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エメラルド・シティ 闇にきらめく宝石の街  作者: 赤井"CRUX"錠之介


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笑う犬の冒険・前編

 『笑う犬の冒険』の主な登場人物


◎ロバーツ

 この章の主人公であり語り部の、ビールが好きなブルドッグです。


◎マット

 元軍人であり、ロバーツの最初の飼い主です。


◎ユリ、ケイ

 マットを雇う双子の姉妹であり、ロバーツの二代目の飼い主です。





 我輩は犬である。名前はロバーツという。

 どこで生まれたのかは記憶にない。幼少期の思い出は、我輩のいた場所が緑に覆われた、のどかな村だったことだ。実に多種多様の匂いがしていた。土の匂い、草の匂い、木の匂い、川の匂い、鶏の匂い、狼の匂い、猪の匂い、熊の匂い……我輩はその村で、母や三匹の兄弟たちと仲良く暮らしていたのだ。

 母の話によると、我輩と兄弟たちは都会で生まれたらしい。「獣医」なる者の働きにより、我輩と兄弟たちはこの世に生を受けたのだという。そして、母のあるじだった人間が村に引っ越すことになり、我輩たちを連れて村にやって来たのだ。

 母と兄第たちに囲まれ、我輩は幸せだった。とても楽しい日々だった。我輩は兄弟たちとじゃれ合い、母に甘え、夜になると身を寄せ合い小屋で眠った。そんな日々が、当時の我輩の日常だったのだ。

 しかし、そんな日々は長く続かなかった。




 ある夜、我輩は母に起こされた。いったい何事が起きたというのだ? 我輩はキョロキョロし、くんくん鳴きながら母に尋ねようとした。だが次の瞬間、凄まじい悲鳴が聞こえてきたのだ。同時に漂ってきた、人間の血の匂い……我輩は怯え、恐怖のあまりおしっこを漏らしてしまった。小屋の外では、恐ろしいことが起きている。我輩の日常にはこれまで有り得なかった、とてつもなく恐ろしいことが……。

 母は皆に言った。おとなしくしていなさい、と。声を出さずに、ここで隠れていなさい、とも言った。我輩は母や兄弟たちと身を寄せ合い、ぶるぶる震えていた。外で何が起きているのか、見ることはできない。しかし、鼻は否応なしに情報を伝えてくれる。

 外で、何者かが大勢の人間を殺していることを……悲鳴と血の匂いはどんどん酷くなり、我輩はただひたすら震えるばかりだった。

 音が止み、そして惨劇が終わった後も、我輩はじっとしていた。怖くて動けなかったのだ。しかし、伏せていた母は立ち上がった。そして、小屋を静かに出ていく。外の様子を正確に知るためには、鼻からの情報だけでは不十分だ。目からの情報も必要なのである。 だが当時の我輩には、そんなことは知る由もなかった。あまりの恐怖に体がすくみ、動くことが出来なかったのだ。だから、兄弟たちが母に続いて出て行った時も、我輩は小屋の中でじっとしていた。くんくん鳴くこともせず、腹を地に付けたままでいた。


 我輩の、この行動……本来ならば間違いであろう。母や兄弟たちが移動しているのに、一匹だけ違う行動をとっていたら……家族とはぐれることになるのは間違いない。当時の我輩のような子犬が母犬とはぐれたら、まず助からなかっただろうから。

 だが皮肉にも、助かったのは我輩の方だった。


 小屋の中に隠れ、震えている我輩……その時、我輩の鼻に別の匂いが飛び込んできたのだ。

 狼である。

 それまでにも、我輩は狼の匂いを嗅いだことがあった。もっとも、死んでいる狼だったが……村の周りには狼が住んでおり、時には村の鶏などを襲うこともあったらしい。そのため、村の人間たちに殺され、死体となったものが運ばれてきたことがあった。

 しかし今、鼻に飛び込んできた匂いは間違いなく、生きている狼だ。それも一匹や二匹ではない。確実に十匹以上はいる……見つかったら、確実に殺されてしまうだろう。

 今にして思えば、狼の群れは人間たちの血の匂いを嗅ぎつけ、死体を漁りに来たのだろう。そして我輩の母と兄弟たちは、その狼の群れと鉢合わせしてしまったのだ。


 今も我輩の耳に残っている……外から聞こえてきた、母と兄弟たちの悲鳴が。今も我輩の鼻に残っている……母と兄弟たちの血の匂いが。我輩はひたすら怯え、小屋の中で毛布にくるまって隠れていた。我輩はあの時、母と兄弟たちの身を案ずることよりも……ただただ震えることしか出来なかったのだ。


