狩りの獲物・前編
トマスは怯えていた。
廃墟と化した建物の中、遠くから聞こえてくる若い男の罵声……トマスは息を殺し、体の震えをどうにか押さえながら身を隠していた。彼は恐怖のあまり混乱し、気が狂いそうになりながらも必死で考えた。
いったい、何事が起きたんだ?
何故、こんなことになってしまったんだ?
これは……オレに対する天罰なのか?
オレは、何かヘマをしちまったのか?
トマスは暗闇の中、一人で膝を抱えながら、心の中で叫び続ける。そもそも、ベンの奴がいけないのだ。あいつは自分にとって、本物の疫病神だった。
あいつさえ、もう少しまともであったなら……。
・・・
「おいトマス……この連休だけどさ、お前は何か予定あんのか?」
高校の授業が終わり、帰り支度を始めていたトマスに、同級生のベンが声をかけてきた。
「え? 予定なんか、あるわけないよ。しょうがないから、バイトでもするさ。オレも金欠だし」
トマスは笑顔で言葉を返す。だが内心では、目の前にいる無神経なバカ者を殴り倒したい衝動に駆られ……その気持ちを、必死で押さえていた。自分はついこの前、一年以上付き合っていたベッキーと別れたばかりである。しかも、その別れる原因となったのが……目の前にいる小太りのいけ好かないボンボンが、ベッキーに下らんちょっかいを出してきたせいなのだ。
ベンの父親は社長である……トマスの父親が勤めている会社の。そのため、トマスは幼馴染みのベンに対し、複雑な思いを抱きながらも付き合い、共に成長してきたのだ。
ベンは決して悪い男ではない。
いや……正確に言うと、悪気は無いが面倒なタイプだ。お坊ちゃん育ち特有の、人の良い部分は持っている。だが、同時にお坊ちゃん育ち特有の、空気の読めない部分も持ち合わせているのだ。
トマスとベッキーが別れる原因を作ったのも、ベンの空気の読めなさが発揮されたからだった。トマスとベッキーのデート中に偶然現れたベン……彼はベッキーの前で、トマスの幼い時にしでかした数々のみっともない体験を面白おかしく話してみせた。数時間に渡り、延々としつこく……さらには、矛先をベッキーに向けてきた。ベンの下らない質問攻めが始まる。二人の知り合ったきっかけや、トマスのどこが気に入ったのか、などといった質問から始まり……しまいには、初エッチはいつ? 好きな体位は何? などという質問までぶつけてきた。
露骨に不快な顔をするベッキー……だが、ベンはそれに気づかないらしい。ニヤニヤしながら、同じ質問を繰り返した。
トマスにはわかっている……ベンには、本当に悪気がないのだ。ただ少々頭が悪く、聞いていい事と悪い事の区別がつかないだけなのである。
そして、もう一つわかっていることがある。自分はベンに逆らえない。また、ベンの機嫌を損ねてもいけないのだ。それはトマスの身体と心を縛りつけて支配している、昔からの暗黙の掟だった。
だが、ベッキーにそんなことが理解できるはずがない。後で二人きりになった時、彼女は自分を庇おうとしなかったトマスをなじった。そこから口論になり、そして二人は別れてしまったのだ……。
トマスはベッキーと別れた。だが、ベンとの付き合いは未だに続いている。そしてベンには、トマスとベッキーの間に亀裂を生じさせたのは自分である、という意識は欠片ほどもないらしかった。
「なあトマス……お前、エメラルド・シティって知ってるか?」
ベンが尋ねてきた。トマスは頷き、答える。
「ああ……聞いたことはあるよ。なんか、逃げ込んだ犯罪者たちが集まって出来た街だろ」
「バカ、違えよ。あそこは犯罪者だけじゃねえんだ。逃げ込んだ異能力者や、本物の化け物もいるんだぜ。ここだけの話だがな、オレこの前、親父と一緒に行ってきたよ」
「ええ!? 本当かよ! 本当にお前、あの街に行って来たのか!?」
トマスは驚きのあまり、思わず叫んでいた。だがベンの言葉の意味は、一人の少年に叫び声を上げさせるには充分過ぎるものだったのだ。
