少女の信仰・前編
大陸の南部に位置するクメン国。その奥地には、未だに数百年前からの風習が残っている村が存在する。村に特有の儀式を行なったり、土着の神を崇めたり……その村に特有の掟もまた存在するのだ。時として、国の法律よりも村の掟が優先されることもある。伝統と因習に支配されている村の数は、決して少なくはないのだ。
また、非人道的な奴隷の風習も残っている。顔に小さな刺青――奴隷の印である――を入れられた若い奴隷女たちの競りが、都市部で堂々と行われることさえある。他の国の住人であるにもかかわらず、わざわざクメンに別荘を買い、奴隷女たちを住まわせる者までいるくらいだ。
そんなクメンの悪しき伝統を打ち払い、そして近代化を推し進めようと……数多くの人間が心血を注ぎ、国王や政府の上層部に働きかけてきた。結果、少しずつではあるが……古くからの悪しき伝統や風習は改善されてきている。
しかし、クメンの近代化を歓迎しない者もまた存在する。富裕層に属する彼らは、近代化を進めようとする学者や市民運動家たちを裏から手を回して排除していった。
マリベルの父もまた、クメンの近代化を進めようとして活動していたのだが……大規模なテロの首謀者という濡れ衣を着せられて逮捕され、そして公開処刑されたのだ。本当なら、古くからの伝統に従い……マリベルら家族も処刑されるはずだった。
しかし、マリベルと母と姉たちは、活動家たちの手引きによりクメンを脱出した。
そして、エメラルド・シティへと逃げ延びたのだ。
・・・
昔、あたしがクメンに住んでいた時……お爺ちゃんとお婆ちゃんの住んでる村に遊びに行った。
山の中にある村は小さかったけど、いろんな生き物がいて楽しかった……あたしはゼシカ姉ちゃんと一緒に、暗くなるまで野原や川で遊んだ……あの当時は、本当に楽しかったな。
そしてあたしは、村の長老さんに御守りをもらったんだ。
白い毛で作られた、可愛い犬……いや、狼の人形だった。あたしは凄く嬉しかった。長老さんは怖い人だったけど、あたしには優しかった気がする。
そして、長老さんはあたしに言った。
「村に昔から伝わる、言い伝えだ……正しき心の持ち主が祈れば、白き狼が現れる。白き狼は村の守り神であり、弱き者や正しき者の味方……必ずや、敵対する邪悪な者たちを討ち滅ぼしてくれる。そして、正しき心の者たちを救うであろう、と……」
だけど、あたしはそんなの信じない。
だって……パパが処刑されたから。
そして、ママとお姉ちゃんとあたしは、こんな地獄みたいな街で暮らさなきゃならなくなったから。
白き狼の神様なんて、この世にいやしない。
マリベルは一人、森の中を歩いていた。陽の光が出ている今がチャンスなのだ……暗くなれば、人外が現れる。人外が現れる前に、用事を済ませなくてはならないのだ。マリベルは一歩一歩、慎重に歩く。この時間帯、人外はいなくても悪い人間はいる。このエメラルド・シティには…悪い人間か、もしくは物凄く悪い人間か……どちらかしか居ない。
やがて、マリベルは目的地へと着いた。森の中にある、小さな湖……何とも幻想的な光景である。マリベルは水辺に近づき、生えている薬草を摘み始めた。この薬草は、風邪や熱病などに効果がある。マリベルは持って来た篭に薬草を入れたが……。
ふと、湖の方を見た。
とても澄みきった、綺麗な水だ。
マリベルは、クメンにいた頃のことを思い出した。祖父母のいた村に遊びに行った時、川や湖で泳いだことがある。あの時は本当に平和で、楽しい日々だった……今とは真逆の生活だった。
そして、マリベルはあたりを見回す。
人の気配も、動物の気配も感じられない。
どうせ、ここまで来たのだ……マリベルは服を脱いだ。
そして、あたりを見回しながら湖に入っていく。
湖の水はとても綺麗で、泳ぐにはちょうどいい深さだ。マリベルは泳いだ。始めのうちはひっそり、静かに泳いでいたが、やがてバシャバシャ音を立てて泳ぎ出す。
もともとマリベルは、水泳の好きな少女だった。クメンに住んでいた時は、市民プールに通いつめていたし、小学校でも男の子たちに負けないくらい泳ぎは得意だった。