 殺戮の時は終わった。

 我輩は動くことすら出来ず、毛布の中にじっとしていた。どのくらいの間、そうしていたのかはわからない。やがて、飢えと渇きが襲ってきたが……我輩にはどうにも出来なかった。今まで、人間からごはんをもらっていた我輩に何が出来ただろう。食料と水を調達する術を知らず、恐怖のあまり動くことすら出来ない当時の我輩……そのまま時間が経過すれば、間違いなく死んでいたことだろう。


 だが、救世主が現れた。突然、我輩の体を覆う毛布が取り払われた。我輩は飢えと渇きで霞む意識の中、何が起こったのか、と上を見る。すると目の前には、大きな人間の男が立っていたのだ。とても怖い匂いがする。だが、優しい匂いもしている。とても優しい……そう、母のあるじだった人間と同じような匂いだ。

 男は我輩を抱き上げる。我輩はされるがままになっていた。我輩の空腹は限界に達しており、体も衰弱しきっていたのだ。抵抗など出来るはずもない。そもそも、抵抗しても無意味だったが……。

 男は言った。お前、うちに来るか? と。

 我輩は鼻を鳴らして、男の顔をペロリと舐めた。はい、という返事のつもりだったが、果たして通じたのだろうか? 我輩の胸に不安がよぎる……。

 だが、心配は無用だった……男のいかつい顔に、満面の笑みが浮かんだのだから。


 男の名はマット。我輩の初代のあるじであり、第二の親とも呼べる存在だ。マットは、飢え渇いていた我輩に美味しいハムのサンドイッチと水をくれたのだ……我輩は貪るように食べ、そして飲んだ。食べ終わると、マットのごつごつした大きな手が、我輩の頭を撫でる。我輩はようやく安堵した。そのとたんに、抵抗しがたい眠気に襲われる……我輩はそのまま、泥のように眠った。




 目を覚ますと、我輩は奇妙な場所に居た。上でお日さまのように光を発する丸い物、硬い床と壁、そしてごちゃごちゃと色んな物が置かれている。明らかに小屋とは違う場所だ……我輩は不安になった。村の匂いとは全然違うのだ。人間と人間の造り出した物の匂いに満ちている……心細さのあまり、我輩はくんくん鳴きながらよちよち歩いた。

 その時、ぬっと現れた巨大な影……マットだった。マットは笑みを浮かべ、我輩を抱き上げた。そして、我輩は頭を撫でられたのだ……ごつごつした大きな手だが、とても優しい匂いがする。母のそばに居た時のような温もり……我輩は安心し、再び眠りについた。


 マットは我輩に、色んなことを教えてくれた。都会での生活の仕方、飼い犬として生きるためのルールなど……我輩は様々なことをマットから学んだ。我輩にロバーツという名前を付けたのもマットだ。我輩はマットが大好きだった。部屋の匂いにも、都会での生活にも慣れてきた。再び訪れた、幸せな日々……この幸せが、いつまでも続くのだろうと思っていた。

 だが、我輩は何もわかっていなかったのだ。

 マットが我輩の住んでいた村に何をしに来たのか。そして、この先何をするつもりなのか……。


 後で知ったことだが、我輩の住んでいた村の住民たちを虐殺したのは、マットの友人だったのだ。マットは殺人鬼と化した友人を止めるため、独自に友人の足取りを追っていた。

 そして、友人はエメラルド・シティという場所に逃げ込んだことが判明した。

 しかし、そのエメラルド・シティという場所は酷い場所らしい。


 ある日、マットは我輩を抱き上げた。そして尋ねる……ロバーツ、お前もエメラルド・シティに行くか? それとも、大陸に残るか? と。

 我輩は鼻を鳴らし、マットの顔をペロリと舐めた。例え、行く先がどのような場所であろうとも……我輩はマットと一緒にいたい。マットは我輩にとって、初めてのあるじなのである。母や兄弟たちが消え、死にかけていた我輩を救ってくれた命の恩人であり、育ての親なのだ……我輩はマットと共に行く。これからもずっと。




 エメラルド・シティは確かに酷い場所だった。あちこちから、不気味な匂いが漂ってくるのだ。これまど嗅いだことのない匂い……だが、我輩の鼻は告げている。この匂いの持ち主は危険である、と。我輩は心底から不安になった。そう、村に居た時のような恐怖を感じ……我輩の体は、ひとりでに震えだしていた。

