幕間:北の村の、黒い羽根
魔族領と人間界を隔てる、竜哭山脈の麓。
そこに、地図にも載らないような、小さな狩人の村があった。
僕、トーマが住む村だ。
今年の冬は、いつもより、ずっと長くて、そして、寒かった。
父さんは、昔エルヴァン要塞で国を守る騎士だった。
家族の近くで過ごしたいと、この村にやってきて、今では、誰もが認める村一番の狩人だった。
ただ、最近はめっきり獲物が獲れなくなった、と、ため息をついていた。
「獣たちが、怯えているんだ」
父さんは、そう言った。
「山の奥深く、終焉の谷の方角から、何やら、とんでもなく、嫌な気配がする。まるで、冬そのものが、意志を持って、こちらへ這い出してくるようだ」と。
村の大人たちは、皆、その、見えない何かに、怯えていた。
その夜も、外は全てが凍てつくような、厳しい寒さだった。
僕と、父さんと、母さんは、家の小さな暖炉の火に身を寄せ合っていた。
その時だった。
突然、村の全ての音が消えた。
夜通し、吠え続けていたはずの、犬たちの声も、木々を揺らす、風の音すらも。
まるで、世界が、一瞬だけ、息を止めたかのようだった。
ギィ、と。
家の、古びた木の扉が、音もなく、ゆっくりと、開いた。
そこに、一人の、女の人が、立っていた。
三つの不気味な月明かりを背にした、その人は、この世の者とは思えないほど、美しかった。
銀色の長い髪、狼のような、ピンと立った耳、そして、その背後で、優雅に揺れる、ふさふさの尻尾。
その顔には、穏やかな、慈母のような笑みが浮かんでいた。
父さんが、咄嗟に、壁にかけてあった古い狩猟用の斧を掴み、僕と母さんをその背中に庇った。
「……何者だ、あんた。旅の方か? こんな夜更けに、何の用だ」
女の人は、父さんの、その問いには、答えなかった。
彼女は、ただ、うっとりとした表情で、父さんの顔を見つめていた。
「……ああ、なんて、綺麗な瞳」
その声は、澄んだ鈴の音のようだった。
「強い瞳だ。いくつもの命を奪い、そして、いくつもの死線を見てきた、狩人の瞳。……美しい」
次の瞬間。
女の人の姿が、揺らめいた。
そう見えた時には、彼女は、すでに、父さんの目の前に立っていた。
ヒュッ、と。
風が、哭くような、小さな音がした。
父さんの、見開かれた目が、驚いたように、僕の方を、向いた。
その、太い、たくましい首筋に、一本の、細い、赤い線が、走っていた。
父さんは、何も言わずに、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「お父さん!」
母さんの、悲鳴が、響く。
女の人は、その光景を満足げに見つめていた。
「ああ。命が、消える、最後の音。やっぱり、これが、一番、美しい」
彼女は、僕たちを一瞥すると、その美しい髪の中から、一枚の漆黒の羽根を取り出した。
そして、それを、ひらり、と、倒れた父さんの胸の上に落とした。
「―――我が主からの、ささやかなる、贈り物だ」
彼女は、そう言うと、来た時と同じように、音もなく闇の中へと溶けるように消えていった。
後には、静寂と父さんの亡骸、そしてその胸の上に、静かに置かれた、一枚の黒い羽根だけが、残された。
僕は、ただ震えながら、そのあまりにも、理不尽な光景を見つめることしか、できなかった。
この日、大陸の、北の果てで、一つの、小さな、しかし、確かな悲劇が、生まれた。
それは、これから始まる絶望の時代の、ほんの序曲に過ぎなかった。




