2章 時のヴェールを越えて 4-4
「この世界は、もはや腐った果実も同然だな」
摩天楼の頂点から光溢れる夜の地上を見下ろし、男がつぶやいた。
「三千年も続いていますから、当然といえましょう。歴史上でもこれほどに続いている王国などありますまい」
背後から聞こえた声に、男はフンと鼻を鳴らした。
「放っておいても地に落ち、潰れて崩れるだろうが、あいにく私はそこまで気が長くはない。――ザルバス!」
ハッ、と背後の声は畏まった返事をした。
「陛下はどうしておられるのだ?」
「はい。本日のディアン様は自室にこもられたまま、本を読みあさっておられたようです」
「勉強熱心だな」
だが、その知識も役には立つまい。死にゆく者にはな……男の口の端に、無慈悲な笑みが浮かんだ。この王国の行く末と同じだ。力のない、何の役にも立たぬ飾り物めが。
地上を彩る幾千万の光の粒に侮蔑の眼差しを向けたあと、男はくるりと背を向けた。片膝を床に落としたままのもうひとりの男の傍を通り過ぎるとき、低い声で問うた。
「あの男の行方は掴めたのか?」
「いえ、まだです。なかなか狡猾な男でして。……ただの学者にしておくのは惜しいですな。政治の世界にでも飛び込んでいたならば、最高評議会か王の座にでも就いていたかもしれませんが」
「敵に回らなくて良かったではないか。だが、泳がせておくのはもう終いだ――奴には消えてもらわなければならなくなった」
歩き続ける男の姿が闇の中に見えなくなるとき、膝をついた男の耳に刃物のような言葉が残った。
「見つけ次第、ハイラプラスを抹殺せよ」
完全に男の気配が消え、膝をついたままの男だけがその場に残された。顔を伏せたまま、男が口の中でつぶやく。
――わたしの真の君主は、ドゥルガー様だけにございます。この忠誠と我が魂は、永遠に貴方様の為だけに。
膝をついていた男はスッと立ち上がった。銀の髪が揺れ、上げた顔には赤い瞳がぎらりと煌く。右手を掲げ、一振りすると、瞬時に具現化された魔法陣の発動とともにその姿は消え失せた。
あとに残されたのは、地上に輝く大都市の光の本流、そして魔導特有の緑と青の輝く残滓のみであった……。
トルテとリューナ、ふたりの『秘密基地』には昼の陽光が溢れていた。
リューナは傾いていた『歴史の宝珠』を置き直し、その周囲を歩き回りながらパネルや計器のようなものに刻まれている魔法語を読んでいた。
もう『宝珠』と呼べるのかどうかはわからないが、明らかにこの装置は乗り込むためのものと思われた。座席のようなものと操作レバーが並んでいる。座ったときに見えやすいように設置されたパネルや計器も、乗り込むことを想定して造られているとしか思えない。
「知識を求めるもの、我に従い、我を解き放て」
「ん? なんだ、それは」
トルテが発した突然の言葉にリューナは戸惑ったが、すぐにハッと思い出した。
「それは『歴史の宝珠』が封じられていた祭壇に綴られていた文字だな」
トルテはこくんと頷いた。
「その言葉はきっと、稼動できるように最後の封印を解除して、この装置を使える状態に整えることを差していたのだと思います」
「続く言葉は、えーっと――」
「歴史をその目で視る覚悟のあるもの、我を操作せよ」
「操作せよ、か……」
リューナは腕を組んで、目の前の謎の装置を見つめた。おとながひとり乗れば丁度よいくらいの席に、左にレバーがひとつ。右にレバーがみっつ。席の前にパネルがふたつ、それぞれに計器のようなものと、透明なガラスのような四角い板が張りついている。奇妙なものではあったが、整然としていて美しいとさえいえる、洗練された印象を受けた。
「歴史をその目で視るってことは、これは映写機なのかもしれないな」
「作動させてみますか?」
トルテが床から立ち上がり、リューナの傍まで近づいてきた。装置を下手に動かしていいものか、リューナは迷った。まだ全部を調べたわけではないし、図解を見ても使い方まで書いてあるわけではなかった。
「覚悟、って言葉が引っかかるんだ」
「でも、眺めていてもはじまりませんし」
微笑みながらトルテが席にちょこんと座った。小柄なので、もうひとりは席に座れそうだ――リューナはその隣に座った。今朝早く王宮に帰ったとき、湯でも使ってきたのだろうか――トルテからは微かに昨夜とは違う甘く爽やかな香りがした。
左に座っていたトルテが、目の前のパネル――向かって左側のパネルに指を触れた。
ヴン!
