4章 タラティオヌの飛翔王 4-10
「でもさ、どうしてそいつの名前がスマイリーなんだ?」
リューナは疑問を口にした。トルテの肩に、動かなければ襟巻きのように見えなくもない、しなやかな胴を持つ生き物を見つめる。幻獣なので、正確には生き物とはいえないかもしれない。
漆黒といえる闇色の胴体は見事な毛並みに包まれていて、腹や脚は赤みがかっている。たっぷりとした尻尾は先に行くにつれて白く輝くような色に変わっている。瞳は一対。色は冴え冴えとした月光のような、灰色がかった乳白色だ。
眺めていたら、視線が合った。ぐるるる、とドスのきいた低い声で唸られる。
「やるか、こいつ」
とばかりにリューナが睨み返すと、相手も小さな牙を剥き出してくる。
「どこがスマイルっぽい名前なんだ、ちっとも笑ってないじゃんか。とはいえ、本体はでかいんだよな……メナスとか他の名前に改名したほうがいいんじゃないか」
リューナがぶつぶつと口の中でつぶやいたら、トルテの手が幻獣のミニチュア版の顔をそっと掴んだ。
「ほら、見てください」
トルテが後ろから手を伸ばし、幻獣の頬と顎を持ち上げるようにしてリューナに向けた。口を半ば開いている獣は……確かに笑っているみたいな顔になった。リューナは思わずぷっと吹き出してしまう。
「確かに、可愛いな。そうやると」
つられるように手を伸ばすと、容赦なくガウと吠えられた。手を引っ込めたリューナは、むぅ、と顔をしかめる。
そんなふたりと1体の様子を眺めながら、ディアンが楽しそうに笑った。
「うふふ、みんな仲良しだね。それにしても、幼なじみがいるなんて羨ましいよ」
笑う動きに合わせて、その背中にある翼もふるふると動いた。今はたたまれているその翼が、空を舞うときにあれほど大きく力強く羽ばたけるのが不思議になるくらい、繊細な印象の羽毛だった。
「こいつとは仲良しじゃねぇ!」
ガウガウガウ!
同時に返事がふたつ返ってきて、ディアンだけではなくトルテまでもが笑うことになった。
「微笑ましいですね~、みなさん。若いっていいですねぇ」
のんびりした声に目を向ければ、にこやかな表情をした銀髪の青年が、飲み物の入った杯を手にゆったりと椅子に座っていた。
「若いって、いくつなんだあんたは」
リューナが半眼になる。
ここは、ゼロ番街区にあるミドガルズオルム王宮の一室である。いちいち建物に長い名前がついているのがリューナには面倒に思えてしまうが、なるほどたいそう立派な建物だったのだ。
騒ぎになった広場を囲むようにしていくつも連なる建物全てが、この王宮の一部だった。
銀髪の青年――ハイラプラスは、身を隠すために長くこの王宮に立ち入ることを避けてきたのだが、騒ぎで姿を現してしまったことと、まだ少年とはいえ飛翔族の王であるディアンが一緒に居るので、遠ざかったままではいられなくなったらしい。
単に面倒くさくなっただけじゃねえか、とリューナはこっそり心の中で修正しておいたが。
もっとも、歓待を受ける飛翔族の王は居心地の悪そうな様子で目を彷徨わせてばかりいる。
ちなみに、この場に居るのはリューナとトルテ、ディアンとハイラプラスのみだ。人払いをしてあるのだが、それでもきらきらと輝く薄壁の向こうには、警備兵たちがぎっしりと詰めているのがリューナには気配で判る。
「ディアン、落ち着かないみたいですが、どうかしたんですか?」
スマイリーの頭の上の毛を指先で優しく撫でながら、トルテが訊いた。笑いが収まった途端、またディアンが足を踏み換えてそわそわとしはじめたからだ。
「えぇ、実は、僕は正式にここまで出向いてきたのではありませんので。いつタラティオヌから迎えが来るかと思うと、なんだか不安で……」
「あの王宮の兵……だっけ。なんだか妙に荒っぽい連中だったもんなぁ」
リューナが追っ手たちの様子を思い出しながら言うと、ディアンは苦い表情で頷いた。
「ええ。それに僕は王ではありますが、自分自身で決定を下すことが許されていないほど、弱い立場なのです。配下たちにも、僕は……形だけあればよいと揶揄されているようで」
「即位して間もないから、まだ兵たちに侮られているのかもしれませんね。歳若いあなたですから――。しかし、あなたは立派に民たちを引っ張って行ける器の持ち主だと私は思います。亡き先王の御名に隠されてしまって、まだ民たちに真のお姿が伝わっていないのでしょう」
ハイラプラスが言った。彼は本心から言ったのだろうが、その人柄をよく知らない者からすれば、慰めの言葉に取られたかもしれなかった。
ディアンは、少年らしく瑞々しい唇を噛んだ。目を、つとそむけるようにして低く言う。
「いえ……ご憂慮くださってありがとうございます。ですが実際にはひとりの男によって、僕の――いえ、僕と父の政治の采配はすでに奪われているのです」
その言葉を聞いたハイラプラスが片眉を上げた。
