1章 歴史の探求者たち 4-2
好奇心旺盛なふたりは成長し、それぞれが勉強の日々に追われるようになった。
リューナは学園長の息子として、読み書きから計算、世界と魔法の理から歴史、様々な勉強をさせられた。
だが、父親に反発していたこともあり、リューナは魔法や魔術よりも剣の修行のほうに夢中だった。王宮の騎士隊長と傭兵隊長が、幼いリューナに剣術の基礎を教え込んでくれたおかげで、あとは独学でもなんとかなった。
それにリューナには、他の戦士や剣士にはない強みがあるのだ――そのおかげで、たいていの相手には負けない自信がある。
トルテは、王宮に暮らす者としてのマナーや知識、帝王学に戦術、計算……歴史と魔法の知識に関することにはトルテは実に楽しそうに取り組んできたが、他の学習――特にマナーに関してはあまり熱心な生徒ではなかった。
のほほんとしているトルテがあくびをすれば、マナーの講師であるメルエッタが眉間に皺を寄せ、使うナイフとフォークの順番を間違えれば小言がその眉間の皺の数だけ続くのだ。
もちろん王宮で毎日普通に食事をするときには、両親も非常にざっくばらんな性格であり、食事は楽しく摂るのが一番だと考えているので、窮屈な思いをすることもなかったのだが。
リューナは物思いから覚め、立ち上がった。
トルテは床に転がる『歴史の宝珠』の周囲を歩き回っていた。リューナを見て首を傾げてみせる。
「リューナ、これってどこが正面で、どこが上なんでしょう?」
問われたリューナも半眼になり、じっと球面を見つめた。なめらかな表面に継ぎ目はなく、窓から差し込む月光を静かに反射しているだけだ。
トルテが引っ張り出してきたノートを開いているが、封印解除の方法しか書き写されていなかったはずだ。
「うーん……とりあえず、明日の朝にしようぜ、トルテ。暗いところで字ィ読んでいると目が悪くなるぞ」
「魔法で明かりを灯します?」
顔を上げたトルテは、あくびを噛み殺しているリューナに視線を向けた。
「いや、腹減ったし、眠い」
簡潔な言葉に、トルテは静かに微笑んだ。その表情は、大人びて見える。
「わかりました。明日にしましょう。あたしも実は……眠くて眠くて」
目を擦りながら同意するトルテに、リューナの中で警鐘が鳴った。窓のそばに駆け寄り、屋敷を素早く観察する。
「裏口の側の部屋には明かりが灯っている。玄関と上の書斎には……まずいなぁ、煌々とついていやがるぜ」
リューナは三階にある自分の部屋の位置に目をやった――あそこまで登れたら大丈夫だな!
「トルテ、魔導の技を一回だけ使って欲しいんだが――」
言いながら振り返ったリューナは、言葉を切った。
トルテは自分の膝を抱え込んだまま、すぅすぅと安らかな寝息を立てていた。
「間に合わなかったか。トルテは『眠い』と言ったらすぐにこれだからな……」
額に手を当ててため息をついたリューナだが、無理もないか、と思い直した。
トルテは律儀な性格だ。約束の時間に遅れたことを気にして、ほとんど休まず歩いて遺跡に向かったのだろう。
遺跡内部に仕掛けられた罠はほとんどリューナによって発動させられ、住みついていた魔獣たちは残らず蹴散らされていたが――方向音痴のトルテのことだ、遺跡内部をかなりぐるぐる歩き回ったに違いない。
リューナは、眠る少女の顔を眺めた。月明かりに、長いまつげとすべらかな頬がくっきりと浮かび上がっている。輝くような金の髪が、さらりと両肩を流れるように覆っていた。
少女の細い腕をそっと掴み、リューナは自分の肩に回した。軽いとはいえ、少女の背丈はリューナの肩ほどもある。起こさないように気を使いながら少女を背負ったリューナは、扉を出てから片手で鍵をポケットから引っ張り出し、しっかりと施錠した。
ギシギシと鳴る木造りの階段を降り、月明かりの中の森を歩く。自分の足が草を踏むシャクシャクという音が聞こえるだけで、周囲は静寂に包まれていた。今は初夏だ。虫たちの声もまだない。
意識しなくても、すぅすぅという寝息がすぐ耳元で聞こえてくる。鼻をくすぐるのは、微かな甘い香りだ。やわらかな感触と心地よい重みに、何だか満ち足りたような幸せな気分になってくる。
だが、いつまでも幸せは長く続かない――屋敷の玄関前に着いてしまった。
「……別に、悪いことをしているわけではないんだし」
リューナは扉の前に立った。魔法語で「開け」と声に出すと、両開きの扉がゆっくりと手前に開いた。リューナや家族の声を感知して開くようになっているのだ。
父親は魔導士ではなく魔術師であるが、魔道具を使うのが好みらしく、この手の仕掛けは屋敷中にあった。幼い頃は、逆向きの開錠の方法がわからず、夕食時まで書庫に閉じ込められてしまったこともある。
広い玄関ホールに入ると、そこは二階までの吹き抜けになっており、目の前に折り返しになった階段が上に向かって続いている。そこから、ひとりの人物が歩いて降りてくるのと鉢合わせた。
「リューナか」
男にしては少し高い声、濃い赤の生地とあざやかな金の縁取りのついた丈の長い衣服、指輪や腰紐には宝石のような輝石がじゃらじゃらとついている。