 だが、あの時とは違う点もある。今の我輩のそばには、マットがいるのだ。マットなら、我輩を守ってくれるだろう。

 我輩は、マットのそばにぴったりと寄り添った。マットのいかつい大きな手が、我輩の頭を撫でる……我輩の震えは収まった。


 我輩とマットの生活は、まるきり変わってしまった……我々は巨大な箱――マットはコンテナと言っていた――の中で生活するようになったのだ。夏は暑くて冬は寒い……特に冬はきつかった。あまりにも寒い夜には、我輩とマットは身を寄せ合って眠った。

 だが、この時……我輩は悟ったのだ。我輩はマットのそばにいれば暖かい。だが、マットも我輩のそばにいれば暖かいのだ。我輩はマットの役に立てている……それは、とても嬉しいことだ。


 我輩は周囲に気を配るようになった。何かが近づいて来るような匂いがしたら、物陰からそっと様子を窺う……もし敵意や殺気のあるものなら、吠えてマットに知らせる。そう、我輩は犬なのだ。相手の発している敵意や殺気を感じとるのは得意である。我輩は体が小さく、大きな犬に比べるとケンカも弱い。しかし……小さいからこそ、出来ることもある。弱いからこそ、出来ることもあるのだ。


 マットはいつも、昼間に出かけていた。そして夜になると帰って来る。そして、我輩にごはんを食べさせてくれる。我輩は、マットと一緒にごはんを食べる時……幸せを感じる。一匹で食べるよりも、マットと食べる方が美味しいのだ。


 だが、ある日……マットは落胆した様子で帰って来た。そして、我輩に言ったのだ。

 ヒロムが死んだ、と。

 ヒロムというのは、我輩の住んでいた村の住民を虐殺した殺人鬼の名だ。マットの親友でもあった男であり、ここエメラルド・シティに逃亡して来たのだ。マットは殺人鬼と化した親友を捕えるために、この無法都市にやって来たはずだった。

 しかし、その目的が消え失せてしまったのだ。


 マットは落ち込んでいた。見ていて痛々しくなるくらいに……だが、我輩には何も出来なかったのだ。この時我輩は、言葉が喋れない自分が恨めしかった。我輩が犬でなければ……いや、せめて言葉が喋れたなら……。

 我輩に出来ることといえば……マットのそばに寄り添い、マットの顔を見上げることだけだった。マットの手が、いつものように我輩の頭や背中を撫でてくれる。だが、その目は虚ろであった。表情には力がなく、顔色も悪かった。


 マットは変わってしまった。まず、覇気がなくなったし、食べる量も減った。酷い時など、一日中ビールばかり飲んでいる日もあった。我輩がビールを飲むようになったのも、その頃である。マットが飲んでいるのを見て、我輩も飲んでみたくなったのだ。わんわん吠えてねだってみたところ……マットは苦笑しながらも、皿にビールを注いでくれた。

 我輩は試しに、ビールを一口舐めてみた。美味しくはない。だが、不思議な気分がした。ふわふわするような、これまでに体験したことのない気分……我輩はもう一度舐めてみた。苦い。しかし、頭がふわふわする……幸せな気分だ。我輩はぴちゃぴちゃとビールを飲んだ。幸せな気分だ……そんな我輩を見て、マットは笑った。

 マットは久しぶりに、楽しそうな顔で笑ってくれたのだ……その顔を見ていたら嬉しくなり、我輩も笑った。そう、人間は誤解しているようなのだが、我々犬族もまた、ちゃんと笑うのだ。

 我輩とマットはビールを飲み、そしてお互いの顔を見つめては、ニコニコ笑い合った。我輩とマットの間に、言葉などは必要ないのだ。ただ、そこにお互いの存在がある……そして心が通じ合っている。我輩は嬉しかった。マットの世話になっているだけでなく、我輩の存在でマットの心を癒すことができる……その事実を発見できたのだから。


 こうして、我輩の楽しみがまた一つ増えた。我輩は夜になると、マットと一緒にごはんを食べる。食べ終わると、マットと一緒にビールを飲むのだ。ビールを飲みながら、二人でニコニコ……いや、一人と一匹でニコニコ笑い合う。

 ビールを飲みながら、マットは我輩に話しかける。我輩は尻尾を振りながら、くんくんと鳴いてそれに答える。我輩にとっては、桃源郷に居るがごとき幸せなひとときだ。

 だが、この幸せも長くは続かなかった。運命とは、ひたすら残酷なものであるらしい。我輩とマットとの、悲しき別れが近づいていたのだ……。






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