「ああ、凄かったぜ……あん中はな、何やってもいいんだよ。街中で堂々とクリスタルやってる奴もいるしな。バトルリング、ってのも観た。あれも凄かったぜ……本物の殺し合いなんだよ。化け物みたいな奴らが、金網の中で殴り合っててさ」
「マジかよ……」
「驚くのはまだ早いぞ。今度の連休にはな、人外同士の殺し合いが観られるんだってよ」
「人外!?」
「そうだよ。正真正銘、本物の化け物だ……エメラルド・シティじゃなきゃ、観られないショーだぜ」
ベンは言葉を止めた。そして周りの様子を窺う。教室にはまだ数人の生徒が残っているが、どこか殺伐とした雰囲気だ。もうすぐ大学受験である……それも致し方ないのかもしれない。
だが、ベンは呑気なものだ。父親のコネを使い、入る大学は既に決定しているのだから。あとは……よほどバカなことをしでかさない限り、進学は問題ないはずだった。
しかし、ベンという男は生きている限り、何かをしでかさないといられない性分であるらしい。
「なあトマス、今度の連休だけどさ、一緒にエメラルド・シティに行かねえか? 行ってバトルリング観ようぜ。本物の化け物の殺し合いがやるんだぞ。もちろん行くよな?」
「え!? 本当かよ!」
またしても叫び声を上げるトマス。そう、エメラルド・シティに入るには許可が必要なのだ。国によって手続きのやり方は微妙に異なるが……共通しているのは、それなりの理由が必要だという点である。肉親や親戚が中にいる、取材のため、街の調査、公の施設の修復工事などなど……それなりの理由がなければ、入れない場所のはずなのである。
「ちょっと待てよ、何でお前――」
「おいおいトマス、お前は何も知らないんだな……あの街に入るのは簡単さ。親父の名前さえ出せば、簡単に入れる。あそこは今や、金持ちのためのアトラクションみたいなもんだよ。そこでだ……」
ベンは言葉を止めた。そして、いかにも大物ぶった態度で顔をこちらに近づける。トマスは胸がむかついてきた。その場で顔面に頭突きを叩き込みたい衝動を感じた。だが気持ちとは裏腹に、顔には愛想笑いが浮かんでしまっている。早く続きを聞きたい、とでも言いたげな表情で……。
ベンは、そんなトマスの表情を見て……満足げな笑みを浮かべた。
「親友であるお前を、是非とも招待したいってわけだよ。なあ、一緒に行こうぜ……お前、ベッキーと別れてから元気ないじゃん。だから、パーッと遊んですっきりしようぜ」
「あ、ああ……」
「なあ、行くんだろ? エメラルド・シティなら、女はいくらでも買えるぜ。しかも、人殴ろうがクリスタルやろうが捕まらねえし。あそこは何やっても、逮捕されないんだぞ。なあ、行こうぜ?」
正直言うなら、興味はあった。トマスはこれまで女を買ったことはない。クリスタルのような麻薬をやったこともない。犯罪とは無縁の生活を過ごしてきたのだ。それに、エメラルド・シティという退廃と混沌の支配する街には、何か惹き付けられるものを感じる。自分の十七年間の人生……そこには自由がなかった。もっとはっきり言うなら、自分の自由意思が介在していなかったのだ。誰かに決められたルートを、そのまま歩いていた気がする。
その誰かの中には、目の前にいるベンも入っているのだが……。
「わかった。行くよ」
「そうか、行くか。よし、オレに任せておけ。ベッキーのことなんか、帰って来たら忘れちまうせ……あまりに楽しすぎてさ」
ベンは囁くような声で言うと。ニヤリと笑ってみせた。映画などに登場する、クールな主人公を真似しているのだろうが……まったくサマになっていない。いつものように、トマスは心の中でため息をついた。この男は悪人ではない。少なくとも、善意はある。しかし、生半可な悪人などでは太刀打ち出来ないだろう……この面倒くささは。いつの日か、この面倒くささに耐え切れなくなり、自分はベンを殺してしまうかもしれない。
いや、自分にはそんな度胸はないだろう。
(あんたは……あたしよりベンの方が大事なの?)
