野獣の涙 4
マルコは一人で、ユリに教えられた場所までやって来た。目の前には、奇妙な建造物がある。近づく者をことごとく拒絶するような、灰色の巨大な塀に囲まれた建物が……。
しかし、その塀はマルコにとって障害とはならなかった。マルコはパッと飛びつき、一瞬にしてよじ登っていった。
そして、いとも簡単に塀を乗り越え、建物の内部へと降り立つ。
その瞬間、マルコの鼻を突き刺す匂い……彼は理解し難い感情に襲われた。初めて嗅ぐ匂いなのだ。そして匂いは告げている。
ここには自分よりも強い者がいる、と。
「ウウウ……」
マルコの口から、知らず知らずのうちに唸り声が洩れる。同時に、髪の毛が逆立つような感覚が全身を駆け巡った。幼い頃に味わった、あの感情に似ている。
そして、思い出したくない記憶が甦った。
(オガアザン……ユルジデエ……)
(お母さんなんて呼ぶんじゃないよ! この醜い化け物が!)
「ウガアアア!」
マルコは吠えた。獣のような咆哮……過去の忌まわしい記憶が、マルコの心をかつての野獣へと戻していく。
そしてマルコの瞳は、こちらに近づいてくる者を捉えた。
一人は見覚えのある男だ……片手が黒い義手。確かギースとかいう名だったはず。
そしてもう一人は、鋭い目付きと端正な顔だちの大柄な若者だ。
マルコは悟った。
この若者こそ、噂のガロードだ。
こいつに勝てば、自分はケイと……。
「おいマルコ……何しに来たんだ? バカなことは考えないで、さっさと帰れ」
ギースの声は落ち着いたものだった。優しく、諭すような……しかし、今のマルコには届かなかった。
「お前が……お前がガロードか?」
マルコの言葉を聞いた若者は、頷いて見せた。
「そうだ。オレがガロードだよ……お前、オレに用があるのか?」
そう言って、ガロードはマルコを睨む。その顔だちは整っていた。自分の醜い顔とは、正反対の……。
マルコの心に、暗い炎が灯った。
「ガロード……オレと戦え! お前を殺す!」
マルコは吠えながら、低い姿勢で身構える。今まで戦った、どの相手よりも強い……。
だが、勝たなくてはならないのだ。
負けたら、自分は戻ってしまう。
化け物と呼ばれていた、あの頃に……。
「マルコ……馬鹿なこと言うな。さっさと帰れ。ギブソンが心配してるんじゃないのか?」
ギースは優しく語りかけた。そしてマルコの肩に左手を伸ばすが――
マルコは、その手を振り払った。ギースは顔をしかめ、ため息をつく。
そして言った。
「ガロ……仕方ねえ。相手してやれ。ただし、向こうの中庭でだ。墓地での乱闘は許さねえ。それからマルコ……言っておくが、殺されても知らねえからな」
その言葉と同時に、ガロードに変化が生じた。瞳が紅く光り、鋭い犬歯が伸びる。
マルコの背筋に、冷たいものが走った……。
中庭に着くと同時に、マルコは襲いかかる――
俊敏な動きでガロードの周りを走り、飛び、一撃を放っては離れる……そのスピードに、ガロードは反撃のタイミングが掴めない。
そして、マルコの強烈な打撃を何発も喰らう。並の人間が相手なら、一撃で肉を切り裂き骨まで砕けるはずの打撃だ。ガロードはサンドバッグのように、一方的に打たれ続ける――
そして、チャンスと見たマルコの渾身の一撃が炸裂……ガロードは吹っ飛ばされ、仰向けに倒れた。
倒れたガロードのそばに、とどめを刺すべく近づいて行くマルコ。だが次の瞬間、彼は危険を察知し飛び退く――
直後、マルコのいた位置に、起き上がりざまのガロードの飛び蹴りが放たれる……その攻撃は外れたものの、何事もなかったかのようにガロードは立ち上がった。
そして、ガロードの傷はふさがっていった……。
「やるなあ、お前……だが、この程度じゃオレは殺せない」
そう言いながら、ガロードは両拳を上げて構える。
一方、マルコは動揺を隠せなかった。彼は人外と戦った経験は豊富だ。その経験から学んだことの一つ……人外と戦う時は、再生能力を上回る攻撃をする。今のマルコの攻撃は、吸血鬼といえど倒せたはずだ……少なくとも、再生するのに数分はかかる。その間に、心臓をえぐりだして潰せば勝ち……のはずだった。
