5章 大切な約束 4-15
トルテが運び込まれたのは、王宮の内部にある、医療設備が整えられている部屋だった。
「……トルテ……」
つぶやくように相手の名を呼んだリューナは、寝台の上に横たえられている少女を見た。紙のように白い肌には生気がなかったが、白いシーツをかけられた胸が上下しているのがわかる。
リューナは自分の胸に手を置いた。それは母親のシャールがよくやる仕草だった。幼い頃から毎日目にして身についている祈りの動作……そうだ、『癒しの神』ファシエルの司祭ならば、瀕死のトルテを確実に助けられたかもしれない……リューナは思う。
だが、この時代に生きる人々は神への信仰を持たなかった。神は手の届かぬ存在ではなく、魔導こそが叡智として神とひととを繋いでいる。司祭など存在するはずもない。自分の育ってきた、当たり前の時間が懐かしい。……なんて遠く隔たったところまで来たのだろう。
「リューナ、トルテは大丈夫……大丈夫だよ。あのときの君の必死の頑張りが、治癒の魔法が、ここに運び込まれるまでの命を繋いだって、ハイラプラス殿も言っていた」
遠い声にのろのろと顔を上げると、すぐ傍にディアンの顔があった。リューナは唇を震わせ、何かを言おうと口を開くが、言葉はのどにつっかえて出てこない。
「スマイリーがおとなしくあそこに居る限りは、トルテとの繋がりが切れていないということだよ。つまり、トルテは生きている……生きているんだ」
ディアンの言葉と視線に促され、リューナは窓の外、中庭の向こうに見える大広間に目をやった。巨体を丸めるように縮こまらせて待機し続けている『月狼王』の姿が見えている。王宮で一番広い空間とはいえ巨大な幻獣にとっては窮屈だろうに、その影はじっとして動かない。
「俺……あのとき、トルテが遅れていくって言ったとき、何で……気づいてやれなかったんだろう。トルテはひとりで何かを悩んでいた、抱えこんでいたんだ。それなのに俺気づかなくて……!」
「……それを言うなら僕だって同じだ。でもいったい誰がトルテを……」
リューナは力なく首を振った。トルテのことで頭がいっぱいで、あのとき周囲で何が動いていたのか誰がいたのかすら覚えていない。
清潔で明るい室内には、常設の魔法陣や銀色の光沢を持つ何かの器械が整然と並べられている。寝台に横たえられた少女の傍らには、銀色の髪をまとめて縛り、白衣を着用したハイラプラスの長身があった。
「リューナ、ディアン。――彼女は命は取り留めました。ただ……」
ハイラプラスは瞳を伏せた。目の周囲にはどす黒い影があり、疲労困憊している様子だ。
「……ただ、失った血と生命を維持する魔力はどんな魔導の技を使ってもすぐには回復しません。体のほうの傷は完全に消しましたが……昏睡状態がいつまで続くのかは、この状態では何とも」
「そんな――」
リューナは声をあげかけたが、それをハイラプラスは手で制した。
「こうなったことには私にも原因があります。私の甘さが……今回の事態を招いたのですから。この子は救います、必ず」
静かに、決然とした意思を込めて言うハイラプラスの手には、手のひらほどの大きさの輝石があった。虹のように様々な光を内包した、妖しくも美しい不可思議な多面体だ。
「これが『万色』の力をコントロールする魔晶石です。――知っていましたか? この魔晶石には、生命の光そのものをコントロールする力もあるのです。これが今私の手元にあるのは、本当に幸運でした……」
ハイラプラスはリューナとディアンに離れているように手で促し、魔晶石をトルテの華奢な鎖骨の上にそっと置いた。そのまま左手を石の上に翳し、もう一方の手を空中に滑らせるように動かし、白く輝く魔法陣を具現化させた。
「――――!!」
熱い風が吹き抜け、渦を巻いた。呼吸をみっつ数えないうちにその風は治まり、ハイラプラスはガクリと床に膝をついた。トルテの胸の上から魔晶石を取り除け、握りしめたまま、はぁはぁと激しい呼吸を繰り返す。
「どうしたんだ、おっさん!」
「……しの命を、光を……魔晶石を通して……移動させただけ、ですよ」
リューナとディアンはハイラプラスの体を両脇から支えて抱えるようにして、背もたれのある椅子に座らせた。
「『万色』の力は生命そのもの……限界を超える魔導の力。トルテちゃんの生まれながらの素質と、この魔晶石あっての奇跡……トルテちゃんは助かります、間違いなく」
銀髪の青年は、喘ぎながら言葉を紡いだ。魔力を操ることのできるふたりの目には、ハイラプラスの魔力が生命維持のラインぎりぎりまで失われていることに気づいた。