なのに、エメラルド・シティでは泳ぐことが出来ない。
それどころか、体の汚れすら満足に洗い流すことが出来ないのだ。そう、このエメラルド・シティでは水ですら貴重である。水道の引いてある場所は、それだけで高級住宅なのだ。普段は近所にある井戸で水を汲むが、それすら出来ない時もある。そんな貴重な水を、体を洗うためには使えない。
体を洗う場合には、ひとけの無い川や湖に入るしかないのだ。しかし、それもまた注意が必要である。女が全裸で水浴びなどしている所に男が現れたら、確実にロクなことにならないからだ。
だからこそ、マリベルは我慢できずに泳いでしまった。
マリベルは油断していた……普段の彼女は警戒心の強い少女である。さらに人の気配を察知する能力に長けていた。だが、久しぶりの水泳がマリベルの能力を鈍らせていたらしい。
向こう岸まで泳いだマリベル……その目の前に、いきなり現れた者がいた。
「よう、お嬢ちゃん……ここはどこかな?」
岸に着き、呼吸を整えていたマリベルの前に現れたのは……目付きの悪い黒髪の青年だ。身長は高からず低からず、細身だが強靭さを感じさせる体つきをしている。年齢は二十歳前後か……。
マリベルは、じっと男を見つめる。奇妙な違和感を覚えたが……そんなことより優先すべきことがある。
次の瞬間、男の顔めがけ水をかけた――
そして走り出す。
マリベルは走った。あの男は、どう見ても悪人だ……おかしなことを口走っていたが、ひょっとしたらクリスタル中毒者なのかもしれない。
いずれにしても、一刻も早く遠ざからなくてはならない……マリベルは必死で走った。しかし、その足が止まる。
今度は、痩せこけてあばら骨の浮き出た犬が現れたのだ。それも数匹。このあたりを縄張りにしている野犬だろうか……。
野犬は立ち止まり、低く唸った。同時に、マリベルを囲むように動く。マリベルは、恐怖のあまり震え出した。エメラルド・シティの野犬は、人間でも襲って食べる……しかも、周りを取り囲まれてしまった。
もう逃げられない。襲われたら、ひとたまりもないだろう……。
野犬の群れが、輪を縮めていく。気の早い一匹が、背後から攻撃を仕掛けた――
だが、その一匹は吹っ飛ばされる。軽々と宙を舞い、地面に叩きつけられた……。
そしてマリベルの前に現れたのは、先ほどの目付きの悪い青年だ。
「おい犬ども、さっさと失せろ……オレの力はわかるだろ? オレは犬は好きなんだ。傷つけたくないんだよ」
そう言いながら、青年は野犬の群れを一瞥する。
そして、マリベルの方に向きを変えてしゃがみこんだ。
「お嬢ちゃん、服を忘れてるよ。いきなり裸で走り出すからびっくりしたよ。ここにだって変態は――」
「後ろ!」
マリベルが怒鳴る。同時に、野犬が男の背後から飛びかかった――
しかし、男は振り向きもせず、片手で野犬の顔面を掴む。
そのまま、軽々と放り投げた。
「おいおい……どうなってるんだ? お前ら、どうしたんだよ?」
不思議そうな表情で、男は野犬に向かい話しかける……マリベルは、そんな男の行動を唖然とした顔で見ていた。
一方、野犬の群れはじっと男を見ていたが……やがて、二人に対する囲みを解き立ち去っていく……男の態度、そして強さに脅威を感じたらしい。
「やれやれ……やっと引き上げてくれたか。それにしても変だな。あいつら、何であんなに絡んできたんだろうなあ?」
そう言うと、男はマリベルに服を差し出した。
「ところで、お嬢ちゃん……早く服着ないと、風邪ひくよ」
男の言葉を聞き、マリベルの表情が固まる……自分がどんな格好であるかを思い出したのだ。
マリベルの顔は、かあーっと赤くなる。そして怒りに燃える表情で、土くれを拾った。
次の瞬間、男の顔面めがけて土くれを投げつける。
「あっち向いてろ! この変態エロ親父!」
「おいおい……親父はないだろ。オレはまだ若いつもりだぜ」
憤然とした様子で、大股で歩くマリベルの後ろから聞こえてきた男の声……マリベルは立ち止まった。そして振り返り、怒鳴り付ける。
「うるさい! 付いてくんな! あたしはお嬢ちゃんじゃない! マリベルって名前があるんだ!」