リューナの父であり学園長である魔術師、メルゾーン・トルエランだ。派手めの衣服は魔術師のローブであり、輝石は全て魔石である。すこぶる不機嫌そうに口の端を歪めて、女の子を背負ったままの息子の姿を見下ろしていた。
「どこへ行っていたのだ? シャールが心配していたぞ」
「かあさんがおれを心配するってのは、ありえないだろ」
リューナは鋭い目つきで言葉を返した。背中には、トルテが安らかな寝息を立てている。声の大きさは、怒鳴る一歩手前で控えておいた。
「ふん」
父親は視線を逸らし、また三階の書斎のほうに戻っていった。
「何しに降りてきたんだ、親父め」
口の中でぶつぶつとつぶやきながら三階の自室に向かおうとすると、玄関ホールの正面にある扉が開いた。居間への扉だ。
「あら、リューナ。おかえりなさい」
黒髪の女性が、ほんわりと微笑んで声を掛けてきた。
「かあさん、ただいま」
リューナは素直に応えた。このひとは、いつでもどんなときにも優しげな表情を変えない。ただ、怒らせたときにはそれがものすごく怖いのだが――。
息子が遺跡を巡って外泊をしようが剣を振り回して魔獣と戦っていようが、心配しているのを見たことがないのだ。
誰に対しても公平で慈愛に満ちた態度で接する『癒しの神』ファシエルの高位司祭の母親シャール。それゆえに、自分は他の子どもたちとなんら変わらない愛情しか注がれていないのではないかと不安に思うこともあるのだった。
「おなか空いているでしょう、リューナ。トルテちゃんをお部屋に寝かせたら、降りていらっしゃい。用意しておきますよ」
「ああ、わかった。ありがとう、かあさん」
リューナは返事をして、階段に足を向けた。
その後ろ姿を見て、シャールは胸に手を当てた。そこにあるファシエルの聖印に、そっと祈りを捧げる。――息子が無事で帰ってきたことへ対する感謝の祈りだ。
足音に気付き、息子の後姿が消えた三階への階段に目をやると、入れ違いになるようにメルゾーンが降りてきていた。
「――やれやれ。放蕩息子め、親に心配ばかりかけおって」
唇を尖らせて言うメルゾーンの腕に手で触れて、シャールは微笑んだ。
「例の遺跡に出掛けていたんでしょう? でも、無事に帰ってきてくれて本当に良かったわ。あの様子だと、成果はあったのかしらね」
「そうだろうな。それに、あの娘に何かあったら、ルシカが黙っていないだろうが……まぁ、嫁に欲しいとか言い出したら、あの親父より国王のほうが『嫁にはやらん』とか騒ぎそうだが」
ふふっ、と口に手を当ててシャールが笑った。
「可愛い姪っ子のことですからね」
それから……、とシャールは言葉を続けた。
「ルシカには連絡しておきました。王宮抜けは絶対テロンの血を引いているからだよね、とか言って笑っていましたわ」
「ったく、母親として心配していないのか、あいつは」
「それだけ、トルテちゃんとリューナを、信頼しているんですわ」
メルゾーンは何か言おうと口を開きかけたが……ふぅっと息を吐いて少し肩を落とした。
「まぁな、その気持ちはわかるし、あいつらは止めても聞かないだろうしなぁ」
誰に似たんだ、と言いながらメルゾーンは愛する妻の肩を抱き寄せた。
「放蕩息子め、ってところは、あなた似ですよ」
にっこり笑うシャールに、メルゾーンはがくっと首をうなだれたのだった。
リューナは鳥の声に目が覚めた。朝の光が部屋にあふれている。
「――今日もいい天気みたいだな」
うーん、と伸びをしてリューナは寝台から降り、立ち上がった。
そのとき、何の前触れもなく、バタンッ、と扉が開いた。
「リューナちゃん! おはようございます!」
飛び込んできたのは、トルテだった。寝巻き姿のリューナに動じないのは、幼なじみの強みだろうか。だが、トルテはパッと立ち止まった。
「あ、あっ。ごごごめんなさいっ」
おや、と目を見開いたリューナの目の前で、トルテはくるりと背を向けた。後ろ手に分厚い本を持っている。おそらく古代魔法王国の文献だろうと見て取れた。
「――やり直しですっ」
そう宣言したトルテは、改めて振り返り、にこやかに声を上げた。
「リューナ! おはようございます!」
脱力感に襲われ、思わず額に手を当てたリューナだった。心配そうに覗きこんだトルテに、「おはよう」と挨拶を返し、リューナは口元に笑みを浮かべてみせる。
「今朝早く、『転移』の魔法陣をシャールおばさまに使わせていただいて、王宮の図書館棟から持ってきたものがあるんですよ。今のあたしたちに必要なものなんです。何だと思います?」
トルテは後ろ手に本を持ったまま、リューナに笑いかけた。
「古代魔法王国の文献だろ――『時間』の魔導士ハイラプラスの遺した」
さっきトルテが後ろを向いたときに、文献の表面にあった魔法語を読んでしまったのだ。
「すごいっ。どうしてわかったんですか、リューナ!」
本気で驚いているトルテに、リューナはため息をひとつ吐き――弾かれたように笑い出したのだった。
トルテの携えている文献は、今まで目を通したことのないものだった。その中身を読めば、何かわかるかもしれない。
高鳴る期待に、リューナとトルテは目を見合わせてニンマリと微笑んだ。