ベッキーの言葉を思い出した。大事であるはずがない。幼い時から、ベンは自分のそばにいた。まるで使い走りのように扱われ……それでも、ベンに逆らうことは出来なかった。この腐れ縁は、恐らく一生続くのだろう。そうと知りつつも、縁を切れない己の性格と家庭環境とが忌々しくて仕方がない。
出来ることなら、ベンには消えて欲しい。自分とは一生、無縁の場所に行って欲しい……。
・・・
トマスは我に返る。暗闇の中、別の物音が聞こえてきた……トマスは息を殺し、耳をすませる。コンクリートの階段を上がって来る何者かの足音。トマスは四つん這いになり、音を立てないように動いた。視界は悪く、数メートル先すら見えにくい。窓からの月明かりだけが頼りだ。手探りで、少しずつ階段から遠ざかって行く。
廃墟内に響く足音。その合間に、虫や小動物の蠢くカサコソという音が聞こえてくる。トマスは震えながらも、少しずつ動いた。震えは口の中にまで広がる。歯と歯が当たり、ガチガチと音を立て始めた。トマスは口を手のひらで押さえつけ、どうにか音を消す。
不意に足音が止まる。足音の主である何者かが、階段を上り終えたらしい。トマスはとっさに、そばにある家具のようなガラクタの陰に移動し、身を縮める。
そして息を殺し、動きを止めた。
・・・
「ここが、エメラルド・シティか……」
トマスは大通りの真ん中で立ち止まり、思わず呟いていた。
最悪の無法都市……トマスがエメラルド・シティについて聞いていた噂はそういった類いのものだった。トマスは漠然と、紛争地帯のような瓦礫の街を想像していたのである。
しかし、今いるこの場所は……ただの観光地にしか見えないのだ。ラフな服装で首からカメラを下げ、キョロキョロしている学生風がいるかと思うと、悪趣味な装飾品を多数身に着け歩く成金風の中年もいる。
老若男女、実に様々な人種が歩いているが……少なくとも、物騒な場所には思えない。トマスは辺りを見渡したが、ある場所を見たとたんに目が釘付けになった。
がっちりした体格の男が二人、電柱のそばに佇んでいるのだ。鋭い目付きで、通りを油断なく見渡している。そしてズボンのベルトには、拳銃が無造作に挟み込まれているのだ。明らかに観光客ではない。
「おいトマス……こんな所で立ち止まるなよ。みっともないだろうが」
ベンが声をかける。そしてトマスの視線の先にあるものを見た。すると、ニヤリと笑う。
「トマス……お前、ビビってんのかよ? 大丈夫だって。あれはガードマンみたいなもんだから」
「ガードマン? あれがかよ?」
トマスは唖然とした表情でベンの顔を見る。次いで二人組を見る。二人組は、あちこちに視線を移していた。
「あれはな、ここいらを仕切っているバーター・ファミリーっていうギャングなんだよ。あいつらがいるから、オレたちは安心して観光できるってわけだ」
ベンは得意げな表情で説明する。トマスは内心、うんざりしながらも、感心したような顔つきでウンウン頷いた。下手に質問などしようものなら、さらに話が長引く恐れがある。適当に相づちを打って、さっさと終わらせよう。ギャングが見張っているから安全なのかもしれないが、こんな場所で長時間立ち止まっていたくはない。
だが、ベンの講釈は終わらなかった。
「いいか、このエメラルド・シティを仕切っているのは……虎の会とバーター・ファミリーだよ。奴らはギャングだけど、この街の警察みたいなもんだ。オレの親父はギャングに顔が利くからな。だから、政府の許可なしでこの街に来られるんだよ」
得意げに話すベン。だが、彼の言うことは間違いではない。ベンの父親であるカール・ジャクソンはかなりの力を持つ実業家だ。政財界にも太いパイプを持っているという噂も聞いている。カールならば、ギャングと繋がりがあっても不思議ではない。
トマスは形だけの相づちを打っていたが、とつぜん妙な胸騒ぎを感じた。とてつもなく嫌な予感がする。それと同時に、何者かの視線を感じた。明らかにこちらを見ている。
トマスはさりげなく周囲を見回した。だが、人が多すぎてわからない。そもそも、本当にこちらを見ている者などいたのだろうか?
考え過ぎだ、とトマスは思った。怯える心は、居もしない怪物を創り出す。やる事やって、さっさと引き上げよう。
もっとも、それはベン次第であったが……。