「おお、そうか。すまんすまん。ところで、なあマリベルちゃん……ここは、なんて国だい?」
「はあ!?」
呆れた表情で、男を見つめるマリベル……だが、男は真顔だった。
「あんた、クリスタルのやり過ぎで頭おかしくなったの?」
「クリスタル? 何だそりゃ……ああ麻薬か。オレのいた国でも、ヤク中はいっぱい居たよ。まあ、それはともかくとして、だ……マリベルちゃん、オレの顔を見なさい。この顔がヤク中に見えますか?」
そう言いながら、男は突然しゃがみこんできた。そして顔を近づけてくる。
まるで、キスを迫ろうとしているかのように――
「いい加減にしろ! この変態!」
マリベルは思いっきりひっぱたいた。男は頬を押さえ、大げさな表情で騒ぎ出す。
「痛いじゃねえかよう! 大体、お前はガキのくせに自意識過剰なんだよ……こっちだってなあ、幼児の裸なんかに興味はないんだ。お前みたいな、つるっぺたの体なんか……俺の好みはな、ボンキュッボンの大人のお姉ちゃん――」
マリベルは男の言葉の途中で、またしても土の塊を投げつける……タイミングよく男の口の中に炸裂し、男は咳き込んだ。
「うおぉぉ! ゲホッ! ゲホッ!」
しかめ面で、土を吐き出す男……マリベルは親の仇でも見るかのごとき表情で男を睨んだ。
「お前なんか死んじゃえ! この変態エロ親父!」
怒鳴り、立ち去ろうとしたマリベル……しかし、そこで重要なことを思い出した。
「ちょっと……篭はどうしたの?」
「かご?」
男は首を傾げる。マリベルは落胆し、ため息をついた。
「取りに行かなきゃ……せっかく摘んだのに……」
マリベルは向きを変え、歩き出す。
すると、男は後から付いて来た。
「なあマリベルちゃん……そう嫌わないでくれよ。俺は一応、命の恩人なんだしさ」
「うるさい! 付いて来るな!」
そう、付いて来られるとマズいのだ……マリベルと姉のゼシカ、そして母のビアンカは、このZ地区とガン地区の境界線付近にある村に住んでいるのだ。
男子禁制の、女だけの村に……そこには、逃げ出した売春婦や他の地区に居られなくなった女たちが住んでいる。
女たちは寄り添い、助け合い、時には外敵と戦いながら生きていたのだ。そして村の掟の一つが、男を招き入れてはいけない……ということである。ただし、入るのも出るのも基本的には自由だ。要するにこの村は、エメラルド・シティにおける女たちの緊急避難所の役割も果たしていたのである。
湖に着くと、マリベルは薬草の入った篭を拾った。そして男を睨む。
「もう……いつまで付いて来るの! さっさと森の中に帰りなよ!」
マリベルは怒鳴りつけるが……その時になってようやく、先ほどから感じていた奇妙な違和感の正体に気づいた。
男は、あまりにも小綺麗な服装なのだ。こんな森をうろついているわりに、汚れも傷もない。さらに、荷物も持っていない。
「ねえ……あんた、どうやってここまで来たの?」
訝しげな表情で尋ねるマリベル……だが、男は黙ったままだ。その表情にも、変化が生じていた。目付きがいっそう悪くなり、口元も固く結ばれている……マリベルは不安になった。
「ちょっと……あんた、どうかしたの?」
マリベルは尋ねるが、男は答えなかった。そして、ある一方向を見つめる。
「なあ、マリベル……お前の家は、あの方角か?」
そう言いながら、男が指差した……マリベルは、男の指差した方向に視線を移す。
すると、上空に巨大な煙が上がっていた……。
「え……な、何よあれ……どういうことよ……」
マリベルは呆然とした表情で呟く。村で、あれだけの煙を起こす炎……考えられない。そもそも、村には女たちを追っ手から匿うための役目もあるのだ。出来るだけひっそりと生活しているはずなのに……。
何かあったのだ。
マリベルは駆け出そうとした……しかし、男が後ろから首根っこを掴んだ。
そして、引き寄せる。
「やめとけ……お前まで犠牲になることはない」
「離せ! 離せ変態――」
「死にてえのか!」
男は一喝した。先ほどまでとはまるで違う迫力……マリベルは圧倒され、黙りこむ。
「命が惜しいなら、大人しくしてろ。もう終わる頃だ……」




