第八十九話:偽りの神、堕つ
黄金の光の槍が、怪物と化したヴァレリウスの胸に空いた、黒い風穴へと、吸い込まれていった。
一瞬の、絶対的な静寂。
次の瞬間、世界から、音が消えた。
儀式場の中心で、聖なる光と、冒涜的な闇が、激しく衝突する。
二つの、相反する巨大なエネルギーが、互いを喰らい、そして、無に還そうと、激しくせめぎ合った。
空間そのものが、その矛盾に耐えきれず、悲鳴を上げる。
そして―――全てを洗い流すかのような、純白の閃光が、迸った。
凄まじい轟音と衝撃波が、大聖堂全体を揺るがし、仲間たちの身体を、木の葉のように、容赦なく吹き飛ばした。
どれほどの時間が、経ったのか。
やがて、舞い上がっていた粉塵が、ゆっくりと晴れていく。
ステンドグラスが砕け散り、天井に大きな穴が空いた「至聖所」に、朝の光が、まるで赦しのように、静かに差し込んでいた。
そこに、もはや、あの異形の怪物の姿はなかった。
黒曜石の祭壇も、禍々しい魔法陣も、全てが、その光の中に、消滅していた。
「……う……」
ライアスが、折れた剣を杖代わりに、ゆっくりと、その身を起こす。
彼の全身は、無数の傷で覆われていたが、その瞳には、確かに勝利の光が宿っていた。
見渡せば、仲間たちもまた、満身創痍ながら、それぞれが、瓦礫の中から、立ち上がろうとしていた。
「……終わった、のか……」
そして、儀式場の中心。
黄金の光を失った田中樹が、糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏していた。
「イトゥキ様!」
リリアナが、傷ついた身体を引きずるように、彼の元へと駆け寄る。
幸い、ただ力を使い果たして、意識を失っているだけのようだった。
その、静寂を破ったのは、乾いた、嘲るような笑い声だった。
「……は……はは……。まさか、この、私が……。こんな、小僧どもに……」
祭壇があった場所の、瓦礫の中から、一つの影が、ゆっくりと、その身を起こした。
枢機卿ヴァレリウス。
もはや、怪物としての威容はない。その身に纏っていた闇のエネルギーは消え失せ、ところどころが焼け焦げた、ただの、みすぼらしい老人の姿に戻っていた。
だが、その瞳だけが、未だ、狂信的な光を宿し、一行を憎々しげに睨みつけている。
「……終わりだ、ヴァレリウス」
ライアスが、残った力を振り絞り、その切っ先を、枢機卿へと向けた。
「貴様の野望も、ここまでだ。神の名を騙り、人々を弄んだその罪、白日の下に晒し、正当な裁きを受けてもらう」
「裁き、だと?」
ヴァレリウスは、血反吐を吐きながら、甲高い声で笑った。
「愚かな! 貴様らは、何も、分かってはおらん! この儀式は、ただの始まりに過ぎん! 私がいれば、魔王は恐れる必要はない!魔王の真の目的は、こんな世界を支配することなどではない! 全ての、くだらない生命を、そのしがらみを、無に帰し、完全なる『静寂』をもたらすことなのだ! それこそが、この腐りきった世界への、唯一の救済……!」
彼は、最後の力を振り絞り、何か、この世界の根幹に関わる、おぞましい真実を、語ろうとしていた。
その、まさに、その瞬間だった。
儀式場の空気が、一変した。
それまでの、戦いの熱気や、破壊の喧騒とは、全く異質の、魂の芯まで凍てつかせるような、絶対的な冷気が、その場を支配した。
「……おや。これは、これは」
どこからともなく、鈴を転がすような、しかし、一切の温度を感じさせない、優雅な声が、響き渡った。
一同が、ハッと声のした方角を見る。
そこには、いつから立っていたのか、全く気配を感じさせなかった、一人の、銀髪の美青年が、静かに、佇んでいた。
その顔には、物腰柔らかな笑みが浮かんでいる。だが、その瞳は、蛇のように冷たく、この世の全てを、ただの観察対象として見下しているかのようだった。
「随分と、派手に、パーティーをしていたようだね。僕の、大切な『駒』を、壊してくれたお礼を言いに来たよ」
その、あまりにも場違いな、そして、あまりにも強大な、存在。
ライアスも、ヴァレンティンですら、その全身が、本能的な恐怖に、縫い付けられたように、動けなかった。
「……き、さま……は……。へ、カテリオン……!」
床に這いつくばっていたヴァレリウスが、その青年を見て、初めて、恐怖に顔を引きつらせた。
「そうだよ、ヴァレリウス枢機卿」
青年――魔王軍四天王”千呪”のヘカテリオンは、にこやかに、微笑んだ。
「君は、少し、働きすぎだし、……喋りすぎたようだね。そして、何より……調子に乗りすぎたね」
次の瞬間、ヘカテリオンの姿が、揺らめいた。
そう見えた時には、彼は、すでに、ヴァレリウスの背後に、音もなく立っていた。
「あ……が……」
ヴァレリウスの胸から、一本の、影で作られたかのような、黒い刃が、突き出ていた。
彼は、信じられないといった表情で、自らの胸を見下ろし、そして、そのまま、前のめりに、崩れ落ちた。
その瞳から、狂信の光は、永遠に、失われた。
「さて、と」
ヘカテリオンは、まるで、床の埃でも払うかのように、その手を、ひらひらと振った。
「これで、『お掃除』は、終わりかな」
彼は、その冷たい瞳で、傷つき、疲弊しきった、一行の顔を、一人、一人、楽しそうに、見渡した。
そして、最後に、リリアナに抱きかかえられ、気を失った樹の姿を認めると、その口元に、初めて、本物の、強い興味の色を浮かべた。
「……なるほど。あれが、『勇者』か。実に、面白い。実に、興味深いサンプルだ。ぜひ、僕の実験室で、じっくりと、解剖してみたいものだね」
その、あまりにもおぞましい言葉に、誰もが、息を呑んだ。
本当の絶望は、今、まさに、目の前に、立っていた。




