6章 黄昏のはじまり 4-17
「ルエイン……とは、どういう関係だったんだ?」
ソーダ水の入ったボトルを手に、リューナはハイラプラスと並んでモニターの前に立っていた。
少し離れた場所ではトルテとディアンが椅子に座ったまま仮眠を取っている。ダルバトリエは公務や各方面への連絡で席を外していた。
「裏切りの可能性に気づいていても、いろいろ頼んだり、一緒にいたり……まるで昔からよく知っていて行動パターンを熟知しているみたいじゃないか」
「幼なじみがいるあなただからこそ、そこに気づくのでしょうね」
「……幼なじみだったのか?」
リューナは年上の青年の横顔に目を向けた。
モニターに表示される情報を読み取るためにオレンジ色の瞳を小刻みに動かしながら、ハイラプラスは手元の小さな魔法陣を矢継ぎ早に指で弾き、次々と現れる文字の羅列を叩き続けている。
「――ルエインは幼なじみです。ちょうどあなたとトルテちゃんみたいにね。幼い頃から一緒に過ごしてきました。私が十歳でアカデミーに入った後、二年後に彼女も同じように……」
ハイラプラスはモニターからは目を離さなかったが、目を僅かに細めて声のトーンを落とした。
「ダルバトリエと組んで、とある研究に関わっていたときですかね……ちょっとした事件がありまして。そこから歯車は狂いはじめたんだと、私は思っています」
「事件?」
「ドゥルガーです」
名前を発したその一瞬だけ、ハイラプラスの手が止まった。……再び検索の作業を続ける彼の目は鋭く厳しいものになっていた。
「彼は、私と同等、もしくはそれ以上の魔力を欲していました。自分たちの研究に夢中だった私としては、彼のことは正直目に入っていなかったんですが、私をライバルと公言していた彼にとってはそれが侮辱と捉えられたのでしょうね。ある日、彼は――」
ハイラプラスは完全に手を止め、落ち着いた声で言った。
「――私の右目を奪っていきました」
リューナは驚きに目を剥き、青年を見た。――今何て言った?
「この右の瞳は、作り物なんですよ」
ハイラプラスはリューナにゆっくりと顔を向けてみせた。その右の瞳の虹彩はきれいなオレンジ色で、瞳孔も動くし、左のものと全く区別がつかなかった。一瞬、冗談を言っているのかと思ったくらいだ。
「よくできているでしょう? しかし、これは紛れもない人の手で造られた物……正確には、友人であり錬金術士であるダルバトリエが造ってくれた新しい瞳なんですよ」
ハイラプラスは淡々と語り、少しだけ微笑んでみせた。
「尋常ではない事件でした。それはもう大混乱でしたよ。結果的にドゥルガーはアカデミーを追放され……私がドゥルガーとの関係を疑ってしまったルエインとも、そのとき疎遠になってしまいました。彼女はあのとき、必死になって私を助けようとしてくれていたのに……ね」
私も若かったんですよ、と冗談めかして自嘲気味に笑ったハイラプラスだが、その表情が裏切っていた。どれほどの苦悩と衝突があったのか――考えるだけでも苦しくなるような事件だったことはよくわかった。
「魔導を操る力の秘密が『瞳』にあるみたいでしてね。ルエインはその方面の研究をしていて、論文も幾つか発表していました。……彼女は医療系の分野専門、『生命』の魔導士なのです。アカデミーを去ってからはその道を捨て去り、情報処理の方面に進んでしまいましたけどね……」
「その論文を読んだドゥルガーが、力を欲してあんたの瞳を奪ったっていうのか? そんなことのために他人の肉体の一部を?」
信じられない、というようにリューナは首を振った。
「アカデミーは特殊な環境ですから。知恵と知識、技術や論理に溺れる者もいたんです」
「それで、ドゥルガーとかいう奴、奪った目はいったいどうし――」
ドガンッ!
