無数の鎧が擦れ合う、冷たい金属音と、統率の取れた地響きだけが、静かに、そして、確実に、近づいてくる。


 それは、恐怖を煽るための軍勢ではない。


 ただ、効率的に、敵を殲滅するためだけに存在する、破壊の「機械」のような兵だった。


「……なんだ、これは……。これが、魔王軍、だというのか……」

 隣に立つサンゼンが、戦慄の声を漏らす。


 モルガドール軍との死闘を生き延びた彼ですら、このあまりの異質さには、恐怖を禁じ得ない。


 あの時の敵は、確かに恐ろしかった。だが、そこには、まだ、獣としての本能や、混沌とした感情があった。


 しかし、今、目の前にいる「それ」には、感情というものが、一切、感じられない。


 その軍勢の中心。


 巨大な戦象に引かせた、黒曜石の台座の上に、一つの、動かざる影が、静かに佇んでいた。


 生きた黒曜石を削り出して作られたかのような、継ぎ目のない、巨大な鎧の姿。その顔に当たる部分には、感情のない、冷たい赤い光が、一つだけ、不気味に明滅している。


 四天王”不動”のグラズニール。


 彼は、何も語らない。


 ただ、その赤い光を、エルヴァン要塞の、最も分厚い城門へと、ただ、じっと向けていた。


 やがて、彼が、無言のまま、その巨大な腕を、ゆっくりと、天へと掲げる。


 それに呼応するように、軍勢の中から、巨大な、そして、およそ人の手によるものとは思えぬ、禍々しい形状の兵器が、ゴゴゴゴ……と、重い音を立てて姿を現した。


「……あれは……攻城兵器か?」

 若い騎士が、震える声で呟く。


「いや……」

 グレイデンは、その兵器の、異様な構造を睨みつけた。


「あれは、物理的な破壊を目的としたものではない! 見ろ、先端に埋め込まれた、あの巨大な魔石を! あれは……!」

 グレイデンの言葉通り、その兵器――「終焉の槌(ドゥームハンマー)」の先端に埋め込まれた巨大な魔石が、おぞましい紫黒の魔力をチャージし始めた。


 空が、その魔力に呼応するように、暗雲に覆われていく。


 不落を誇ったエルヴァン要塞の石壁が、不気味な軋み音を立て始めた。

 ギシッ……ギシギシッ……!


「まさか……城壁そのものに込められた、守りの術式と、魔力を、強制的に共振させ、内側から、自壊させる気だ……!」

 まるで、見えざる巨人に、内側から握りつぶされようとしているかのようだった。


 兵士たちの顔に、なすすべもないという、絶望の色が浮かぶ。


「怯むな!」

 グレイデンが、その絶望を断ち切るように、咆哮した。


「我らは、ロムグールの盾! 大陸の北壁! この地を、獣どもに好きにはさせん! 王がお救いくださるまで、我ら北壁の獅子が、この国最後の盾となるのだ! 全員、持ち場を死守せよ!」


 だが、その声は、虚しく、鳴り響く警鐘と、城壁の、断末魔のような軋みの中に、吸い込まれていった。


 北壁に、本当の冬が、そして、あまりにも静かで、冷たい絶望が、訪れようとしていた。





本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