8章 ルシカの選択 3-22
「い、いまのは何!?」
突然の空間の歪みと衝撃に揺さぶられ、リーファが悲鳴のような声を発した。
「王都が……攻撃されたのよ」
ルシカが蒼白の顔で答える。両腕で自分を抱きしめるようにして、体の震えを何とか堪えようとしている。
「何ッ!?」
ルシカの言葉に、テロンとクルーガーがふたり同時に王都のある方角を見た。遥か眼下に広がる地表の一点で、黒い閃光と赤い炎の柱が立ち上っている。
「まさか、親父!」
顔色を失って声をあげたテロンに、ルシカは張り詰めた声音で言った。
「いえ、『障壁』が展開されている。みんな無事でいるわ。……でも」
空の色も変わり、見慣れたはずの光景に広がる爆発の余波……王都に直撃はしなかったが、衝撃で崩れた建物がかなりあるのだろう――ミストーナのある位置には黒い土煙がもうもうと沸き上がっている。
ルシカの魔導の力を通した感覚には、都市を覆い尽くす巨大結界の発動がしっかりと感じられていた。だが、ハーデロスの怖ろしく圧倒的な気配はなおも強まり続けているのだ。
さきほどの雷を越える威力の一撃を再び食らうことになれば――ルシカはぞくりと身を震わせた。王宮の地下深く、魔法陣の上で祖父や恩師、友人たちの体が燃え上がる光景がまざまざと脳裏に浮かんだのである。
王都とその周辺を覆う『障壁』。それを維持しているのはその身をもって魔力を制御している術者たちだ。障壁の受ける魔法的な力は、その術者たちにも少なからず影響を及ぼす。術者たちは超常の存在ではない。それを考えれば、『障壁』も完全な防御手段ではないといえる。
「次の攻撃を受けたらきっと――。おじいちゃん……みんな……」
ルシカの両目から、大粒の涙が零れた。
「次など、有りはしない。その前に、この神殿を落としてやるッ!」
力強く発せられたテロンの声が、ルシカの耳に届く。顔を上げた彼女の目の前で、テロンは唇から気合いの声をほとばしらせながら、『無』の通廊を維持し続けている祭器に向けて突っ込んでいった。
クルーガーが、リーファが、それに続く。次々と放たれる稲妻を避け、弾き、受け止めながら、自分にできる攻撃方法で、残るみっつの祭器を砕こうと繰り返し突撃している。
(テロン……クルーガーもリーファも、諦めていない)
ルシカは震えていた手をグッと握りしめた。落ち着きを取り戻し、感覚を平らかに研ぎ澄ます。次の攻撃のための力場が生じ、浮揚島の周囲に破壊の力が渦のごとく集まりはじめているのがわかる。
(みんな頑張っている。でも、祭器を全て砕く前に次の攻撃が放たれる。どうすればいい? このままでは王都が破壊され、他の都市も次々と破壊されていく。犠牲が出る。残存しているあたしの魔力は僅かしかない。迷っている時間も……ない!)
ルシカは稀有なる色彩の瞳を煌めかせ、『万色の杖』を握る手に力を篭めた。金の髪を激しく吹きつける風にはためかせながら、決然とした面持ちで真っ直ぐに立つ。
(この浮揚島を、外の空間と切り離してやるわ。それならできる)
オレンジ色の瞳に、無数の白い光が現れていた。生命の魔導の輝きは、さまざまな光を集めた陽光のごとく白に限りなく近い輝きとなって顕現するのだ。
(みんなの力を信じている)
ゆっくりと息を吐き、杖を握りしめた両腕を天高く掲げる。
(だから時間を――あたしが確保する!)
少女の周囲に、白、緑、青、黄、赤、紫、様々な色の魔法陣が次々と展開された。それらは瞬時に組み合わされ、立体魔法陣として形成されてゆく。もし、この場に別の魔導士がいたのなら、彼女がいかに魔法の理を逸した、計り知れないほど強大な魔導の技を行使しようとしているのがわかっただろう。
それが、生命の危険に係わるほどの大術であることも。
――テロン、ごめんね。あなたとの約束、あたしには果たせない。ルシカは彼の背中に、刹那だけ揺れる視線を投じた。
そして表情を引きしめ、『万色の杖』を床に突き、両腕を真っ直ぐに横に伸ばした。
テロンは只ならぬ感覚に打たれて後方を振り返り――息を呑んだ。
ルシカの全身が、眩く光り輝いている。
呼応するかのように、床に倒れる事なく真っ直ぐに立った『万色の杖』が光を放っている。様々な光が混じりあい、溶けあって、太陽のように強烈な白い輝きとなって周囲を染め上げた。
――命の、光だ。いつか経験した、純粋なる魔力の光。
そのことに気づき、覚悟を決めたように静かなルシカの表情を見て……テロンは恐ろしい予感に震えた。彼女は死を覚悟しているのだ。体内の魔力を全て失ってしまったら、それは命の終わりを意味する。
「る……ルシカっ!!」
テロンは我知らず叫んだ。その声に驚き、クルーガーとリーファが振り返る。様々な光の魔法陣と、その中心にいる『万色の杖』と魔導士の姿を。
真っ白な光が爆発的に強まり、ついに浮揚島全体を包み込んだ。天空に浮かぶ島を取り巻く超巨大立体魔法陣として、展開されたのである。
ルシカの生命の魔力の光に支配された空間で、ルシカの澄み渡ったようなオレンジ色の瞳が一瞬、テロンの青い瞳と見つめあった。彼女の決然とした表情が、ふと優しい、哀しみに満たされた微笑みに変わる。
ルシカの唇が動いた。ひと続きだけ、発せられた言葉――。