「なんであんた……ここまでトルテのために……」
「……言ったでしょう? これは私の責任なのだと……しばらく休めば私は大丈夫です。それに――」
ハイラプラスは寝台の上で眠り続ける少女に目をやって、愛おしそうに目を細めた。乱れていた呼吸は落ち着いてきたようだ。
「――この黎明の空に昇る太陽のはじめの色の瞳は、我が血族の証なのです。彼女はおそらく、私と同じ血筋の者なのでしょう……私の人生では子を成すことができなくても、他にも親類がこの大陸に居ますから、おそらくは……」
リューナは目を見張った。思わず、目の前の青年と寝台の少女を交互に見つめる。ディアンも息を呑んでいた。
呼吸が落ち着いたハイラプラスは、椅子から立ち上がった。背筋を伸ばし、もはやよろけることもなく。
その様子を見て、いったいどれほどの精神力の持ち主なのだろうかと、リューナは驚嘆した。
「……トルテちゃんは他人の嘘を見抜く力がある。だからこそ、殺されかけたんです」
ハイラプラスは手に握っていた魔晶石を胸に仕舞い込み、代わりに古びた書物を取り出した。両手のひらに余るほどの大きさだ。厚みは指二本分もある。どこから出てきたのか不思議なくらいだ。
古いものではあるが、あずき色に優美な金縁の装丁、表面に描かれた魔法陣に綴られている文字は『真言語』だ。それは一字一句が魔法陣のようなものだといわれている文字である。
つまり、表紙に施されているのは複雑に合成され絡められた魔法陣なのだ。本を開くだけで大変な苦労を強いられる代物である。
「スマイリーには、これを届けてもらったのです。『転移』で運ぶにはあまりに危険な品でしたので、直に運んでもらったのですよ」
「――そっか。ミッドファルース大陸とこのトリストラーニャ大陸は、クリストア列島でほとんど地続きになっているからね。しかし……すごい距離だよ、ここまで」
ディアンが口を挟んだ。大陸から大陸を一両日で渡って来るとは……本気になった最上位幻獣の力は恐るべし、というところか。
「ミドガルズオルム王宮が攻撃されたとき、老院に掛け合ってこの禁書の封印を解き、持ち出しの許可を得たのです。間者であると知ってはいましたが、それができ得る立場にあった者に任せて」
「それって、まさか……」
ルエイン、という名前が舌の上まで駆け上がった。
「そう、そのまさかの人物ですよ。まだ正体を明かすタイミングではなかったのでしょうけど、トルテちゃんに見抜かれ諭されて……この禁書を手に入れる前に行動を起こしてしまったのでしょう。激情に駆られやすい性格ですから……」
いつもはにこにこと本心を明かさないハイラプラスだったが、今は苦渋に満ちた表情をして、掠め過ぎる怒りと後悔の感情を隠そうともしていない。
「……本人も本当にこのままで良いのか迷いはじめていたようなので、できればこちら側について欲しかったのです。この『終末の書』の到着を待って、本人に話をつけるつもりでした」
「『終末の書』……それが、五つに分けられ平和友好の証として各々の種族が保管しているという誓約の書なのですね。僕も現物をはじめて見ましたよ……」
ディアンが口を開いた。呆然としたようにハイラプラスの手元の書物を見つめる。リューナにその本の価値はわからなかったが、ディアンの表情を見てただの本でない事は理解できた。
「まもなく来るんですよ。あの『時』が――。ドゥルガーはそれを利用してこの世界を破壊するつもりなのでしょう」
ハイラプラスが押し殺した声で告げた。
「――ここでする話ではないかもしれませんね」
ディアンが眉を寄せ、まだ目覚めないトルテの寝顔に目を向けた。
だが、ハイラプラスは首を振った。
「いえ、むしろトルテちゃんにも知っておいて頂きたい話です。ですから起きるのを待ってから話の続きをしたほうが良いかもしれませんね。もう間もなくのはずです」
ハイラプラスはリューナのもとに歩み寄り、手を差し出した。そこにはオレンジ色に輝く丸い球が握られていた。
「これは、今のうちにあなたに返しておきますよ、リューナ。装置の充填は終わっています。魔力は満タンですから、起動だけではなく作動するときにも十分に足りますから安心を」
リューナに『歴史の宝珠』を手渡しながら、ハイラプラスが言った。
受け取ったリューナはそれを上着のポケットに仕舞った。もの問いたげなディアンの視線に気づいたが、無言のままハイラプラスに頷いてみせた。