しかし、一瞬にして再生した。マルコの心に不安がよぎるが――
「ウオオオオ!」
自らを鼓舞するかのような雄叫びを上げ、再び襲いかかっていくマルコ。
そう、マルコは絶対に負けられないのだ。負けたら……。
マルコの一撃を、ガロードは最小限の上体の動きだけで避けた……明らかに訓練された者の動きだ。
次の瞬間、ガロードの拳が走る……マルコは僅かに反応が遅れ、カウンターパンチをもらってしまう。しかも、一発で終わらない。数発のパンチからの前蹴りが炸裂――
マルコは軽々と吹っ飛んでいき、地面に叩きつけられる。あまりにも強烈な衝撃……マルコの全身を、激痛が走った。
その痛みは、マルコの心の奥底に眠っていた記憶を甦らせた。
幼い頃の、忌まわしい記憶を……。
(この化け物があ!)
(うちの子供に近づくんじゃねえ!)
大勢の大人たちが、口々に怒鳴りながら蹴とばしてくる……幼いマルコにはなす術なく、うずくまることしか出来ない。
やがて彼らは暴力に飽きたらしく、唾を吐きかけて引き上げて行った。全身を走る激痛に耐え……マルコはよろよろしながら、這うようにして自宅に戻る。
だが、マルコへの暴力は終わらなかった。
帰ると同時に、マルコは首根っこを掴まれる……母はそのまま、彼を引きずって行った。
そして部屋に閉じ込められ、棒で殴られる。
(オガアザン……ヤメデエ……)
マルコは必死で叫ぶ。だが、暴力の嵐は止むことがなかった。
(外に出るなって言っただろうが! この化け物!)
やがて激痛に耐えられなくなり、マルコの意識は闇に沈んだ。
そして気がつくと、鍵のかけられた部屋に一人ぼっち……。
(ビドリハ……イヤダ……ザミジイ……ゴワイ……ダズゲデ……ダレガ……ダズゲデヨ……)
あんな惨めな思いは……二度としたくない!
マルコは立ち上がる。ガロードの顔に、呆れたような表情が浮かんだ。
「お前……まだやる気か? さすがに、これ以上は手加減できないぞ」
「オレは……負けない……負けるわけには……いかないんだよ!」
マルコは吠えた。吠えながら、なおもガロードに立ち向かって行く。
オレは負けない。
もし負けたら……。
また、化け物と呼ばれるんだ。
そして、閉じ込められるんだ。
そして、誰も居なくなるんだ。
ギブソンも、アメデオも、ケイも、仲良くなったみんなも居なくなる。
弱いオレのそばには、誰も居てくれない。
嫌だよ……。
そんなのは嫌だ!
「グオオオ!」
マルコは獣のごとき咆哮と共に、再びガロードに向かって行く。稲妻のようなスピードで間合いを詰め、腕を振る――
牡牛をも昏倒させられるマルコの一撃は、ガロードの顔面をえぐった……よろめくガロード。マルコのスピードを増した攻撃に対し、避けることも受けることも出来ない。
だが、マルコの攻撃は終わらない。続けざまに腕を振るう。人間はおろか、成長しきった灰色熊ですら撲殺できるほどの連打だ……さすがのガロードも耐えきれず、もんどりうって倒れる。
荒い息をつくマルコ……だが次の瞬間、その顔に驚愕の表情が浮かんだ。
ガロードは顔をしかめながらも立ち上がった。マルコの目の前で、あっという間にふさがっていく傷口……。
呆然となっているマルコめがけ、今度はガロードのパンチが放たれた。まるで猛スピードのバイクが突っ込んでいくかのような衝撃が数発、マルコを襲う……マルコは軽々と飛ばされ、地面に叩きつけられた。
だが、マルコもすぐに立ち上がる……。
「負けねえ……絶対……負けねえ!」
マルコは吠え、向かって行った……。
(うわ! 気持ち悪い……何あの顔)
(本当だな。オレ、こんな顔に生まれたら自殺するぜ……)
見世物小屋に入って来た若いカップルの声……マルコは両手で顔を覆い、しゃがみこんだ。見られたくない。自分の醜い顔を、誰にも見られたくない……。
(てめえ! 顔を隠してんじゃねえ!)
