第九十三話:魔王、目覚める
ロムグール王国の王城、その練兵場に、木剣が空を切る、鈍い音と、少年の荒い息遣いだけが響いていた。
「遅い! 振りかぶりが大きすぎる! そんな大振りの一撃、ゴブリンですら欠伸をしながら避けるわ!」
鬼の形相のバルカスが、容赦ない罵声を浴びせる。
その前では、田中樹が、泥と汗にまみれながら、必死の形相で、身体の何倍も重く感じる訓練用の剣を、ただ、ひたすらに振り続けていた。
(くそっ……! ちくしょう! 強くなるって言ったけどよぉ……ここまでキツいなんて、聞いてねえぞ……!)
腕は、鉛のように重い。
足は、生まれたての子鹿のように、震えている。
もう……やめたい。
逃げ出したい。
豪華な部屋のふかふかのベッドで、菓子でも食いながら、一日中寝ていたい。
だが、彼が、剣を地面に落とそうとするたびに、その脳裏を、いくつかの顔がよぎるのだ。
―――「勇者様、すごいですね!」と、純粋な目で自分を見上げた、レオの顔。
―――「貴方は、もう、一人では、ありません」と、優しく微笑んだ、リリアナの顔。
―――そして、「君が、本気で、そう望むのなら」と、真っ直ぐに自分を見つめた、王のあの真剣な瞳。
「……うおおおおおおおおっっ!!」
樹は、雄叫びを上げ、自らを奮い立たせるように、再び剣を振り下ろした。
その姿を、バルカスは、厳しい、しかし、その瞳の奥に、ほんのわずかな、認めるような色を浮かべて、静かに見守っていた。
◇
その頃。
大陸の遥か北、魔族領『ヴォルクリプト』、その最深部。
「終焉の谷」で、世界は次なる絶望を産み落とそうとしていた。
三人の四天王が見守る中、巨大な黒水晶の祭壇が、音もなく、光の粒子となって霧散する。
その中心に現れたのは、人懐こい無邪気な笑みを浮かべた華奢な一人の青年だった。
「「「お目覚めを、我が主、ヴォルディガーン様」」」
ひざまずく部下たちに、魔王ヴォルディガーンは、気持ちよさそうに、大きく伸びをした。
「ふぁ~あ、よく寝た。やあ、久しぶり。ヘカテリオン、フェンリラ、グラズニール。ご苦労だったね」
彼は、楽しそうに、その場を見渡すと、ふと小首を傾げた。
「あれ? 一人、足りないね。猪みたいにうるさい奴がいたはずだけど。モルガドールは、どこだい?」
「…………モルガドールは、我が君のご覚醒を待ちきれず、単独で、人間界へと侵攻。そして……ロムグールという、小国の王と、それに与する者たちに討ち取られました」
「へえ」
ヴォルディガーンの、その、にこやかな笑みは、崩れない。
「僕が寝てる間に、一人だけ、抜け駆けして、面白いことしてたんだ。しかも、人間に、負けたんだ。……つまんない奴だなぁ」
その、楽しげな声とは裏腹に、彼の身体から、凄まじい覇気が、プレッシャーとなって、周囲へと放たれた。
ひざまずく四天王の、その足元の、黒曜石の大地が、ビリビリと震え、蜘蛛の巣のような、無数の亀裂が入る。
「人間を壊すのも、世界を壊すのも、もっと、楽しく、美しくなくっちゃ、意味がないじゃないか。中途半端に暴れて、ただ死ぬなんて、一番、醜いよ」
彼は、そう言うと、ふっと、その覇気を収めた。
そして、南の、人間たちが住む世界の方角を、楽しそうに見つめた。
その瞳が、初めて、何か、興味深いものを捉えたかのように、すっと、細められた。
「……ん? この時代にも勇者がいるみたいだね。……いや、一人じゃないか……? おもしろくなってきたね」
その、魔王の、静かな呟きが、世界に放たれた、まさにその瞬間。
ロムグール王国の練兵場で、樹は、突然、剣を振り下ろすのをやめ、ハッとしたように、北の空を見上げた。
「……なんだ……?」
風の音も、バルカスの怒声も、全てが遠のく。
ただ、肌を刺すような、悪寒。
魂そのものが、絶対的な捕食者の存在を感知したかのような、本能的な恐怖。
彼は、生まれて初めて、そんな感覚に襲われていた。
時を、同じくして。
王城の執務室で、報告書に目を通していたアレクシオスもまた、ぴたり、と、その動きを止めた。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、窓辺へと歩み寄り、遥か北、竜哭山脈があるであろう方角を、鋭い目で見つめた。
スキル【絶対分析】が、警告を発しているわけではない。
だが、彼の、王としての、そして、この世界の理から外れた者としての勘が、はっきりと、告げていた。
盤上の、最も巨大で、そして、最も危険な駒が、今、静かに、動き出したのだ、と。
二人の、異世界から来た男は、それぞれの場所で、同じ、遠い空を見上げていた。
本当の戦いが、今、まさに、始まろうとしていた。
第二部 了
第二部了と言うことで、たくさんの方に見ていただきありがとうございました。
特に二部は展開が非常に遅く、やきもきされたかもしれません。
今後は、幕間を1日1話投稿しながら、少し新作に浮気するのか第三部を投稿するのか、考えていこうと思います。
ありがとうございます。