「完成させたばかりのほうは私のもとにありますから、ご心配なく」
それから、三人は各々椅子を引っ張ってきて座った。リューナは寝台の傍でトルテの横顔を見つめ、ハイラプラスは額に指を突くようにして何事か自分の考えに沈んでいた。ディアンはそのふたりを交互に見て、そっと息を吐いて目を伏せた。
そういえば、とハイラプラスが口を開いた。
「トルテちゃんは胸を背中まで鋭利な物で貫かれていましたが、あれは魔導の技『物質生成』によって生み出された剣だろうと思われます。リューナ、あなたにも教えたあの魔導の力ですよ」
言われてリューナは思わず自分の手のひらを見つめた。頭の中でイメージしたままの形を、周囲にある元素を集めて実物にする。ザルバスとの空中戦で使用した魔導の力だ。
「もし心臓を貫通されていたら、彼女は助かりませんでした」
「でも、あの位置は……確かに心臓の真上だぞ」
「ええ、位置的には心臓を通るはずでした。狙いといい傷の具合といい、剣で刺した相手は十分な知識と魔力の持ち主ですから。ただ、トルテちゃんには相手にも予想すらできなかった特殊な魔導の力が備わっていたのです」
「どういう意味ですか?」
いぶかしげにディアンが眉を寄せた。
「彼女の魔導の力は、咄嗟に心臓を保護するためその場所の次元を別次元に転換させたのです。それで剣が心臓を刺し貫くことができなかったのですよ。それは彼女が意図的にしたものではなく、生体反射のような無意識の反応だったのでしょうけれど」
「次元……転換? すごい力なんだね、トルテの魔導の力は……」
ディアンが畏れたように囁いた。
「次元を操り、複合魔法すら自在に行使する力……『万色』の力と根源は同じなのでしょうが、全く別の力として発展していますね」
「……『虹』の魔導士……ルシカかあさまが……そう言っていました」
その声に弾かれたように、三人は寝台の上の少女に注目した。ゆるゆると開かれた目が少し彷徨い、幾分か赤みの戻った顔がゆっくりと横に向けられる。昇りたての太陽のような瞳が、もうひとつの同じ色の瞳を見つめた。
「ハイラプラスさん。あの……」
「……わかっていますよ。彼女を止めようとしてくれて、ありがとう」
ハイラプラスのあたたかい微笑みに、トルテは僅かに眉を寄せ、目を細めた。そしてリューナを見つめた。
「ごめんね、勝手なことをして……」
「いいんだ。ただ、次からは……もっと俺を頼ってくれるとありがたいな。俺のほうがショックでぶっ倒れるかと思ったぞ」
冗談めかして言ったつもりだったが、その言葉にトルテは目に涙を浮かべた。そのトルテの顔がぶれるようにじわりと霞む。自分も同じように涙を浮かべてしまったことに気づき、リューナは慌てて顔を伏せた。
「ふぅむ。『虹』の力とはまた言い得て妙ですねぇ、さすがです。私もそのルシカさんにお会いしてみたくなってしまいますね」
ハイラプラスがニッコリ笑いながら言った。トルテが弱々しくだが笑顔になる。リューナは救われたように顔を上げた。
「色は混ぜれば次第に黒に近づき、光は合わせれば白に近づいていく――太陽の白い光をプリズムにかけて分解すれば、虹のような色模様ができます。空の虹は大気の光学現象。空中にある水滴がプリズムの役割をして光をスペクトルに……あぁ、話がずれてしまいましたね」
リューナもトルテも、ディアンまでもが、肩をそびやかしたハイラプラスの照れたような笑いにつられ、はっきりと笑顔になった。
「さて――トルテちゃんも起きたことですし、場所を変えて説明しましょうか。この書に綴られていることを、ね」
ハイラプラスは手にしている書物を掲げて三人の顔を見回した。
シーツの擦れる音に気づいたリューナは、起き上がろうとするトルテを手伝おうとして振り返り――ぎくりとして伸ばしかけた手を止めた。
「と、トルテ、待て!」
狼狽したリューナの声に目を向けたディアンも「うわっ」と短く声を上げてまわれ右をした。ハイラプラスはすでに礼儀正しく目を逸らしている。
「え……きゃあっ!」
トルテは自分の体に視線を落とした瞬間悲鳴をあげ、ずり落ちかけていたシーツを慌ててかきあげた。
「トルテちゃんはまず服を着てから、ですね。新しいものを持ってこさせましょう。ささ、ふたりは部屋の外へ出た、出た。はいはい、急いで」
リューナ、ディアン、そしてハイラプラスは廊下に出た。どすどすと歩いてきたダルバトリエを扉の前で押し留め、男たちは廊下に所在なく佇んだままトルテの着替えが届くのを待ったのだった。