不意に怒鳴り声が聞こえてきた。そして、鞭の一撃……。
(ダンヂョウザン……ユルジデエ……)
(るせえ! てめえはその面を見せる以外、何の取り柄もねえだろうが! おら! お客さんに面を見せてやれ!)
負けたら……。
ギブソンはオレを見捨てる。
そして、オレは檻に入れられる。
みんなに笑われて、罵られて……。
嫌だ!
オレは負けない!
「お前……まだやる気なのか?」
不意に聞こえてきた、ガロードの声……マルコは唸り、睨み付けた。
「オレは……まだ負けてない……お前に勝つ……お前を殺す……」
言いながら、マルコは向かって行く。だが足元はふらつき、動きも鈍い……普通の人間なら、数十人まとめて殺せるほどの強烈な打撃をもらっているのだ。しかも今まで、尋常でないスピードで動き続けた……さすがのマルコと言えど、もうスタミナが底を尽きかけている。
だが、マルコは向かっていく。
あの頃に戻るくらいなら、死んだ方がマシだ。
「お前……大変だな。片意地はってないで、さっさと楽になれ」
ガロードが呟くように言った。
直後、腹をえぐるようなパンチが炸裂……マルコはそのまま崩れ落ちそうになる。
しかし、ガロードの服を掴んだ。
そして、どうにか持ちこたえる。
「オレは……負けない……絶対に……負けない……」
うわ言のように言葉を発しながら、ガロードの首に手を伸ばすマルコ……しかし、ガロードの手がマルコの腕を掴む。
そして、不思議そうな表情でマルコを見つめた。
「お前……何故そこまでして向かって来るんだ? オレに恨みでもあるのか?」
ガロードの問いに対し、マルコは怒りのこもった目を向ける。
「お前なんかに……何がわかる……オレは……戻っちまうんだよ……負けたら……化け物と呼ばれる……醜い化け物に……戻っちまうんだよ!」
絶叫するマルコ。そう、目の前にいる男には絶対に理解できないのだ。醜い化け物、と忌み嫌われ、蔑まれる気持ちが……だからこそ、絶対に負けたくない。絶対に負けられない。
だが――
「お前には、マルコって名前があるはずだ。お前を化け物と呼ばず、マルコと呼ぶ奴もいるだろうが……違うのか?」
ガロードは再び尋ねてきた。その顔つきは、先ほどまでとは変わっている。瞳の紅い光は消え、鋭い犬歯は引っ込んでいた。だが、真剣な表情だけは変わらない。
「な、何を言ってるんだ――」
「お前を化け物と呼ぶ奴も大勢いるかもしれない。だが、お前をマルコと呼んでくれる友だちや仲間もいるんじゃないのか?」
ガロードの目は、真っ直ぐマルコを見つめていた。醜いはずのマルコの顔を……マルコは思わず目を逸らした。
「でも……負けたら……みんないなくなる……友だちも……仲間も……みんないなくなる……オレ……また一人ぼっちになる――」
「本当にそうなのか? 一度負けたくらいで、お前の友だちはお前を見放すのか?」
「……」
マルコは答えられなかった。ふと、ギブソンとの出会いを思い出す。傷だらけのマルコに、ギブソンはパンやチーズや水をくれたのだ。そして、一緒に旅をするようになった……。
ギブソンはいつも優しかった。時に厳しいことを言ったりしたし、怖い顔で怒鳴りつけもした。しかし、決して自分を蔑んだりはしなかった。
いつも、自分を助けてくれた……。
ガロードは、そんなマルコの様子をじっと眺めていたが……不意に、その手を握りしめる。
「なあ、マルコ……お前は面白い。気に入った。また今度、闘おうぜ」
「え?」
マルコは唖然とした表情で、ガロードの顔を見つめる。
ガロードの表情は、子供のように無邪気なものだった。
