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幕間:女神の賭け

 

 天界。


 時間の概念すら、曖昧な、光と雲に満たされた場所。


 その一角で、一人の女神が、雲で作られた、ふかふかの長椅子ソファの上で、退屈そうに、神代の果実を齧っていた。


 彼女の目の前には、巨大な水鏡が浮かんでいる。そこに、下界の、ありとあらゆる出来事が、彼女の気まぐれ一つで、映し出されていた。


 水鏡には、ロムグール王国の、若い新兵マルクの姿が映る。


 彼は、仲間たちと共に、北のエルヴァン要塞へと向かっていた。


 その瞳には、不安と、そして、国を守るという、若々しい誇りが燃えている。


「聖勇者様だって、頑張っているんだからな」。


 彼の呟きが、女神の耳に届く。


「……ふふっ。あの役立たず、あんなところでも、役に立ってるじゃないの」

 女神は、面白そうに、くすくすと笑った。


 次に、彼女は、水鏡の景色を、中立都市の密やかな一室へと切り替えた。


 そこでは、セレスティナ、ボルグ、オルテガが、アレクシオスのための「第二の円卓」を、結成していた。


「あらあら、セレスティナちゃん、頑張るわねぇ。いい子、いい子」

 まるで、自分の娘の成長でも見るかのように、女神は、満足げに頷いた。


 だが、彼女が、水鏡を、魔族領『終焉の谷』へと向けた瞬間。


 その、怠惰な表情が、一変した。


 覚醒した、魔王ヴォルディガーン。そして、彼の、あまりにも、悪趣味な「戯れ」の命令。


「…………」

 女神は、無言で、水鏡を消した。


 そして、天界に、一つの深いため息が響き渡った。


「……本当に、センスがないわね、あの子()()は」


 彼女は、長椅子から、ゆっくりとその身を起こした。


 そして、誰もいないはずの虚空に向かって、静かに、語り始めた。


 まるで、この物語を読んでいる、誰かに言い訳でもするかのように。


「みんな、勘違いしてるのよねぇ」

 彼女は、再び水鏡を出現させ、そこに、バルカスにしごかれ泥だらけになっている、田中樹の姿を映し出した。


「わたくしが、何の考えもなしに、あんな、魂のエネルギー量がゴミカスみたいな子を、『勇者』として、選んだと思ってる。……まあ、半分は、合ってるわね」

 女神は、悪戯っぽく笑う。


「確かに、アレクシオス……いえ、あの、相馬譲という、あまりにも出来すぎた魂を、転生させるために、世界の、魂の総容量キャパシティの、ほとんどを、使い切ってしまったのは、事実。だから、普通の方法では、もうまともな勇者は召喚できなかった」


「でもね」と、彼女は続ける。


「だからこそ、だったのよ」


「だからこそ、わたくしは、彼を選んだ。いえ、彼しか、いなかった。あの、ヴォルディガーンとかいう、いろいろ面倒くさいのが、相手なのだから」


 彼女は、水鏡を、今度は、執務室で、大陸全土の地図を睨みつけ、来るべき戦いに、頭を悩ませている、アレクシオスの姿に切り替えた。


「ただ、強いだけの、脳みそまで筋肉でできているような、典型的な『勇者』を一人送ったところで、どうなるというの? あの、ヘカテリオンとかいう、陰険なのが仕掛ける、謀略や呪詛の前に、あっという間に、孤立して終わりよ。」


「だから、わたくしは、賭けたの」

 女神の瞳が、初めて神としての、どこまでも深く、そして真剣な光を宿した。


「この戦いに、本当に必要なのは、たった一人の、絶対的な英雄ではない。国を、建て直し、経済を、動かし、バラバラになった、大陸中の国々の心を、その、卓越した問題解決能力と、誠実さで、一つに束ね上げることができる、『王』の器。……そして、その『王』の元で、誰もが、予想すらしなかった、奇跡を起こす、『道化』の存在」


「そう。彼は、勇者なんかじゃない。わたくしが、この盤上に置いた、最大の『ジョーカー』。彼の魂は、確かに、空っぽに見える。愚かで、単純で、欲望に忠実。だからこそ、どんな、高度な魔術も、精神を蝕む呪詛も、彼の、その『空っぽ』を、すり抜けていくだけ。……そして、彼自身も忘れている、その魂の、一番奥の、奥底に眠る、たった一つの純粋な願い」


 女神は、遠い目をした。

「……彼、覚えていないものね。魂が、この世界に引きずり戻される瞬間に、わたくしと交わした、あの、たった一つの『約束』を。その、最後の後悔から生まれた、切実な願いを。……仲間を想う、その、たった一つの、純粋な感情だけで、神の領域の、その扉をこじ開けてしまうほどの、ね」


 彼女は、楽しそうに、そして、どこか、誇らしげに、微笑んだ。


「剣を振るう者だけが、英雄ではない。その英雄が、安心して、その剣を振るえるだけの、盤石な『国』を、そして、『世界』を作り上げる者。……それこそが、この物語の、本当の『勇者』だということを、下界の連中は、まだ、誰も、知らない」


 女神は、再び長椅子に寝転がった。


 そして、以前、下界に落とした、あの小さな「保険」の光が、今、大陸の、とある森の奥深くで、一人その眠りを、静かに揺り動かしているのを、満足げに見つめていた。


「さあ、役者は、揃ったわ。見せてちょうだい、アレクシオス、そして勇者よ。わたくしの、この、最悪で、最高の賭けが、正しかったということをね」


 その呟きは、誰に聞かれることもなく、天界の、永遠の静寂の中へと、吸い込まれていった。

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