そのとき扉が音を立てて開かれ、がっしりした背の高い人影が執務室に入ってきた。木製の分厚い扉なのに、すさまじい勢いで壁にぶつけられたのだ。
「ダルバトリエ。自分の部屋だからといって困った人ですね、もう――それにしても頑丈な扉ですねぇ」
もしやと思ってリューナが部屋の中の椅子に目をやると、案の定トルテもディアンも眠りから覚め、目をぱちくりさせて扉を見つめていた。
「ハッハッハ。まぁ月に一度くらいは修理されておるがの。おっとそうだ、客人だぞ。さきほど到着なされたのだ」
豪快な笑い声をあげたダルバトリエはわきに寄り、後ろに立っていた客人を部屋に通した。
流れるような翠の髪とアメジストのような紫の瞳が印象的な、背の高いほっそりとした女性だった。肌は抜けるように白く、優美に突き出た耳の先端がはっきりと尖っている。
「エルフ族の王、フェリア殿」
ハイラプラスの呼びかけに、女性はにっこりと微笑んだ。
「ハイラプラス殿。しばらく見ないうちに大きくなりましたね」
「あはは。いやですねぇ、子どもではないのですが。……まぁ、あなたに最後にお会いしたのは十六のときですから、子どもだと記憶されていても仕方ないですかね」
ふふ、と優しげに微笑み、フェリアは部屋を見回した。ハイラプラスの横に立っているリューナ、そして椅子から立ち上がったトルテとディアンを順に見つめる。
「あなたが飛翔族の王、ディアン殿ですね。それから……あなたが人間族の新しい王になるひとですね?」
そう言ってフェリアが視線を向けたのは、他でもないリューナだった。
「――俺!?」
あまりの驚きに、思わず素っ頓狂な声が喉から滑り出てしまった。
「違いますの? ミドガルズオルムではその話と王宮襲撃事件で持ちきりだとナライアが話していましたので、てっきり」
フェリアの言葉に、「おやおや、そんなことになっていましたか」とハイラプラスが笑う。トルテは口をまるく開けてぽかんとし、挨拶をしようと一歩踏み出したディアンはその場で動きを止めた。
「ちょっ、いや、笑い事じゃねぇったら」
「でもまぁ、そんなふうに言われてもおかしくはない状況だったよね、あのとき」
ディアンが、祭りの騒動のときに屋外ステージでリューナと手を握ったことを思い出しながら頷いていた。
「まぁ、和んでいる場合でもないのですけれど」
ハイラプラスがいきなり話を変えた。
「フェリア殿も到着されましたし、我々には時間がありません。さっそく本題に入っても良いでしょうか」
そう言われたみなに異存はない。リューナは『終末の書・時の章』をちらりと確認した。――あと一日半というところか。
「『場所』の候補は、かなり絞っておきました。あとは現地の様子が見えればほぼ特定できるでしょう。それから友好の証であるエルフ族管理の誓約の書については――」
「ありますよ、ここに」
フェリアが、たっぷりとした衣の下から一冊の本を取り出した。装丁からみて間違いなく『終末の書』だ。
フェリアが何事かつぶやくように唱えると、そのたおやかな手の上で『終末の書』のページが開いた。
「……この書には、鍵について書かれているのです。つまり、世界を終わらせるための方法、そのきっかけ――次元の揺らぎの一点を突き崩し、全てを消し去る……そのための鍵です」
「方法を記した書がここにあるのなら、ドゥルガーたちはどうやってそれを実行するつもりなのでしょうか。その……世界の破滅を?」
ディアンの質問に答えたのは、ハイラプラスだった。
「この『終末の書』が作られたのは、王国が建国された時です。それは王でしたらみな知っていますよね? 実はその方法を伝授したのが、他でもない、神界に存在する神々なのです。だからこの書は読まなくてもある程度は予測できる、もしくはこう言ったほうがいいですかね……方法は幾つもあるのだ、と」
ハイラプラスの言葉に、息を呑む音が幾つか聞こえた。
「建国に携わった五つの種族の長たちの名は伝わっていません。ですが、その者たちが神界に渡り、知恵と力を得て混沌としていた世界を統一したのは事実です。その者たちが現生界に帰ってきたとき、神々の干渉を断つために信仰を禁じ、自分たち自身の力――『魔導』による統治の基礎を作り上げたのがこの国なのです」
