2章 時のヴェールを越えて 4-5
リューナは周囲を見回した。幸い、今は視界が晴れている。
信じられない規模だが、眼下に見えるのはひとの造り出した都市だ――しかも、リューナが知る王都ミストーナが五つは余裕で入るほどの広さがある。
円状に広がる大都市の外周を囲むように、白い塔が聳えている。どれも円筒という同じ外観、そして同じ高さだった。五百リールほどはあるだろうか。
まるで蜂の巣にみられるような模様が、輝く白い光の筋となって塔の表面に現れている。内部にはもうひとつ塔があるのか、柱のような影が透けて見えていた。
リューナは背後に目をやった。直径三十リールほどの幅がある円状の屋上には殺風景なほど何もなく、うっすらと大きな紋様が描かれているのに気づいた。
「魔法陣……なのか?」
魔術学園の学園長の息子として、また魔導の力と係わる機会の多い身としても、ひととおりの知識はあるつもりだったが、何の魔法陣なのかさっぱりわからなかった。
「気になって、ます? これ……は、透視と空間、時間、察知、記憶……複数の魔法陣が、組み合わされて……ます、ね」
背負われているトルテが、途切れ途切れに言った。そのあと、ぐったりとリューナの肩に重さがかかる。
「組み合わされた魔法陣?」
リューナの言葉に、トルテは答えなかった。感じる重さからも、意識を失っているのか眠っているのか、答えられる状態にないことがわかる。
「くそっ」
リューナは『歴史の宝珠』だった装置の場所まで戻った。だが、パネルを叩いてもレバーを握ってみても、何の反応もない。
少し離れた場所に、中央に展開されている魔法陣に比べればずっと小規模な魔法陣があることに気づいた。こちらの描かれた意図は一目でわかる。『転移』のための魔法陣だ。
見回した限り階段も扉も見当たらないことにも、これで納得がいく。移動手段は魔法陣に限られるのだろう。母方の祖父であるソバッカから、そういう仕掛けばかりの遺跡の話を聞いた記憶があった。
選択肢はあまりない――。
リューナは、迷うことが嫌いだ。いつもの長剣は背中にないが、ベルトには短剣が留められている。いざとなれば魔術も使えるのだ。直接的な攻撃に使うのは好きではないが、好みを言っている場合でなければ厭わない覚悟だ。
魔法陣に足を乗せる。転移の魔法特有の浮遊感があり、目の前の光景が変わった。先ほどと広さはあまり変わらないが、周囲には透明な壁が張り巡らされている。上には白く継ぎ目のない天井があった。
「塔の内部か……」
リューナは口の中でつぶやいた。
「おや、侵入者ですか?」
背後から掛けられた声に、リューナは心臓が跳ねるほどに驚いた。直前まで何の気配も感じなかったからだ。
弾かれたように振り返ると、そこには銀髪の人物がひとり立っていた。背後には透明な壁、そしてその向こうに広がる都市とゾムターク山脈の連なり。外の明るさに比べて、フロアは暗かった。その人物は逆光になる位置に立っているので、細身で背が高いこと、銀に透ける髪が肩より少し長いことくらいしか判別がつかなかった。
「あなた――所属はどこです? 見た限り人間族のようですが、コードが見えませんね」
声は、男のものだ。おっとりとして穏やかで、敵意は全く感じられない。その穏やかさが不気味なくらいだ――不敵な、とでもいえばいいのか。
「人間族であって、コード持ちでない……あなたたちの顔は記憶にありませんが……おや?」
その人物は、真っ直ぐに逡巡することなく、すたすたと歩み寄ってきた。リューナは警戒して一歩片足をひき、右手はトルテを支えたまま、左手のほうをベルトの後ろに回した。
「警戒しなくても、危害は加えませんよ」
くすりと微笑みながら数歩手前で立ち止まった相手に、リューナは歯噛みした。今のリューナの間合いにぎりぎり入ってこなかったのだ。
「あんた、只者じゃないな。雰囲気からして魔導士かと思ったんだが。何者だ?」
リューナは挑むように相手を見据えて言った。魔導士は、大陸には数えるほどしかいないはずだ。もちろん、魔導の力を隠して生活している者はいるかもしれない。だがトルテの母であるルシカが、王都をはじめ各都市と国境に展開している魔法動向の監視体勢を整えてからは、国内に隠れ住んでいるというのは難しいだろうと思われた。
目の前に立つ魔導士の存在そのものが驚くべきことだった。
だが、うすうすと気づいている――ここは、自分たちの知る世界ではないと。自分の中にある思い込みに捕らわれるのは危険だ。
目の前まで歩み寄ってきた相手の姿は、すでにはっきりと見えている。腰に剣はない。青年と呼べる外観をしているが、おそらくもっと年齢は上なのだろう。そのあたりは判断をつけにくい。
何故かはわからないが、青年の面影には覚えがあるような……知らないはずの顔だが、なつかしさすら感じるのだ。
「私の顔を知らないとは。それが嘘なら間者かと疑うところですが」
ふふ、と楽しそうに笑い、青年は名乗った。
「ハイラプラス・エイ・ドリアヌスシードといいます。しがない研究員ですよ。長い名前なのでハイラプラスでいいです」
リューナの目が見開かれた。すぐに内心の驚きを押し隠して平静を装った。だが、相手はその一瞬の驚きを見逃さなかった。
