狩りの獲物・後編
「ベン、お前本気なのか? 本当にやるのか?」
唖然とした表情で尋ねるトマス。それに対し、ベンはニヤニヤしながら言葉を返す。
「お前なあ、今どきクリスタルなんて小学生だってやってるぞ。大丈夫だって……ここじゃあ、何やっても逮捕されないんだから」
そう言いながら、ベンは注射器を取り出す。トマスは苦笑するしかなかった。半ば予想通りだ。やはり、こいつは救い難い愚か者なのである……その上、一度言い出したら自分の意見を曲げないのだ。トマスの忠告など、聞き入れたためしがない。
もういい。好きにさせよう。あとで何が起ころうが、それは自己責任だ。
その日の夕方、トマスはベンと共に宿屋に居た。ベンの話によると、午後十時を過ぎてからの外出は避けた方がいいとのことだ。
「街を仕切るギャングと人外たちの間では、協定があるんだよ。午後十時を過ぎたら、表で人を食っても構わないという決め事がな。だから、十時を過ぎたら部屋を出るなよ」
そう言いながら、ベンはカバンの中を漁る。ややあって、目当ての物を取り出した。プラスチック製のペンケースだ。
ベンは得意げな表情で、ケースの中身を見せる。
注射器と、切手ほどの大きさのビニール片が入っている。ビニール片の中には白い粉末……。
「おいおい……」
トマスは呆然とした表情で呟く。だが、それは表面上のものだった。実のところ予想はついていたのだ。二時間ほど前の公衆便所……そこでのうさんくさい男との、妙なやりとり。トマスは少し離れた場所で見ていたが、明らかに不自然な握手とボディタッチ、そしてぎこちない笑み。ベンは落ち着いた表情を取り繕おうとしていたが、全くサマになっていない。一方の売人は、ヘラヘラ笑いながら何度も肩を叩き、そして去って行った。
帰り際、意味ありげな視線をトマスに向けて……。
「オレが先にやる。そしたら、次はお前だ。お前にも教えてやるよ……クリスタルの良さをな。ベッキーのことなんか、すぐに忘れちまうぜ」
「え……オレはいいよ」
「いいから、オレに任せとけ。まあ見てろ」
ベンの声は震えていた。極度の興奮によるものだろう。そしてベンは、注射器の中に粉を入れる。針から水を吸い上げ、注射器に入っている粉を溶かし……。
最後に、針を腕の血管に突き刺した。ゆっくりと、中身を注入していく。実に手慣れたものだ。ほんの出来心で……などと言えるような雰囲気ではない。間違いなく、ベンは薬物依存性なのだ……。
そして次の瞬間、ベンの表情が一変した。
・・・
トマスは気も狂いそうな恐怖の中、冷静さを取り戻そうと試みた。まず、音を立てずに深呼吸する。呼吸を整えながら、これまでしてきた訓練を思い出す。このような状況を切り抜けるため、他の少年たちとはかけ離れた生活をしてきたのだ。
そう……トマスのこれまでの人生において、プライベートな時間などというものはほとんど存在しなかった。学校に行けば、ベンにこき使われる。家に帰れば、寸暇を惜しんで父親と戦闘訓練をさせられる……ベッキーと付き合っていた頃は、その合間にどうにか時間を作り、デートしているといった具合だった。二人きりで会える時間など、ほとんどない。こんなに近くにいるのに、遠距離恋愛も同然だった……。
そして今日は、初めての仕事だったのだ。途中までは上手くいっていた。しかし……。
想定外の事態になってしまった。
何故、こんなことになってしまったのだ?