「つまり、どういうことなのですか。神々は破滅の方法を、僕たち現生界の民に伝えたということなのですか?」
ディアンが眉根を寄せた。それが事実だとしたらなんと意地悪な話だ、というように。
「いえいえ、そうではありません。神々が与えたのは『全てを』です。破滅だけではなく繁栄も、あらゆること『全てを』。それら全ての叡智があってこそ、私たちはここまで文明を築き上げ、進歩し続けてこられたのですよ」
ハイラプラスは言葉を切り、唇を舌で湿してから言葉を続けた。
「神界まで到達した人類に、神々は選り好みなく全ての叡智を分け与えたのです。神々の良き悪しきの区別など、我々と同じ感覚ではありませんからね。繁栄のための叡智は大いなる恵みです。ですが同時に教えられた破滅の叡智は、聞かなければ良かった部類のほうだったのでしょうね」
黙って聞いていたトルテが口を開いた。
「その叡智を、五つの種族はお互いの牽制と友好のために、五つに分けて管理することにした……そういうことですか?」
ハイラプラスは深く頷いた。
「そのとおりです。次元の仕組み、揺らぎのエネルギーと危うさの上に成り立つ均衡――それらを理解し、意志による制御を行うのが魔導です」
「なんてスケールのでかい話だ……。だけど、それでここまでひとつの王国が続いたっていう奇跡の説明がつくな。本物の神の知識で三千二百年も繁栄している王国なんて凄過ぎるぜ」
リューナの言葉に、ハイラプラスと三人の王たちは眼を見交わし、各々の顔に哀しげな表情を浮かべた。
「――長く続いている王国だからこそ、最近衰退の兆しが無視できないほど顕著に現れはじめているんだ」
リューナのもの問いたげな表情に応えたのは、驚いたことにディアンだった。
「寿命は延びているのに出生率は下がる一方、人口は減り続けている。そして、魔導の力を自分の意思で行使できない民がほとんどだ……。今すぐ滅びなくても、このグローヴァー魔法王国は少しずつ確実に滅びへの道を歩いているんだよ」
ディアンは胸を押さえ、目を伏せた。
「王として、その憂いを何とか良い方向に変えたいとは思っているんだけどね。……でも、衰退は自然の定めなのかもしれない」
「どの種族も、その傾向は同じなのです」
フェリアも美しい顔を悲しみに曇らせた。その横で、ダルバトリエが指の関節をポキリと鳴らしながら口を開く。
「だからこそあやつらは、この世界に見切りをつけたってわけだ。神々の叡智を持ってすれば、破壊のあとに再生をすることができるって考えておるんじゃよ!」
「『新世界構想』というのは、ドゥルガーが書いた論文でもあります。学会では異端として扱われていますけどね」
ハイラプラスが長いため息をついた。
「そんなものを実現しようなんて、正気の沙汰じゃねぇな……」
リューナは唸るように言った。その言葉にハイラプラスが頷いた。
「その通りですよ、リューナ。あいつは私の瞳を奪った時点で、すでに正気を失っていたのでしょうし」
ハイラプラスはスッと背筋を伸ばし、一同の顔を見回した。
「――そこで、お願いがあります。『場所』の特定をするために、私に皆さんの魔力を貸していただけませんか」
執務室の中央からテーブルや椅子が片づけられ、床に魔法陣が描かれた。
ハイラプラスがその真ん中に立ち、取り囲むように描いた外周の五つの頂点に、リューナ、トルテ、ディアン、ダルバトリエ、そしてフェリアが立った。
「私に意識を同調させたら、こちらへ魔力を送り込んでください。迅速かつ正確に情報を引き出したいので、圧倒的な力の差をつけて臨みたいのです」
リューナたちは頷いた。手順についてはすでに詳しく説明されている。ハイラプラスが手を掲げたのを合図に、足元の魔法陣が光り輝いた。
ドゥルガーは烈風のなかで、砂一粒残っていない大地に巨大な魔法陣を描こうと歩き回っていた。特殊な染料を垂らし、その色を地面に固定させる為の魔導の技を行使しつつ、である。