「わたしの名は知っている……ふむ。まあ、いいです。そんな瑣末なことを気にしている場合ではないでしょう。あなたが背負っている女の子、きちんと休ませてあげないと危ないですよ」
心配そうな表情ではあるが淡々と告げられたその言葉に、リューナは今度こそ驚いた表情を隠せなかった。
「どういうことだ、危ないって……!」
「生命を維持するラインぎりぎりまで魔力を使い果たしていますね。早くきちんと休息を取らせてあげないと、取り返しのつかないことになります」
「なっ?」
リューナは思わず肩越しに振り返った。トルテの顔が視界の隅に入るが、そのまぶたは苦しそうに伏せられたままだ。
「トルテ!」
リューナの声に、トルテがぴくりと反応した。目を開き、ゆっくりと瞳を上げる。
ハッと息を呑んだ気配を感じ、リューナは思わず目の前に立つ男の顔を見た。――相手の顔を直視し、なつかしさを感じた理由を理解した。トルテと瞳の色が同じなのだ。相手もそのことに気づいたのだろう。
――昇りたての太陽のような、透き通ったオレンジ色の瞳。稀有な色彩。
ハイラプラスは意を決したように迷いのない様子でリューナたちに歩み寄り、高い背を屈めるようにしてトルテに視線を合わせた。
「なっ、おまえ、なにを――」
「危害は加えませんと言ったはずです」
ハイラプラスがリューナに向けて鋭く言った。静かだが、有無を言わさぬ口調でリューナの発言を封じ込めた。上に立って人に命令を下す立場にある人間が持つ能力のような。
リューナは悔しさのあまり唇を噛んだが、それ以上は何も言わなかった。
「何をしていたのかは知りませんが、あまり無茶をするものではないですよ、お嬢さん。応急的な処置になりますが、今よりは楽になるはずです」
ハイラプラスはトルテに手を差し出した。トルテは迷いながらも頷いた。ハイラプラスの指がわずかに動き、周囲に魔法陣が現れた。突然のことだったのでリューナは驚いたが、トルテは僅かに視線を動かしただけだった。
優しい魔導の輝き――緑に輝く魔法陣は、すぐに細かな粒状の光になり、トルテの体を包み込んで消えた。
「心配しなくてもいいです。魔力を分け与えただけですよ。気休め程度ですから、今すぐきちんと休息する必要があることに変わりありませんが」
「このひとの言葉に嘘はないです、リューナ」
背中から、いくぶんしっかりしたトルテの声が聞こえてきた。リューナがほっと安堵のため息をつく。
その様子を見ていたハイラプラスは、目を細めて穏やかに微笑み、言った。
「あなたたちには『魔導識別コード』がありません。市民番号みたいなものですが、それが必要なさそうなのはなんとなくですが理解できました。ただ、それでも疑問はまだ幾つも残ったままですが」
リューナには何と応えて良いのかわからなかった。
ハイラプラスと名乗る者が目の前にいるということは、やはりここは過去の世界なのかもしれない。『歴史の宝珠』が見せている幻影でないとしたら、時間の流れをさかのぼり、この場所に到達したということになるのだろうか。
リューナが頭の中で考えをまとめているうちに、トルテが口を開いた。
「ここは過去の世界なのですか? リューナ」
そのものズバリ、トルテは疑問を口にした。
リューナは思わず目の前に立つ男に目を向けた。
ハイラプラスは口元から微笑みを消さないまま、くるりと背中を向け、肩越しにふたりを振り返った。
「君たちが踏んでいる魔法陣は一方通行です。屋上に戻るほうは、こちらの魔法陣になりますから」
言いながら歩き出し、少し離れた別の魔法陣の前で立ち止まった。足元の輝きは青、ちなみに、リューナたちの足元の魔法陣は白だった。
「一緒にいらっしゃい。ふたりがここへ来た手段が、上に残されているのでしょう? 見せてもらいますよ」
言い終えるが早いかハイラプラスは魔法陣を踏み、すぐにその姿を消した。
「ちょっと待て!」
リューナが声をあげたが、遅かった。
男を追わないわけにはいかなかった。もし装置を壊されてしまったら、と思うと心配になる。この状況が、装置が見せている幻影だったとしても、本当に時間を飛び越えてここに到達してしまったのだとしても、その装置を壊されてしまったら何が起こるのか予想がつかないのだ。
「トルテ、行くぞ」
背中に掴まっている少女に声をかけ、リューナはハイラプラスを追って青の魔法陣に飛び込んだ。転移の魔法陣を踏むと一瞬で視界が切り替わり、すぐ目の前にハイラプラスの背中があった。
「うわっ、おっさん、何やってんだよ」
思わず声を上げたリューナだったが、相手の反応はなかった。突っ立ったまま、ハイラプラスは凝視していた――『歴史の宝珠』を。
「なるほど……ふふ、そういうことなのですね。信じられませんが、これで、あらゆる可能性の中から考えても、事実としてこの考えが正しいのだと判断できました」
額に手を当て、顔を伏せたハイラプラスは、ひとつ大きく呼吸をして顔を上げた。リューナとトルテに向き直り、はっきりと言った。
「君たちは未来から来たというわけですね。私がこれから完成させることになる、この『時間移動装置』で」
今度はリューナとトルテが息を呑む番だった。