オレはただ、ベンの動きを見届けるだけの役目のはずだったのに。
特に何もせず、いつも通りにベンのお守りをするだけだったはずだ……。
・・・
ベンは胸を押さえ、もがき苦しみ出した。トマスを凄まじい形相で睨みつけ、何事かわめきちらす。本人以外には意味不明な、言葉の羅列……そして立ち上がり、トマスの方に手を伸ばし――
だが床に倒れた。ベンはうつ伏せのまま、顔だけを上げる。今度は哀願するような表情。金魚のようにパクパクと口を開ける。何かを言おうとしているが、言葉が出てこない。
だが、トマスには何も出来なかった。もがき苦しむベンを、じっと見下ろしているだけだった。こうなってしまったら、助けることは不可能だろう。自分にはベンの命を救えるほどの医学知識や技能はない。そもそも、素人が下手に救命措置を行なった場合……かえって悪化させてしまうケースはいくらでもあるのだ。
やがて、ベンは床の上でガクガク痙攣し始めた。ややあって、動きが完全に止まる……。
トマスにとって、非常に面倒くさいことだったが、同時にしなくてはならないことがあった。まず脈を見た。次に心臓の鼓動を聞いてみる。
間違いなく死んでいる。何という間抜けな死にざまだろうか。だが、感傷に浸っている暇はない。ここから早く出なくてはならないのだ。トマスは手早く荷物をまとめた。
そして携帯電話を取り出し、連絡する。
・・・
呼吸が整ってくると同時に、恐怖心もどうにか収まってきた。それと同時に、頭が働き始める。襲撃者は恐らく素人だ。訓練を積んだプロの殺し屋ではない。もしプロの殺し屋だったなら、自分はとうの昔に殺されていただろう。先ほどまでのトマスは、恐怖で我を忘れていた……我ながら情けない話ではあるが、これまでの訓練で身に付けたはずのものが、全て消し飛んでいたのだ。
だが素人ならば、自分にも勝ち目はある。トマスは隠し持っていた拳銃を取り出し、安全装置を外した。その時――
「おい……ここにいるんだろ? さっさと出てこいよ……手間かけさせんな」
からかうような声が、暗い室内に響き渡る……トマスは顔を上げ、少し体を起こす。声を出してくれたおかげで、相手の位置がわかった。トマスは拳銃を構え、狙いをつける。目は暗闇に慣れてきた。うっすらとではあるが、追いかけて来た者の姿が見える。トマスは拳銃を構え、狙いを定めた。
さっさと終わらせよう。
そして……家に帰ろう。
・・・
トマスは携帯電話をポケットに仕舞う。荷物はまとめてある。あとは、ここを離れるだけだ。全ては予定通りに進んだ。ベンが声をかけてきた売人からクリスタルを買い、そして静脈に射ち込む……もっとも、買ったクリスタルには毒物が混じっていたのだが。それも少量で、人一人を簡単に殺せる物を……ベンは何のためらいも無く、実にあっさりと射ち込んでくれた。ほんの欠片ほどの疑いもなく。そう、ヤク中は愚かな生き物なのだ。薬物への欲求が、身の危険に対する警戒心をも消し去っていき……結果、破滅していく。
いや違う。薬物が人間の持っている愚かさを引き出すのだ。トマスは死体となったベンを見下ろす。この男は幼い時からバカだった。ワガママで空気の読めない坊っちゃん育ちの愚か者……薬物がそのバカさ加減に拍車をかけたのだ。そして今、その報いを受けることとなった……。
だが、トマスは顔を上げる。自分のやるべきことは終えた。あとは引き上げるだけだ。トマスは足早に立ち去ろうとしたが――
異変に気づき、動きを止める。扉の向こうから、数人の男の気配。そして扉を叩く音……さらに、声が聞こえてきた。
「おい開けろよ」
「お前ら旅行者だろ? しかも、クリスタル買ってたよな? いいものがあるんだよ」
「なあ、開けてくれよ。仲良くしようぜ」
トマスは舌打ちした。ベンという男には、理解不能な節約癖があった。服や装飾品などといったものには金を惜しまないが……人目につかない部分は極端に出費を惜しむのだ。金持ち特有のケチさなのかもしれないが……この安宿も、ベンが選んだ場所なのである。一泊につき、五百ギルダン……旅行者の泊まる宿としては格安だ。
だが、安い分だけ危険も大きい。
「いや、いいよ……間に合ってる」
トマスは言葉を返しながら、素早く辺りを見渡す。
どう動く?
いや、どう逃げる?