非常に高度で複雑な魔法陣であり、ただひとつの間違いも許されないため、こうしてドゥルガー自らが作業をしているのだ。ザルバスがもっと使い物になればいいのにとも思うが、自分と張り合えるほどの頭脳を持つ者がいないので……仕方あるまい。
「憎々しいハイラプラス、あいつ以外はな」
ドゥルガーは相手の顔を思い出し、なおいっそう不機嫌そうに顔を歪める。ミドガルズオルムの襲撃で目の前からは追い払ったが、できれば抹殺しておくことができていたら何の憂いもなく事を進められたのに……とも思う。そこまでザルバスに期待できるとも思えなかったが。
「いつこちらに気づくかわからぬからな……策をいくつも用意しておかねばならないし……面倒なことだ」
ぶつぶつとつぶやきながら、半分以上描き終わった魔法陣を見回す。腰を屈め、低い姿勢で長時間作業している為に、首から腰にかけて疼くような痛みが消えず、ひどくつらい。回復のための魔導の技を使う間も惜しみ、動き続けている。
いつ『極』が来るのか、正確なタイミングが判らないのだ。作業は一刻でも早く終えておかねばならない。
「あの女……結局今回も最後までは役に立たないというわけか」
ズキンッ! ドゥルガーが苦々しげにつぶやいたとき、右目に刺すような激痛が走った。
「うがっ!! ……クッ……な、何だ!?」
あまりの痛みに危うく意識を失いかけ、力の抜けた手から貴重な染料を入れた筒が地面に落ち、中身がこぼれた。吹きすさぶ風があっという間に筒ごと残りの染料を空中へ巻き上げる。
ズクンズクンと脈打つように、焼け付くように痛み続ける右の瞳を押さえ、ドゥルガーはよろよろと歩いた。
「まさか――まさか……?」
ビクン、と背骨が折れるのでは思われるほどに引き攣り仰け反ったドゥルガーに、遠くからザルバスらしき人物が慌てたようにまろびながら駆けてくるのが見える。
――周囲は荒涼としている。赤っぽい岩が露出し、風の浸食に晒されている大地が延々と続き、その上には発光する特殊な染料で中程まで描かれた魔法陣。
遠くに見えるのは、ミッドファルース大陸の中心を取り囲む環状山脈だった。目の前に見えたのは、虚ろに落ち窪んだ『穴』……大地に穿たれた空虚な闇。
くるりと大地と空が回転し、激しくぶれた視界。その後に見えるのは、ただ薄い色の空ばかり。それは突然ただの黒一色に閉ざされ――。
地面に仰向けに倒れていたドゥルガーは鋭い舌打ちとともに立ち上がり、右目を覆っていた手を下ろした。
「ご無事ですか、ドゥルガー様ッ!」
ザルバスが駆け寄ってきた。
伸ばされた腕を振り解き、ザルバスの体を激しく突いた。驚いたような表情で後退る臣下に燃えるような高熱を発する瞳を向け、ドゥルガーが天に向かって吼えるように叫んだ。
「――ハイラプラスめッ! 何と忌々しい、何と腹立たしい小癪な真似をッ!!」
ドゥルガーの右の瞳、本来ハイラプラスのものである瞳が見ていた光景を、その場にいる全員が『視』たのである。
「……ふふっ。少しだけ気分がスカッとしましたよ」
可笑しそうに微笑んだハイラプラスは満足げに頷いた。剣呑な光がその右の瞳をかすめ過ぎたが、すぐにいつもの温厚な態度に戻って言った。
「ありがとう、皆さん。これで『場所』が特定できました」
「あの魔法陣……やつは何て怖ろしいことを考えておるのだ」
ダルバトリエが自分の目を見開いたまま、唸るように低く言った。
「……ひとつの大陸が、いや、世界が本当に壊れてしまうよ。まさか本当に実行しようとしているなんて」
自分の目で――いや、奪われていたハイラプラスの右目で見た光景に、ようやく対面している危機を本当に納得したディアンが震える声で言った。
「発動した時点で大陸は無事では済まないでしょうね……本当に『神の召喚』を行おうとしているとは、驚きを通り越して呆れますよ」
さきほどの表情から一変して、ハイラプラスが淡々と言った。
「ひとつの大陸が……」
リューナとトルテは思わず互いの目を見つめ合った。リューナとトルテの時代――現在の地図には、ミッドファルース大陸は存在していない……。