唇の動きで理解したテロンは眼を見開き……膝を、ついた。
地上から『浮揚島』を見上げていた人々の唇から、思わず感嘆のため息がもれる。
怖ろしい破滅の象徴たる島の全体を包み込んだ白の魔法陣は、失われていた太陽の光のように地上を照らしながら、美しく輝き続けていた。
術者が意識を失い、命を失って、倒れたあとも――。
「いったい何が起こったの!?」
浮揚島の神殿内に、リーファの叫び声が響き渡った。
暗く沈みこんでいた空と地表が消え、白く美しい光に満たされている。距離も方向も判然としない、不思議な空間に島ごと移動させられたかのようだ。
「……ルシカの作り出した亜空間だ」
テロンの声が、低く響く。
目を見開いたまま動きを止めていたクルーガーは、双子の弟の言葉と先ほどまでの光景から、すぐに状況を理解した。握っている剣を取り落とさないよう震える手に力を篭め、なんとか握り直す。彼の魔術の師は『時空間』の大魔導士ヴァンドーナだ。ルシカがどれほどの魔法を行使したのか……想像を絶するほどに凄まじい規模であることは間違いない。
ルシカは魔力を度重なる戦闘で使い続け、満足に回復させることもできないまま、この戦いに臨んでいる。そんな現状で、これだけの空間を創造することは不可能に近い……生命を維持している魔力を全て注ぎ込まない限り。
クルーガーは血を吐くように喉奥から叫んだ。
「俺たちに託したというのか。王都を護り、時間を稼ぐために。なぜだ、勝手に決めやがって……ルシカ!」
彼の視線の先には、床に倒れ伏した姿があった。心を許せる大切な友人であり、少なからず想いを寄せていた相手だった。今になって自覚してしまうのは遅すぎるだろう――自身の心を、クルーガーは激しく叱責した。額を片手で押さえる。そして自分より遥かに衝撃を受けているだろう相手に気づいて視線を向けた。
「……テロン……」
クルーガーはそれ以上何も言えず、双子の弟の背中を見た。
風もない静止した空間のなかで、ルシカのやわらかな金の髪は床にふわりと広がったままだ。太陽のように輝いていた大きな瞳は、伏せられたまぶたで隠されている。傍には、主である魔導士にぴたりと寄り添うように『万色の杖』が転がっていた。たおやかな手指も細い腕も、もはや動くことはない。
「――嘘だぁあああッ!!!」
テロンは叫び、床を殴りつけた。そして立ち上がり、凄まじい形相をして『無』と祭器に向かって突進する。
『無』の手前に歪められた空間が生じ、黒い影が跳び出した。『無の女神』の意思で、邪神の使い魔『闇狼王』が召喚されたのだ。
二体でも苦戦したというのに、現れた数は七体である。浮揚島は亜空間で閉ざされ、もはや現生界を攻撃することはできなかったが、おそらく『無』の向こうは神界のハーデロスと繋がったままなのだ。
「うわぁぁぁぁッ!!」
『聖光気』を身に纏ったテロンは、凄まじい勢いで突っ込んできた冥獣に、己の拳を叩き込んだ。相手の牙で己自身が傷つくのも構わず、容赦のない拳を力任せに次々と繰り出し続けている。
「テロン、自分を見失うなッ!」
テロンに向け、クルーガーが声を張りあげた。
だが、ルシカを失ったことで爆発したテロンの勢いは凄まじかった。一体を力で捩じ伏せ、『衝撃波』で吹き飛ばした。続いて飛び掛かってきた一体を跳躍して躱し、拳でその個体を真っ二つに叩き割る。
テロンの動きに注視していたクルーガーに向け、別の一体が飛び掛かった。一瞬遅れて気づいたクルーガーは身を低く沈め、剣を突き上げるようにしてそいつを串刺しにした。
だが、後方の死角からさらに別の一体が突っ込んできた。まともに喰らい、クルーガーは壁際の瓦礫の中に叩き込まれてしまう。
「くそッ……」
クルーガーは焦った。魔法剣が彼の手からすっぽ抜けて、数歩離れた場所に落ちてしまったのだ。
追いすがるように接近してきた冥獣が、彼に向けて襲いかかる。クルーガーは横に転がり、かろうじて突進を避けた。だが獣は前肢に力を篭めて踏み留まり、ぐるりと彼に向き直る。次は間に合いそうもない――。
ジャクッ! 骨を絶つ音とともに、血が派手に飛び散った。クルーガーの横に、動かなくなった冥獣がドサリと落ちる。彼は頭上を振り仰ぎ、そこにあった顔を目にして心底驚いた。
「シムリア!?」
「油断大敵ってやつだね」
冥獣の体躯から剣を引き抜き、赤毛の女戦士が真面目な顔つきで声を掛けてきた。冥界の獣は、解けるように虚空へと消えてゆく。
起き上がったクルーガーが周囲に視線を巡らせると、テロンやリーファとともに、ザアドとフォーラスが戦っていた。
「全く、あんたたちってば、すごいやね」
瓦礫の上に立っていたシムリアは、身軽にクルーガーの横に降り立つと、彼に向けて挑むような笑顔をみせた。
「邪神とはいえ、本気で神に戦いを挑むんだからさ」
そして真剣な眼差しに戻り、利き腕に長剣を構える。その剣は魔力を帯びていた。ふたりの仲間の武器も、彼女の剣と同じように魔力を帯びたものであるようだ。デイアロスの遺跡から脱出した後で調達したのだろうか――クルーガーは刮目した。
彼らは勇ましく声をあげ、飛びかかってきた闇狼王たちの鼻面に、迷いのない見事な太刀筋で剣を叩き込んでいった。