「おい……開けてくれないなら入っちゃうよ」
声と同時に、扉の開く音……鍵はかけてあったはずだが、外にいた襲撃者たちには大した意味をなさなかったらしい。あるいは合鍵を持っていたのか。
いずれにしても、扉は簡単に開いた。そして部屋の中に、数人の男たちが侵入して来たのだ。
だが、侵入してきた男たちが見た光景は……床に転がった死体と、開かれた窓だけだった。
しかし、男たちの反応も早い。一人の男が窓に近づき怒鳴った。
「一人逃げたぞ! 捕まえろ!」
次の瞬間、響き渡る銃声――
・・・
銃で撃たれたのは、生まれて初めての体験だった。幸いにも弾丸は外れたが……その時、自分の体を支配していたものは抵抗しようのない、純然たる恐怖心。そう、奴らは本気で自分を殺す気だった。本物の殺意を前にして自分は恥も外聞もなく怯え、そして場所も確かめずに逃げることしか出来なかったのだ……。
クソが……。
こんな所で死んでたまるかよ。
まだ、いい思いの一つもしてないんだぞ……。
生きて帰ったら……ベッキーよりもいい女を見つけてやるぜ。
トマスは拳銃を構えた。呼吸を整え、じっくりと待つ。
「おい、どこ行ったんだ……隠れてないで出て来い。いま出て来れば、命だけは助けてやるよ」
男はすたすたと歩いてくる。何の警戒心もない。勝利を確信しているらしい。安宿に泊まる旅行者を襲うことで生計を立てているチンピラなのだろうか。あるいは、ほんの遊びのつもりで自分たちを襲ったのだろうか。
「おい、早く出て来いよ……出て来ないと、治安警察にチクッちまうぞ? 友だちがクリスタルのやり過ぎで死んじまったんだろ? どうすんだよ? オレたちがチクッたら、大陸には戻れないぜ」
男はこちらに近づいて来ている。七メートルほどの距離か。トマスがどこにいるのか、まだ把握できていない。
まだ遠い……。
もう少しだ。
男が近づいて来る。その手には、鉄パイプが握られていた。トマスは心の中で苦笑する。この男は自分のことを、簡単に仕留められる獲物だと思っているのだろう。鉄パイプ一本で簡単に殺せるような……。
獲物はどちらなのか……いま教えてやる。
仲間を呼ぶ前に、確実に仕留めてやるよ。
五……。
四……。
三……。
今だ。
トマスは狙いをつけ、トリガーを引く。
銃弾は見事に、男の眉間を貫いた。
「親父、全部終わったよ。ベンは死んだ。ちょいとトラブったけど、何とか無事だ。明日には帰る」
(そうか……最初の仕事がエメラルド・シティとは大変だったな。だが、お前なら出来ると信じてたぞ、トマス)
「よく言うよ……で、これからどうなるんだ?」
(今のところ、お前の出番はないだろう。ベンの妹はまだ中学生だしな……妹にお前を付けるわけにもいかないだろう。しばらく休んでおけ)
電話を切った後、トマスは椅子に腰掛けた。彼は今、事前に父が予約してくれていた高級かつ安全な宿に来ている。不意の予定変更にも対応してくれるのだ。今回のような場合でも、上手く対応してくれた。
そもそも、今回の件は初めから仕組まれたものだったのだ。大企業を一代で築き上げた傑物であるカール・ジャクソン……だが、その長男のベンはどうしようもないバカ息子であった。トマスの役目は、バカ息子ベンをトラブルから守ることにあったのだ。幼少期の頃からずっと、トマスはベンが余計なトラブルに巻き込まれないよう、影から気を配っていた。父親に叩き込まれた暴力と謀略の技術を用いて、ベンの身を守っていたのだ。
しかし……ベンは悪くなる一方だった。母親に甘やかされて育ったベンは、度々トラブルを起こした。その度に、カールがあらゆるコネを使ってもみ消していたのだが……。
やがて、カールは心を決めた。息子のベンの存在を、なかったことにしてしまおうと……。
だが、ベンの母親でありカールの妻であるジャネットは、ベンを溺愛しているのだ。ベンを消すとしたら……よほど上手くやらない限り、かえって面倒なことになる。
そんな時、ベンとトマスがエメラルド・シティを旅行する、という報告を受けたカールは、トマスの父親に命令を降した。
ベンをエメラルド・シティで殺せ、と。
そう、エメラルド・シティでは……人一人の命など安いものだ。しかも、エメラルド・シティで死んだとあっては公にできない。大陸で死んだなら……ジャネットは徹底的に調べるだろう。だが、エメラルド・シティの安宿でクリスタルの射ちすぎで死んだとあっては……絶対に公には出来ないのだ。
そしてトマスには……ベンの死を見届けるという任務が与えられた。
トマスは携帯電話をしまった。ようやく終わったのだ。まったく面倒な話だった。だが、自分の人生を悩ませていたベンという障害物は消えたのだ。明日からはやっと、自由に生きられる……。
だが、それはほんの一時だろう。自分は父と同じ、プロのトラブルシューターなのだ。父の跡を継ぐ以上、平和な日々は訪れることはないのだ。またいずれ、ベンのような厄介者のお守りをさせられることになるのかもしれない……。
まあいい。それまで、束の間の自由を楽しむとしようか。
狩りの獲物《完》