「お前みたいにタフな奴、どこ探しても居やしないぜ……オレはお前と闘えて、本当に楽しかった。お前はオレが今まで闘った中でも、最強の男だ。久しぶりに本気で闘えたよ」
そう言うと、ガロードはマルコの肩を叩いた……彼の手のひらは冷たい。だが、暖かいものが伝わってきたような気がした。
ガロードは話し続ける。
「なあマルコ……オレでよければ、いつでも相手になる。いやむしろ、オレの方から頼みたいくらいだ。お前は本当に強かった……お前となら、本気で殴り合える。それに、お前はもっと強くなる。今のお前は、身体能力のみに頼り過ぎだ。だからバテたんだよ。闘い方を研究しトレーニングすれば、お前はもっと強くなれる。だから、今日はもう休め。続きは、また今度だ……今日負けても、明日勝てばいいだろ」
そう言って、ガロードは笑った。
その笑顔は、とても優しかった……。
なんて……。
なんて優しい笑顔なんだよ。
誰よりも強いのに……。
こんなに優しく笑えるのか。
勝てない……はずだよ……。
オレの負けだ……。
マルコの足から、力が抜けていく。彼はそのまま、地面に座りこんだ。初めての敗北だ。しかも、自ら認めた敗北……だが、気分は悪くない。
むしろ、いい気分だ。
「おいマルコ、お友だちが来たぜ」
ガロードの声を聞き、マルコは我に返った。遠くで怒鳴っている声がする。ギブソンの声だ。ギブソンの匂いも漂ってきている。さらにアメデオの匂い、そしてケイの匂いも……。
体の痛みに耐え、立ち上がろうとするマルコ。しかし、ガロードが制した。
「そのままでいろ。お前が負けたことを知った時、友だちがどんな反応をするか……お前自身の目と耳で確かめるんだ」
「この化け物がぁ! マルコから離れろ! 離れないとぶっ殺すぞ!」
わめきながらガロードを睨み、拳銃を振り回すギブソン……ギースが苦笑しながら、後ろから羽交い締めにしていた。
「とりあえず、はじめまして……なあガロードさん、ここまでやれば充分だろ。これ以上マルコを傷つける気なら、オレも黙っちゃいねえぜ」
口調はふざけているが、ガロードの前に立つサンズの表情は真剣だ。その横にはジョニーがいる。二人とも、マルコを守ろうとするかのようにガロードの前に立っている。
そして……。
「マルコ……よかった……無事で……本当によかった……」
涙ぐみながら、マルコを抱きしめるケイ。くんくん鳴きながら、マルコの顔を嘗めるアメデオ。その横でうつむくユリ。
みんな……。
オレを助けに来たのか?
そして、オレを守ろうとしてくれてるのか?
あの強いガロードと、戦う気なのか?
オレのために……。
マルコの胸に、形容のできない熱いものが生まれた……熱いものは、全身を駆け巡っていく。
オレは負けたのに……。
こんな、醜い顔のオレを……。
惨めに負けてしまった、このオレを……。
認めてくれるのか?
化け物のくせに弱いオレを、仲間として認めてくれるのか?
「ケイ……オレはガロードに負けた……オレは弱いんだ……」
マルコは思わず、ケイに呟いていた。すると――
「弱くても、いいんだよ……マルコは、マルコだよ……優しくて……思いやりのある……人の心の痛みを、ちゃんと知ってる……あたしの、大事な友だちだよ……」
ケイの優しい声……マルコの視界がぼやけ始めた。
ケイ……。
オレは間違っていた。
オレはもう、見つけていた。
ここにあったんじゃないか。
オレの……居場所が。
あれ……。
涙、か?
オレ、泣いてるのか。
知らなかったよ……。
涙って、こんなに暖かいものだったんだ……。
野獣の涙《完》