「父の参謀としてドゥルガーという名の者が王宮に現れたときから、周囲の様子が変わりはじめました。どんな魔法を使ったのかは知りませんが、兵たちも、そして父王までも、あいつの言いなりになったのです。……僕もまた軟禁状態にされてしまい、父王が亡くなってしまったときにも死に目にすら会わせてはもらえなかったのです!」
最後の言葉が叫ぶように発せられたときには、ディアンの目に涙が滲んでいた。
トルテが無言で立ち上がり、ディアンの傍に歩み寄って、彼の震える手を握りしめた。
「即位式のときだけ民の前に出て、またタラティオヌの王宮内に閉じ込められたまま長く過ごしておりましたので……息が詰まりかけていました」
ディアンは取り巻きの隙を突いて魔導の力『転移』を使い、この都まで飛んだのだと語った。涙は一滴も流さなかった。王としての威厳は、小さな少年であってもしっかりと身につけているようだ。
この都市にまで追っ手がいたのは、おそらく魔導の力の行使が、監視塔の記録に残っていたからだろうということだ。彼の動向は筒抜けだったのである。
ハイラプラスは、その話のなかの相手側に憤りを覚えているのだろう。表情は穏やかながら、瞳には剣呑な光を浮かべていた。
「魔人族の王も不在ですし、祭りだというのに不穏なことが重なりますね。これも、長きに渡り繁栄を続けてきた王国の衰亡の兆しなのかもしれませんが」
「ハイラプラス様! 他人事のようにおっしゃらないでください」
入り口からルエインが顔を突っ込んで声をあげた。いつから聞いていたんだ、とリューナはあきれてしまう。
「ドゥルガーも同じようなことを洩らしてました。この王国はもう終いやもしれぬな、と」
ディアンは突然の乱入にも動じず、口を開いた。ハイラプラスはその言葉に長く嘆息した。
「自分で同じようなことを言っておいて何なのですが、危険な考えですねぇ……ふむ」
杯を置き、両手の指を組んで椅子に背を預け、遠くを見つめる目になった。
「彼に、果たして全く別の思惑があるのか……まったく、嫌な予感ばかりしますね」
そしてハイラプラスは、そこではじめて入り口の扉から顔を突っ込んでいた金髪の助手に向き直った。
「ルエイン、私の居場所を嗅ぎまわっていたという連中につきましては、何か掴めたのですか?」
ルエインは部屋に入り、きちんと扉を閉めて背すじを伸ばした。今は背中に流されたままの髪が、さらりと揺れる。
「はい。お察しの通り、飛翔族のタラティオヌ王宮の兵で間違いなさそうです。立派な鎧を着て変装してはいましたが、武芸の達者なものには、不自然な動きを隠し通せるものではありませんでした」
じゃあ、この時代にも俺と同じような剣士とか、まともに戦えるやつもいるんだな――リューナは思わず身を乗り出した。
そのとき、ハイラプラスとルエインが、同時にリューナとトルテを交互に見つめた。あまりにも同じタイミングだったので、ふたりともぎょっと動きを止めてしまったくらいだ。
リューナとトルテもまた互いに目を見交わし、やがてふたり通ずるところがあったように目を伏せた。未来から来たふたりはこの先の歴史についてすでに知っているのだろうと、思われているのだろう。ディアンの為にも、有益な情報が多くあればそれに越したことはない。
足をもじもじと動かしているふたりを見て、ハイラプラスは目を細めたが、何も言わなかった。
ひとりディアンは訳がわからず、その場の雰囲気が微妙なものに変わったことだけを理解して途方に暮れてしまっていた。
その手を握ったままだったトルテが、手を離して自分が座っていた席に戻り、改めてハイラプラスとルエインに視線を向けた。
「あたしたち、実を言うと知らないんです。この時代の歴史を記した書物はひとつも残されていません。また、語り継がれる物語としてはあまりに年月を経たものでありますから」
トルテは静かに語り続けた。
「歴史の鎖の輪は、この先でぷっつりと途切れているんです。だからあたしたちにも、具体的にどうなったのか説明できないんです……すみません」
「そうですか……」
「すまない。その切れた鎖を探し出したくて、俺たちは『歴史の宝珠』を求めたんだ。まさか、知りたかった歴史そのものに放り込まれるとは思っていなかったけど……」
リューナが謝ったのは、ここに来る前には、滅亡にしろ何にしろ、他人事として浅く考えていたことに対してだった。その気持ちを正しく汲み取れたのは、おそらくハイラプラスのみだったのだろうと思われるが。
ハイラプラスがもしリューナと同じ境遇であったのなら、自分もまさにそんな好奇心を持って行動していたに違いないと自覚しているだろう。そしてそのことも、リューナには伝わっている。
「行き過ぎた好奇心は身を滅ぼす……それ以上は聞かないようにしておきます」
ハイラプラスはそう言って、にこっとリューナたちに笑いかけた。そして、さりげなく飲み物のおかわりをルエインに向けて頼んだのであった。