鋭い作動音とともに、魔法陣のようなものがふたりの真正面の透明な板に出現した。それはすぅっと消え失せ、次に魔法語がずらりと並んだのである。
それを読んだとき、リューナの首筋の毛がぞわりと逆立った。
「『リューナ・トゥルーテ、確認終了。ようこそ』――ですって。すごいですね、あたしたちのことをきちんと認識しているなんて。あらかじめ組み込まれていた魔導のプログラムみたいですわ」
トルテが無邪気に笑った。リューナはトルテの言っている意味が理解できず、目を剥いてパネルを見つめている。
「つまり、この装置は俺たちが乗っていることをわかっていて作動した、ということか。この下に書いてある文字は『真言語』だよな?」
「はい。――『実行』と書いてあるんですわ」
律儀なトルテは、翻訳した大陸共通語ではなく、『真言語』そのもので発音してみせた。
その瞬間、周囲から音が失われた。
――『音声確認、実行』。その表示を最後にパネルの文字が消え――。
部屋を膨大な魔導の白い光が満たし、染め上げ、全ての色彩を圧倒した。
トルテが悲鳴をあげ、リューナは彼女を咄嗟に抱きしめたが、押し潰されるような圧力のかかった空間の中では移動することはおろか身動きひとつできなくなっていた。
ただ、腕の中のトルテを抱え込むようにかばうのが精一杯だ。麻痺したように霞むリューナの頭の中に、祭壇に刻まれていた最後の言葉が鮮やかに浮かび上がる。
畏れぬもの、時のヴェールを越えて真実を見るものなり。
意識を失ってから、どのくらい経ったのだろう……。白い霧の中でリューナは目覚めた。
「ここは、どこだ」
のろのろと顔を上げると、自分が幅の広い椅子のようなものに座っていることに気づいた。腕に温かさと鼓動を感じ、視線を落とすと、自分の胸に寄りかかるようにしてトルテが気を失っているのがわかった。
「トルテ」
呼びかけながら、額にかかっている前髪を指でそっと掻き分ける。額に手を当ててみたが、熱くも冷たくもなかった。体を眺めたが、外傷も見当たらなかった。
ホッとしてもう一度腕に力を込めて抱きしめると、トルテのまぶたが震え、おずおずと開いた。
「りゅー、な……?」
「ああ、ここにいるぜ。俺たち無事みたいだ」
リューナの微笑みを見て、トルテはホッと息を吐いた。
「ごめんなさい。言葉を発しただけで動き出すなんて、うかつでした……」
力なく語るトルテに、リューナは違和感を覚えた。
「どうした、トルテ。どこか痛むのか?」
「あ、ううん。心配しないで……ただ、なんだか、どこにも力が入らなくて。どうしてなのかしら……」
トルテはぐったりとリューナの胸に体を預けたまま、かすれた声で弱々しく言った。リューナはトルテの手を握り、ぎゅっと力を篭めた。
「大丈夫だ、俺がついてる」
リューナは表情を引き締め、周囲に油断なく目を走らせた。
周囲はしんと静まり返っている。殺気も気配もない。視界は、濃い白い霧に閉ざされている。すぐ傍にいるトルテと、座ったままの装置のパネルが見えるくらいの距離しかわからない。
「いつまでも、こうしているわけにはいかないな」
原因はわからないが、具合の悪そうなトルテのことが心配だ。リューナはトルテを背負い、ゆっくりと足を装置から降ろした。硬い床の感触――まるで継ぎ目のない、すべらかな表面だった。だが、ツルツルしすぎて滑る心配はなさそうだった。不思議な感触が靴を通して伝わってくる。
床をグッと踏みしめ、立ち上がる。装置は魔力が切れたのか、故障したのか、沈黙したまま光ひとつ点いてはいなかった。
リューナは装置をその場に残したまま、慎重に歩みを進めた。一リール先もはっきり見えないくらいの濃い霧のなかだ。いきなり床が消え失せる、なんてことがあったら取り返しがつかないことになる。
「りゅ、な。あたしたち……どうしちゃったの、かな。ここ、どこですか?」
「その問いには、俺にも答えられないんだ。とりあえず――ここがどこなのか確かめたい。家の近くなら、おまえの具合を診てもらわないと」
「あたし……平気、です」
トルテがやわらかく微笑んだのが、声の調子でわかった。つられるようにリューナの頬に力が入り、心が落ち着いた。らしくもなく、焦っていたのだなと自覚する。
白い霧のようなものが揺れ、ふいに視界が開けた。
そこに広がった光景に、ふたりは言葉を失った。
広い空は近く、見下ろした地表は遥か遠かった。たくさんの小さな粒は、まるで輝石の欠片を箱から撒いたときのようにきらきらと陽光を反射しながら広がっている。そして、その中から幾本も、こちらと同じくらいの高さの建造物が雲を突き抜けて聳え立っていたのだった。
「白い霧は、雲だったのか……」
王都ミストーナにある白亜の巨大建造物『千年王宮』にだって、こんなに高い塔はありはしない。大陸のどこを探しても見つからないだろう。そんなに高いものといえば、ゾムターク山脈のゴスティア山くらいしか思いつかない。
そういえば、彼方に見えている山脈……眺める高さこそ違うが、あれはゴスティア山ではないか……?
「――どうやら俺たち、とんでもないところに来たみたいだな」
呆然と発せられた、かすれたようなつぶやき。リューナにはそれが自分の声には思えなかった……。




